第22話
一般客が全員待避したあとの人工海水浴場は、先程までの賑わいが嘘のように静まりかえり、ただ打ち寄せる波の音だけが世界に響いていた。
否、わずかに人為的な音がする。空気を紙で擦ったような、消え入りそうな音。
砂浜の片隅に、ぜいぜいと息を切らせている者がいる。
それは少年。黒い髪を海水に濡らせ、四つん這い状態だった。
側には、凹凸の少ない体躯の少女が心配そうに寄り添っている。
その真正面、少し離れた位置に仰向け大の字になって倒れ込んでいたのは、鋼めいて鍛え上げられた体格の男。
肩甲骨のあたりまで伸ばした黄金の髪はロクに手入れがされておらず、まるで荒れ野の藁のようだった。
そして、彼もまた海水に濡れ、その呼吸を荒げていた。
「……ヒッ、ハハ!い、一時はちょっと肝が冷えたでヤンスが……こ、このキャプテン・クレアボーヤンスの辞書に、敗北の二文字は無いでヤンスよ!……ゲホ!」
金髪の男、クレアボーヤンスが仰向けのまま、ようやく声を絞り出すようにして勝ち誇った。
……ミクモとの『水泳対決』は、キャプレン・クレアボーヤンスの勝利に終わった。
「……アイクル」
『……アンフィ、残念ながら当方の観測においても、僅かな差でクレアボーヤンスの方がゴール・ポイントへの到達が先でした。ここは彼ら魚影団の要求を呑むことが最も被害を出さずに済む、推奨行動だと提言します』
アイクルからの言葉を受けたアンフィトリーテは、一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、クレアボーヤンスと彼を取り囲む「黒い魚影団」の面々に向き直った。
「……約束は約束だ。アイクルは援護を要請していない。
今回のみ、貴様らの撤退を承認する。とっとと失せろ」
言葉を聞いた「黒い魚影団」の面々は、まるでアンフィトリーテを嘲笑うかのような眼差しを彼女に向けると、人工浜の片隅に停泊させておいた専用の潜水艦らしき設備に乗り込んでいった。
アンフィトリーテの薄い唇が、噛み締められる。
ここで問答無用に奴らを捕らえられたなら、どんなに良かったか。
◆
……ミクモがクレアボーヤンスと公衆トイレで遭遇した時、状況は限りなく最悪だった。
周囲には一般客。こちらは拳銃などの最低限の護身武装しかなく、アームヘッドも勿論ない。
対して向こうは逞しい体格の男性が数十人。全員が水着の中に武装を隠し持ち、まともに戦えば勝機などありはしなかった。
今から正規軍に応援要請をしたところで、現場に駆け付けるまでの間に蜂起されればそれだけで大惨事は免れ得ない。
……向こうがアームヘッドを伴っていない保証すら、ない。
文字通り、手も足も出なかった状況。
全てを打開し得る提案をしたのは、アイクルだった。
『黒い魚影団団長、キャプテン・クレアボーヤンス。貴方達に提案があります。
当方は貴方達を容易に壊滅できる戦力を要請し、かつあらゆるゲートを緊急閉塞させることで退路を断つことが可能です。
……ですが、そこの少年……ミクモ・コーラルスターと、一対一での200m遊泳競技を行い、勝利した場合。
その時点から貴方達が敵対的姿勢を取らない限り、当方も援護要請を行わず、リウ・グウ内からの安全な撤退を認めます。
その代わり、敗北した場合は身柄を拘束します』
……アイクルの奇妙な提案に、不思議とクレアボーヤンスは乗った。
勿論、向こうが敗北した場合、素直に捕まってくれるなどとアイクルは考えていなかった。
最優先目的はアンフィトリーテとミクモの安全を確保すること、かつ秘密回線で要請した正規軍の上級部隊が駆け付ける時間を稼ぐことだったのだ。
……結局のところは、上級部隊が到着するよりも先に、黒い魚影団の潜水艦はリウ・グウの外海へと繋がるゲートの存在する人工海の深部へと潜っていってしまった。
誰もいなくなった浜辺の中で、ミクモが無言で息を整えていた。
何かを言おうとしている。だが、何も言葉が出て来ないようだった。
「……君はよくやった。君がいなければそもそも交渉が成立せず、今頃は私や無辜の市民が犠牲になっていた可能性すらある。気を病むな、そして自分を責めるな」
アンフィトリーテの言葉に、ミクモの呼吸が落ち着きを取り戻し初めた。
「……アイクル。これからは各所の警備の強化を……」
『……』
……アイクルの返事がない。
杓子定規なまでに受け答えには几帳面な彼女から"無言"が返ってきたのは、これが初めてだった。
「アイクル?」
『奇妙です』
怪訝そうに眉をひそめるアンフィトリーテの脳髄を、続くアイクルの言葉が揺さぶった。
『私は、確かに正規軍に機密応援要請を出しました。
……彼らのアームヘッドの起動反応が、ありません』
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