第三部【BLIND NEW ROTTEN DAYS】
第25話
――水の音すら届かないほどの、暗く、あまりに深い闇。
"それ" は、身動きひとつしなくなってからから久しかった。
特殊金属で構成されているらしき体表面には、何百年にも渡って形成されたらしき微生物の死骸の積層による薄い膜が掲載され、小さな生命の箱庭を育んでいる。
どのような場所でも生命は生まれ、育ち、殖える。
今もまた、その表面でマイクロサイズの微生物が必死に逃げ泳いでいたが、それよりも一回り大きい程の甲殻類状の生物にあえなく捕食され、その生命を終えてしまった。
甲殻類は食事を終えると、満足げにその上に着地し、静かに消化を待った。
……次の刹那、甲殻類の小さな身体は、突如として生じた超密度の振動によって無惨に弾けた。
"それ" の表層で育まれていた、ささやかな楽園が崩壊する。
その目覚めの結果として生じた "駆動" によって、何百年も続いた世界が一瞬で藻屑となり、昏い海に流れていった。
……"それ" の生体カメラアイに、淡い緑の光が灯る。
その瞬間。
その背後に広がっていた海の庭一面に、全く同じ緑色の光が無数に灯り、その表面の小さな楽園達すべてが弾け、消えた。
◆
――誰もいない廊下は、少年の溜息をよく反響させた。
ミクモ・コーラルスターの足取りには、明らかな迷いが纏わりついていた。
その思いは、今に始まったことではない。ずっと以前から胸にあった。
だからこそ、その疑念はいよいよ以てミクモの内心を支配していた。
……自分は、どこへ向かえば良いのか。何を目指せばいいのか。
悪質極まる偶然により、よりによって宿敵たるキャプテン・クレアボーヤンスに吐露してしまった内なる疑念が、ミクモの胸を更に締め付けていた。
……アンフィトリーテ・パンドラボックス。自分の恩人であり、仲間であり……"相棒" と呼んで差し支えない、大切な存在。その筈だった。
……自分は、彼女を信頼しきれていない。
一欠片でも口にしてしまった事で、その思いは明確な形を持ってミクモの内心に居座るようになってしまった。……彼女は、多くを口にしない。
しかし、自身を助手兼相棒として大事にしてくれてはいる。
それは間違いない事実だ。
……だが。
彼女の、常に自身に対して、どこか優位性・イニシアチブを握り続けるような態度に疑念を覚えないほど、ミクモは愚鈍ではなかった。
最初は「そういうもの」だと受け入れていた。
共に戦っていくうち、多くを語り合える間柄になれるものだと思っていたし、自身もそう信じた。心配するなと、彼女自身も言ってくれたのだから。
されど、彼女が自身に求めてくるものを、ミクモは既に理解しつつあった。
彼女と自分は、対等ではない。
少なくとも、彼女は常に、そのように求めている。……綿のように柔らかで、それでいて、結束すれば確かな拘束力を持つ、自身への服従。
だからこそ。
自身が自発的に行動する度に、彼女は手綱を振り解かれたような、驚きの表情を浮かべるのだ、と。
自分が彼女にしたような内心の吐露を、彼女は今の今まで、一度もしなかった。
それはまるで、一方的に心臓を捕まれているような思いで。
そのうえで穏やかな微笑みを浮かべられているような、そんな心地だった。
「……オレは、どうしたらいいんだ。
どこを目指せばいいんだ。
アンフィねーちゃんの、何になればいいんだ」
それだけ呟くと、ミクモは背中をとんと壁に付いた。
あまりにも薄く、幼い胸板が軽い音を立てて、その肺の中の空気を吐き出させた。
……静寂だった筈の廊下いっぱいに、耳を貫くような警報音が響き渡ったのはその直後。
緊急事態を知らせる非常アラームだと理解すると、
ミクモは一度だけ、静かに舌打ちして生体研究所内のオペレーション室へと走った。
◆
「……やあ。すまないね、休憩時間中に呼び出したりして」
アンフィトリーテの形式的な謝罪に、ミクモは努めて気にしていないような微笑みを返した。
……彼女が自分に求めているのは、このような反応なのだから。
「……で、一体何があったんだアンフィねーちゃん。あのアラームが鳴るって事は……」
「ああ、そういう事だよ。中々の事態という事らしい」
「……らしい?」
ミクモの疑問に、アンフィトリーテ自身も怪訝そうな表情を浮かべた。
「アレを鳴らしたのは私ではないよ。突如としてアイクルから連絡が来たかと思うと、彼女が勝手に鳴らしたんだ。キミを呼ぶために」
……自分が呼ばれるということは、それは『アームヘッドに乗れ』もしくは『悪いニュースがある』のどちらかしかない。ミクモの表情が曇った。
「それで、要件はなんだアイクル」
アンフィトリーテの質問が飛んだ直後、オペレーション室のモニターが点灯し、アイクルのクラゲ型アバターが姿を現した。
『……当方から提示できる情報、及び指令は僅かです』
アイクルの口調は、まるで鉛が如く重いものだった。
アンフィトリーテとミクモが怪訝そうにしている前で、アイクルのアバターはくるりと身を翻すと、
ひとつの映像再生用アプリを起動した。
2秒ほどの間を置いて再生されたのは、何らかの索敵機器の画面らしき、無機質な録画映像だった。
左側に大きな緑色のマークがあり、その少し離れた箇所には、無数の赤く小さなマークがひしめいており、少しずつ緑色のマークへと接近してきていた。
『つい先程、リウ・グウ防衛用センサーが確認した反応です』
「……この赤い無数の反応は、敵性か」
アンフィトリーテの言葉で、ミクモも画面が何を表しているのかを理解した。
……左側の緑色は、おそらくリウ・グウそのものを指している。そして、そこに無数の "敵" が迫っているのだ、とも。
「オレ達にコイツらをのしてほしい、って訳か」
『……はい』
「……何やら、言葉の端切れが悪いなアイクル。そちらが持っている情報などがあれば、開示して貰えると助かるのだが」
アンフィトリーテの問いに、アイクルのアバターは首を横に振った。
『正体不明、です。充分に注意してください。正規軍にも応援を要請します』
「……正規軍、ね。しっかり働いてくれると良いのだが……」
「なあ、こいつら、アームヘッドじゃないのか?」
アンフィトリーテが苦笑しながらパイロットスーツを取りに行こうとした刹那、ミクモが率直な質問をした。
……アンフィトリーテが質問の意味を理解するまで、1秒の間があった。
黒い魚影団の戦力なら、十中八九アームヘッドである筈。
そして、それをアイクルは報告するのが自然だ。
だが、彼女はそれを正体不明だと、そのように表現したのだ。
『重ねて申し上げますが、正体不明です。作戦目標は……敵勢力の撤退、もしくは殲滅です。御武運を』
◆
――μT-WONDERRAVEの操縦席の感触は、随分と久しぶりの事だった。
ミクモは内心の迷いを振り払うと、操縦桿をしっかりと握りしめた。
……今はただ、やるべき事をやるだけだと、そう自分に言い聞かせて。
海中ハッチから機体が出撃し、青い闇へと躍り出る。
その横には、すっかり機体の修復が済んだμT-OMEGABASTIONが並んだ。
アンフィトリーテ曰くついでに改良を施したらしく、未だ鈍重ではあるものの、以前よりも遙かに高い瞬発性を発揮できる、との事だった。
「……ミクモ」
迎撃ポイントに到達し、暫く待機している最中。
その声が、突如響いた。
「……何、アンフィねーちゃん」
回線を繋いだミクモが返答をする。その声に、内心の疑念をなるべく乗せないように注意を払いながら。
アンフィトリーテからの返答は、すぐには来なかった。
……何かを躊躇するような、僅かに息を呑むような声が漏れる。
「……いや、良い。今はあいつらに集中だ。あとで話すさ」
優に7秒ほどの間の後、アンフィトリーテからの返事がミクモのコクピットに響いた。
ミクモは無言で回線を切ると、WONDERRAVEの索敵モニターを見た。
……接敵まで、おそらく8秒。
残り5秒。
4、3、2――1。
ゼロ、と同時に。WONDERRAVEとOMEGABASTION、そして背後に続く正規軍のコズミー達のセンサーが、 "敵"の姿を確かに捕捉した。
……視界いっぱいに広がっている筈の、青暗い深海。
その、すべてを埋め尽くすほどの。
装甲に覆われた、黙示録の蟲めいた異形の影。
そして、その最前線で異形を率いていたのは。
リウ・グウ正規軍総帥、陸洞行派専用機――『ATA-103M-C / ブティーガ』であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます