第2話

「全然来ないじゃないか」


海底都市リウ・グウ第3居住区の「壁」の際にあるカフェテラスで、ひとりの人物がごちながらグラスを傾けていた。

人物といってもその背丈はさほど大きくない。赤みがかった茶髪を短く切り整え、長く編み込んだ一房を垂らしている。

更に、その服装は白衣だった。酷く場違いである。


「最近よくこの辺を襲って来るらしいから、いざ備えてみたらこれだよ。待ち構えていると客人は来ない、とは聞くけどねえ」

隣に他の誰かが座っている訳でもないのに、その赤毛と白衣の人物……否、少女は退屈そうに不満を漏らし続ける。

周囲の客は怪訝そうにしているが、当人は何処吹く風だった。


カップの中の紅茶……否、向精神作用のあるドリンクを大量に混ぜ込んだことで、怪しいエメラルド色に変色しきった、かつて紅茶だったものを飲み干していたことに気付くと、

少女は午後のティータイムを切り上げ、近場の駐屯基地に戻るべく腰を上げた。その時だった。


突如として少女の白衣のポケットから、警戒心を煽るような音色のアラームが鳴り響いた。

それは、彼女がいつも携帯している通信用端末からのものだったが、

少女はすぐに通信に出ることはなく、代わりにそのアラームが意味するものを即座に把握し──


静かに、微笑んだ。



「小僧!戻れ、すぐにだ!!」


コーラルオレ狩りにすっかり夢中になっていたミクモの意識を、「壁」内部の居住区へと引き戻したのは、ゲートの管理を担当しているあの中年男の叫びだった。

「なんだよおっちゃん、どうしたってんだよ!」

ミクモが専用マスクの通信で状況を尋ねた。


「アイツらが防衛レーダーに反応した!知ってんだろ、アイツらだよ!『黒い魚影団』だ!」


中年男の叫びに、ミクモはすぐに耳を疑った。

『黒い魚影団』。このリウ・グウの居住区の食料や燃料資源、金品、その他奪えるものすべてを狙って「壁」の外から襲って来る、昔から聞く海賊団の名前だった。

最近、ミクモの住む第3区にまで魔の手を伸ばしつつあることは、毎日のニュースや警戒放送などで知ってはいた。

だがまさか今日、この瞬間に噂の海賊団がやって来るなど、ミクモは欠片ほども予想していなかった。

コーラルオレの入ったカゴを投げだし、ミクモは速やかにゲート方面へと戻った。


……ミクモの視界の中。青い闇の向こうに、リウ・グウを覆う透明な「壁」とその麓にあるゲートがようやく見えた。


同時に。

透明な「壁」を、それぞれの手に持った斧やら剣やらで殴り破り、その内部へと殺到していく、いくつもの「巨人」も確かに見えた。


「あんな事したら……!」

ミクモが言うよりも、事態は急速に進んだ。

大穴のあいた「壁」が凄まじい勢いで外部の海水を吸い込み始め、ミクモは水流ごと「壁」内部へとあっと言う間に連れ戻され、凄まじい勢いで居住区内に大量の水ごと放り出された。


「うおおおおあああああ──!」


居住区内へと戻ることは出来たが、地に足がつかない。

ミクモがどうにか顔を上げると、自身が先程までいた居住区のはずれはすでに大洪水の様相を呈し、ミクモ自身はその流れの真っ只中で、浮き沈みしながら流されるままの状況。何かに捕まらなければ溺死あるのみ。


ミクモが咄嗟にすぐ近くに浮かんでいた木の板にしがみつく!


……その表面には、少し古ぼけたポスターがへばりついている。派手な色の水着を着た、若い女性のグラビア。

その1枚に、ミクモは見覚えがあった。

あの中年男が常駐していた管理小屋の中に貼ってあったものだった。


「……おっちゃん……」

ミクモが、直前まで自身の身を案じて通信を入れていた声の主を案じた刹那、木の板が大きく沈んだ。

何事か、とミクモが身構えると、自身と同じ木の板に新たにしがみついた者があった。

それは、ミクモよりも一回り幼い年頃と思わしき、また別の少年だった。顔に見覚えはない。

少年は、今にも恐怖で四方に砕け散りそうな表情を浮かべて、ぜいぜいと必死で息をし、咳をして水を吐いた。

ミクモと目が合ったが、その瞳は、まるでミクモに命乞いでもするかのように怯えきっていた。


……ミクモが対応に詰まった瞬間、木の板が、更に沈んだ。

ミクモは即座に決意した。


「しっかり掴まってて」

少年の震える手をふん掴み、引っ張りだし、木の板にしっかりと掴ませると、ミクモは自ら手を離した。

少年が目を見開き、手を伸ばそうとする……が。

「離すな!」

ミクモからの怒号で、すぐに手は木の板に戻された。


「オレは大丈夫。泳ぎ得意なんだ」


ミクモは無理をして笑顔を浮かべると、すぐに木の板から離れて泳ぎ、流れに対して無駄に逆らい過ぎないようにしつつ、別の浮遊物を探した。

だが、ミクモの体力は既に限界だった。

直前までコーラルオレを狩ることに全力を注いでいたせいで、余裕などすでに底を尽きていた。


「……あっ──」


それは当然の結末だった。

必死で水を蹴る足先に違和感を感じた瞬間、そこから全てが連鎖的に崩れるようにして、ミクモの全身が凍結し、無言の悲鳴をあげて、感覚が鈍化した。


もがく手の動きすらも緩慢になったまま、ミクモは瞬く間に居住区を覆う大河の中に沈んだ。


……恐怖よりも早い、眠るような意識の混濁。

マスクのゴーグル越しに見える、濁りきった水中の景色にすら、霞がかかり始めていた。

"……オレ、このまま死んじゃうのかな"

表層に比べて、皮肉なほど静かな水中の中で、ミクモが目を閉じた。


"オトナに、なってみたかったな"


……意識が途切れる寸前。

ミクモの霞んだ視界に映り込んだのは。


昏く、底の見えない闇の奥から突如として現れたかと思うと、

頭部の先の口ではなく、"背中"を開いてその内部へと自分を飲み込んだ、シャチにも似た巨大な影だった。















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