第21話
「……はあ……」
酸素を求めて乱れた息を整えながら、細くも鍛え上げられた両脚は、少し疲れたように人工砂を踏みしめた。
ミクモは海から挙がると、ぺたぺたと付近の浜辺に設えられていた公衆トイレへと歩き出していた。
ふと背後を振り向くと、少し離れた沖にアンフィトリーテがいる。
生体研究所という半ば別勢力と化した立場とはいえ、彼女もまた歴としたリウ・グウの軍人。
泳ぎも当然心得ていたが、どうやら天性の才能という意味ではミクモのほうに分があったらしく、途中から明らかにムキになり、その泳ぎに追いつこうとして脚を攣った。その結果が、アレである。
『……バイタルチェック。あと10分ほど鍛錬後、一度上がって休憩とすることを提案します。どうしますか、アンフィトリーテ博士』
「……ああ、これで溺れてしまっては元も子もない。その提案を受け入れよう。だがそれまでは付き合ってもらうぞ、アイクル……!」
『了解。では早速ですが――アンフィトリーテ博士、水を蹴る際に効率上の改善点が見られます。現時点でも問題はありませんが、キックの瞬間に爪先を反らせ、より多くの抵抗を生じさせるべきと提言します』
「……頭では解っているが……あと私のことはアンフィと呼んでくれ!我が名ながら、長い!」
「……アンフィねーちゃん、マジで溺れたりはしないだろうな」
少し心配そうにした後、ミクモは前を向き、自分自身の用事を済ませようと公衆トイレの中へと入った。
清潔な印象であり、よく掃除が行き届いている。ミクモが安心した、その時だった。
「……だあー!ちょっと、誰か来たでヤンスか!
一生のお願いでヤンス、トイレットペーパーが真っ最中の時に切れちまったでヤンスよ!1個その辺から取って、上から投げ入れてほしいでヤンス!!」
……聞く者に凄まじいまでの焦燥感を与えるほどの魂の叫びが、閉じられた個室の向こう側から木霊した。
「うええ!?ちょっと待って、今……!」
事態の緊急性を即座に理解し、自身の用事など頭から飛んだミクモが周囲を見渡した。
だが、ない!
多くの場合は予備用として付近に設置されているトイレットペーパーがない!
ミクモの細い両腕が用具入れを開ける!だがそこにもない!
「ダメだ!」
「そんな!」
「いや……ちょっと待って!確か……」
ミクモが駆け出す!その気配を感じ取り、個室の主が悲鳴!
「ちょっと!見捨てるでヤンスか!」
「良いから待ってて!」
凄まじい速度で砂浜を駆け抜け、その一角に陣取った荷物置き場に辿り着くと、自身の鞄をまさぐる!
そして出て来たのは――携帯ちり紙!
再び剛速球が如き素早さで公衆トイレに戻ってきたミクモは、小さく飛び上がって個室のへりに手をかけると、中を見ないように配慮しつつ、片手でその携帯ちり紙のパックを旗のように振った。
「これで間に合う!?」
「充分でヤンス!感謝するでヤンスよお!」
個室の主が歓喜し、パックをキャッチ!
……事態を解決したと同時に、ミクモが突然自身の用事を思い出した。
改めて個室の反対側に、壁に複数設えられている設備のひとつに近付く。
……互いに一息ついた時、個室の主の声がした。
「それにしても……随分用意が良いでヤンスね。声を聞いた感じでは、まだかなり若そうに思えたでヤンスが」
「……まあ、色々あってさ。心配しすぎなくらい用意しとかないと、なんか落ち着かないんだ」
ミクモが少し声の調子を落としたのを聞いて、個室の主が息をついた。
「……何か、嫌なことを聞いちまったようでヤンスね。若い身空に苦労が多いと褒める奴は多いでヤンスが、良い事じゃないでヤンスよ」
「……なあ」
ミクモが、少し絞り出すように呟いた。
言葉が繋がるまで間があったが、個室の主は黙って待った。
「……おっさんはさ、『これからどうしたら良いか』って、わかんなくなったこと、あったりする?」
……それは、ミクモがここ暫くの間、絶えず胸に抱き続けていた不安の吐露だった。
アンフィトリーテには世話になっている。
彼女は師であり、上司であり――そしてミクモにとって、掛け替えのない存在となっていた。
だからこそ、当の彼女には、この思いを打ち明けられなかった。
もしこんなことを言ってしまえば、それは絶えず側にいてくれている彼女への不信になってしまうのではという靄めいた恐怖が、ミクモにそうはさせなかった。
……だが、この顔も知らない「誰か」なら。
心のどこかでそう思ったかもしれなかったからこそ、ミクモはつい、「それ」を口にしてしまった。
「誰がおっさんでヤンスか!お兄さんと呼ぶでヤンス!」
個室の主が、つとめて軽妙な口調で言った。
……ミクモの繊細な感覚がその意味を感じ取る。
今のは、自身がつい見せてしまった「弱さ」を気遣うための反応。
「……でも、そうでヤンスねえ。いっぱいあったでヤンスよ。何なら、割と今も」
男の言葉に、ミクモが意外そうな反応を返した。
「……そう、なの?」
「人生なんてそんなもんでヤンスよ、坊主。
あんさんにどんな苦労があったかは、あっしには解らないでヤンス。
……聞けば同情くらいは出来るかもしれないでヤンスが、それでもそれらはあんさんだけのもの。
だから途中で『どうすればいいか』なんて、みんなよく思うことでヤンス。
今のあっしを見るでヤンスよ。もし未来が解ってたら、今ここでこんなマヌケなことになってないでヤンス!
……坊主が来てくれたのはただの偶然で、でもそれはツイてたことだった。
坊主にもあったりするんじゃないでヤンスか?
『それでもこれだけは、間違いなく幸運だった』ってコトが」
「……幸運だったこと、か」
「そ。あっしも偉そうに人アドバイスできる身分じゃあないでヤンスが、多分そうやって、必死に歩いてりゃ良いヤンスよ。
その方が多分、最後に自分が納得できる確率が上がる気がするでヤンスからねえ」
欺瞞の響きが一切ない男の言葉。
ミクモが目を細め、その意味をしっかりと噛みしめ、息をついた。
「……そっか。ありがと」
「なあに、助けてもらった礼には及ばんでヤンス!こんな姿、それこそウチの奴らに見られてたら沽券に関わってたでヤンス……」
「ウチの奴ら?」
「そ!今日は仕事を休みにして、みんなでコッソリ慰安旅行でヤンス!あっしはバーベキューの貝に当たって……」
……そこで、個室の扉が開いた。
振り返ったミクモの瞳に映り込んだのは――鋼の如く鍛え上げられた体躯に、ボクサーパンツ型の遊泳用水着一丁の姿。
肩甲骨のあたりまで伸ばされた、獅子の鬣めいた金色の髪の毛。
互いが、互いの姿を認識した。
そして――
「……キャプテン・クレアボーヤンス……!?」
「……コ、コーラルスターの小僧……!?」
「「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ――!!!!」」
……ふたりの絶叫が、浜辺で休んでいたアンフィトリーテとアイクル、
及び少し離れた場所でバーベキューを続けていた「黒い魚影団」のメンバーら全員の耳に、確かに響き渡った。
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