霞上千蔭

第1話

ひどい目にあった。

なんて、言ってしまえば簡単だけど

なんでか、言葉がなにもでてこないくらい

心がぼろぼろにされた。


いつもみたいに電車に乗って、暗くなった道を歩いていた。

いつもより疲れていたから、早く帰ってゆっくりお風呂に入ることをただ楽しみにしていた。

橋の下を通ったとき

突然、腕を掴まれた。

口を塞がれ、車の中へ連れ込まれた。

そこからはもう、“ひどいことをされた”としか言いようがなかった。

抵抗の声はいつしか枯れた。


車の外に放り出された私は頭が真っ白になっていた。

ただ思い浮かんだのは家族と、それから大切な彼氏の顔。

ぼろぼろと涙があふれた。

はじめては彼だと思っていた。

優しい彼は、怖がる私のことを思ってずっと待ってくれていた。

なのに。

なのに。

彼にも見せたことのない肌も大事なはじめても奪われてしまった。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

その言葉しか出てこなかった。


それからは不思議なくらい冷静だった。

私は電話をかけて、アフターピルを処方してもらうように頼んだ。

道行く人を襲うような奴がまさかゴムなんてつけるはずもなかった。

貯金しておいてよかったと思った。

家族には知られたくなかった。

私のからだが汚されてしまったことを。

家に帰る前にコンビニに寄って、トイレで服や髪を整えた。


そしていつも通り家のドアを開けた。

共同の部屋でおかえりと笑顔を向けてくれた高校生の妹を見て、これは言えるわけがないとさらに思った。

彼氏にだって、言えるはずがなかった。

ずっと待ってくれていたのに。

ただ、彼をいちばん傷つけない方法を考えた。

これしか思いつかなかった。


私は週末、彼を近くの公園に呼び出した。

どうしたの?

いつも優しい瞳を不安げに歪めて彼は聞いた。

別れよう。

ただひとこと言った。

どうして、と彼がつぶやく。

スキナヒトガデキタノ

感情がこもらないように。

ただそれだけ思った。

優しい彼は、泣いたりなんかしたら私のことを気にかけてくれてしまう。

そう思って。

なのに。

彼が静かに泣くから。

ぐちゃぐちゃの顔で無理して笑おうとするから。

幸せになってね、なんて言うから。

我慢できなくなってしまった。

私は小さな子供のように大声で泣いてしまった。

彼にすがりつきたい気持ちを必死に抑えて、その場に座り込んだ。

彼は泣きじゃくる私を強く抱きしめた。

今度は私につられて泣きながら、震えた声で言った。

ねぇ。何があったの。何でも受け止めるから。お願いだよ。話してよ…。


私はすべて話してしまった。

誰にも話すつもりなんてなかったのに。

そういえば、前にもこんなことがあったなぁと思い出す。

彼と仲良くなったばかりの頃に電話をしたとき、辛かった過去の話をぜんぶ言ってしまったことがあった。

ほんとにひどい人だと思う。

私が隠そうとしても、最後には結局話させてしまう。

私がいちばん欲しかった言葉をくれてしまう。

私のことを受け止めてくれてしまう。

ほんとにひどくて、優しい人だと思う。


あなたの優しさは私には毒になっちゃうね

私はにやっとして彼に言った。

毒になっちゃったかぁ

彼はちょっと眉を下げて困ったように笑う。

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で私たちは笑いあった。

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霞上千蔭 @chikage_

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