第14話

……世界の途切れる音がする。


とっくに手放した意識の欠片が、閉じた瞼の裏で広がる惨劇の続きを、閉じることのできない鼓膜から感じ取っている。

つんざく悲鳴。砕ける渇いた音。裂かれる湿った音。

目を開く気は到底起きなかった。


……このまま、終わりのない闇の中へ溶けてしまうのも良いかもしれない。

そう思い至った刹那に、真っ黒な世界が引き裂かれた。

……水で満たされた肺が、取り戻された生存本能から無理矢理に抵抗し、空気を求めて駆動した。


闇が晴れ、開く気のなかった瞼を貫くほどの光に誘われ、やっとその瞳が再び世界を見る。

はじめに視界に映ったのは――ひとりの男の、安堵したような笑顔だった。

名前を聞こうとするより先に、男が口を開いた。


「――よかった

ㅤほんとうに よかった


ㅤ僕はもう、ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ」



「――ん……」


泥のような暗闇から、その意識はようやく浮上した。

開かれた視界は、最初にまず白い天井を捉え、次に横にそれて、自身の顔を覗き込む少女の表情を理解した。


「……ミ、ミクモ!目が覚めたんだな!」

少女の瞳、紫色の水晶体が、涙を浮かべて表情を緩ませた。

「……アンフィねーちゃん……」

名前を呼ばれた少年、ミクモが少女の名を呼ぶと、少女は顔を感極まったように皺まみれにさせてミクモの頭部を無理矢理両腕でかき抱いた。

「この大馬鹿野郎!何日寝ぼけてたと思っているんだ!!」


「……わかんねえ……俺、どんくらい寝てたんだ?」

ミクモが間の抜けた口調で聞くと、アンフィトリーテは震える声をしばし整え、限界まで普段の口調に近付けた響きで応えた。

「……1週間だ。普段から健康的な睡眠時間をしているくせに、私より三日も寝坊するとは、随分良い度胸だ」


……1週間。

その言葉を聞き、ミクモの意識が眠りに入る直前の記憶をまさぐった。

……次に浮上してきたのは、茶色の装甲に身を包んだアームヘッドの強烈な一撃によって発生した衝撃に意識が彼方へと吹き飛ぶ、その最後の瞬間だった。


「そうだ!アイツは!あのトーマとかいう奴は……」

ミクモの瞳が完全に覚醒し、夕日色の瞳が急激に焦点を取り戻していく。アンフィトリーテは紫色の瞳でそれを確かに確認すると、まるで牽制するかのようにミクモの両肩を強く両手で叩き、表情だけで沈黙させた。

「……アイツなら心配無用だ」


「報告では、私達が制圧された後で駆け付けた応援部隊から逃げ、行方を眩ませた。だが既に指名手配済だ。奴の会社も強制捜査されている」

アンフィトリーテの説明が続いたが、彼女の両瞳は、ミクモの瞳を真正面から射貫き、逃がすことはなかった。

「……ミクモ。聞きたい事がある。答えてくれるか」


アンフィトリーテの表情が奇妙な色を湛えていることに気付いたミクモが思わずたじろぐ。


「……な、なんだよ。改まって……」

「……正直、私はこの質問をするのが怖かった。これを聞いてしまうことで、何か、君との関係が崩れてしまう切欠になってしまうのではないかという予感があった。だが、きっと今こそ聞かなければいけないという予感もまた、ある。


……ミクモ。10年前、君に何があった?」


アンフィトリーテの質問は、端的だった。

ミクモの夕焼け色の瞳は、まっすぐにアンフィトリーテの紫の瞳に射貫かれ、目線を逸らすことすら許されなかった。

「……何、って」

「君が意識を失った後、私は暫くトーマの奴と交戦した。その中で奴が言った」

「……何て」

「……『これではロニー博士も浮かばれない』『博士が命を賭けて救い出した未来がこれか』と。奴の言葉は私じゃなく、明らかに意識を失ったキミに向けてのものだった。……もう一度聞く。10年前、キミは何を見た。何を味わったんだ」


――ミクモは、暫く沈黙していた。


何かを答えようとし、唇を幾度か開閉させる素振りはあったが、その喉奥から声を押しだそうとする度に、肺からの空気が声に成らずに霧散するだけだった。

……アンフィトリーテが彼の肩を握る力を弱め、促すように、励ますように、代わりに言葉を紡いだ。


その瞬間、ミクモの様子が急変した。


普段、軽快さと活発さを感じさせる夕日色の瞳に恐怖と動揺が走り、その肩ががくがくと震えだした。

異様さを察知したアンフィトリーテがとっさに肩を掴む手を放すと、ミクモはすぐさま後ずさり、ベッドの頭側の壁に背中から衝突して、その場で縮こまった。


「――ごめんなさい、ごめんなさい……俺の……俺のせいであのおっさんは……俺のせいで……俺の……俺の、せいで――」


……アンフィトリーテの拳が強く握られ、その瞳は、まるで何かを察したような色に揺らいだ。そして、その細腕を伸ばした。

「ごめんなさい――ごめんなさい――ごめ……」

「ミクモ。ミクモ・コーラルスター。私を見てくれ」

狂ったように謝罪を繰り返すミクモの頬に、アンフィトリーテの掌が触れた。

ミクモの揺れる瞳が横にスライドし、アンフィトリーテの顔を見る。そこには、いつも通りの彼女の苦笑があった。


「……これは極論だが、私は父の復讐など考えていない。もし父の死に君が何らかの形で関わっていたとしても、私はただ真実を知りたいだけなんだ。

……それに。君はずっとひとりぼっちだった私の隣にいてくれた初めての人間だった。私は君を信じる。だから聞かせてほしい。君に何があったのかを」


……ミクモの震えが緩慢に消えていき、代わりに漏れ出てきた荒い呼吸を、今度はアンフィトリーテが静かに抱擁と共に受け止めた。

……"何も心配いらない。私が君を嫌うものか。"

何度もそう呼び掛けられた言葉に、夕日色の瞳の奥で閉じ込められ続けていた感情は、いつしか嗚咽として漏れ出ていた。


「……ああ、そうだ。

ㅤ喉が渇いただろう、私の特製紅茶でも飲むかい」

「…………ごめん、それは、ちょっと、要らない」








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