エピクロスの水底で

快楽神経系制御措置“アタラクシア”

電脳人スケルトンへの安全な転化処置が確立する以前、実質的に世界を覆い尽くそうとしていた快楽経済思想の影響を完全に断つことを目的として、アメリカで開発された侵襲的医療用手術術式の俗称。今日では、ごく一部のカウンター・セクトを除いたあらゆるコミュニティにおいて違法とされている。

2000年代に入って以降、所謂電脳革命によって急速にサイバー化が推し進められた結果として、自動化された社会における人間という種を、知恵ある人ホモ・サピエンスではなく遊戯する人ホモ・ルーデンスと看做す風潮が強まった。拡張電脳に生きる人間は、あらゆる社会運営の根本となる営為、生産活動から切り離されたことで、最早無尽蔵の遊戯を消費し創造するだけのものになったと考えられたのである。

必然として、それまでのモノベースの経済理論は力を失い、コトベースの新理論としての快楽経済というシステムが構築されたわけだが、当然、その急激な変転についていけない者も大勢存在した。彼らは、経済システムを以前の形に巻き戻すことはできなくても、その影響力が完全に断絶されることなら避けられるのではないかと考え、快楽経済の根本を成す人体の脳機能を制御する方法を追究した。その中で構築されたものが“アタラクシア”であった。

本術式は、人間の脳内に広範に分布する快楽神経ネットワークを、薬物投与によって制御するのが基本原理である。その具体的手段として、脳深部にマイクロボット・コロニーを設置し、血中に薬物を投与する、脳局部に電極を差し込み刺激を与える、といったあらゆる「快楽制御」を実行させていた。

これが世に出た当初は、多くの旧世代人によって積極的な施術が推進され、「人類を快楽の奴隷にするな」のスローガンと共に、成人のみならず多くの子供達、そして新生児にも手術が施された。急進的な社会の変動に対するある種の反動的なムーブメントであるといえ、一時期は全人類の1割が施術を受けていたという記録もある。

しかし、かつて精神病治療のための新技術としてロボトミーが推進され、やがてその悪影響が判明したことで撤廃されたように、臨床から“アタラクシア”にも様々な悪影響があることが判明した。最たるものは「報酬系の異常による肉体・精神の発達の阻害」と「パーキンソン症候群の異常発生」であり、ドーパミンの分泌制御が健康な人体の許容限界を超えて強制された結果、著しい生活上の困難の発生を避けられないことがわかってきたのである。

結局、この措置はそうした観点から快楽経済の歯止めとしては力不足であり、前記の通り次々と世界各地で禁止された。その後人類社会の軸足が拡張電脳に移行してからも、各種のコミュニティにおいて引き続き違法とされている。

他方で、スカラシップ・ユニオン等の研究系コミュニティにおいては、こうした術式の開発自体が、新世界へ踏み出した人類が、その後200年に渡り悩まされることになる(そして現在も悩まされ続けている)快楽依存症への先駆的な抵抗活動としての性質を帯びているとして、重要な研究対象とされている。


☆☆☆


こんな狂った世界で享楽に耽るくらいなら、俺は快楽を捨てても惜しくない。


――――カウンター・セクト「ゼノンへの背徳者」構成員の発言を記録したレコードより

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