第8話 白雪の崇めるもの

 微かに浮かんだ白雪の笑みは、一瞬のうちに溶けて無くなった。気付けばいつもの澄まし顔に戻っている。


 見慣れた淡々とした態度。あまりにいつも通り。さっきまでのことが幻のように思えてくる。


 白雪は軽く頭を下げ、髪がさらりと揺れた。


「あの時、庇ってくれてありがとうございました。本当に助かりました」

「別に気にするな。俺にも目的があってしただけだから」

「目的、ですか? ……はっ、まさか!?」


 目を丸くする白雪。一歩後退り、自分の身体を腕で隠すように抱いた。うん、嫌な予感がするな。


「今回のをきっかけにして、私を口説く作戦でしたか。庇って下さったのはありがたかったですが、ごめんなさい。恋愛対象ではないので諦めてください」

「勝手に振るんじゃない。なんで俺がお前を口説かなくちゃいけないんだ」


 いっそ清々しいほどのふりっぷりだ。勘違いも甚だしい。呆れてため息が出た。なんか、無駄な経験値を積んでる気がする。


 告白してないのにフラれる経験とか。要らなさすぎない?


「大体さっきお前に下心が無いって話はしただろうが」

「万が一ってことがありますから。念には念を入れて」

「その結果、俺は告白してもいないのにフラれるという経験を積んでいるんだが?」

「そうですね……貴重な経験、ということで

どうでしょう?」

「なにが、どうでしょう、なんだ……」


 白雪に皮肉は通じないらしい。もういい。諦めよう。今一度大きなため息が出る。


「とにかく、誤解が解けたようで良かった。白雪にも事情はあるんだろうが、今度はもう少し上手くやるんだな」

「はい。今度はもう少し気をつけたいと思います」


 話もひと段落したことだし、いい頃合いだろう。これ以上話すことはないし、抜けるなら今のタイミングだ。そう思って去ろうとしたのだが。


「ワフッ」


 話が終わった雰囲気を感じたのか、大人しくしていた犬のアルフが白雪に尻尾を振って寄っていく。

 白雪の正面に座り、ぱたぱた尻尾を揺らして見上げる。


 っ、お前。今、別れる良いタイミングだっただろうが。空気読めるなら、そこも読んでくれよ。


 内心の思いはアルフには通じてくれない。リードを軽く引っ張ってみるが、動く気配がない。

 元々人懐っこい犬なので、白雪にも撫でて貰いたいのだろう。


 白雪は動物とか平気だろうか? 散歩中に寄ってきたのだから大丈夫なような気もする。


 急に寄ってきた犬に困っていないか様子を窺うと、白雪は何やらじっとアルフを見つめていた。


「白雪は犬は苦手か?」

「いえ、全然そんなことないです。……撫でてみても?」

「ああ、良ければ撫でてやってくれ」


 白雪はゆっくりその白い陶磁のような手を伸ばし、アルフの胸の部分を撫で回す。


 さわさわと優しく丁寧に。気に入ったようで随分大人しい。アルフは気持ちよさそうに目を細めている。


 しばらく続けていたが、白雪はアルフの慣れた雰囲気を感じとり、かがみ込んで本格的に撫で回し始めた。わしゃわしゃと顔全体を乱すように動かす。


「……いい子ですね」

「随分慣れてるんだな」

「初対面で撫でる時は、徐々にいくのが大事なんですよ。私の手に掛かれば落ちない子はいません」

「どこぞのホストだよ」


 よほど犬が好きらしい。初めて知った。


 白雪は心なしか顔を輝かせて、満足そうにアルフを可愛がっている。アルフもいつも以上に嬉しそうだ。


「犬、好きなんだな」

「……好きじゃ悪いですか?」

「別に。意外に思っただけだ」


 睨みを効かされ、肩をすくめる。ひぇ。


「こんなに可愛い生き物、好きにならないわけがないじゃないですか」

「いや、確かに可愛いけどさ」

「この可愛さなら万物を癒します。もはや神と同じです」

「うん、何を言ってるんだ?」


 白雪が話してるのは俺と同じ日本語のはず。まったく話は理解できなかったが、白雪の犬への愛が重いことだけは分かった。


「さあ、アルフ。この後もちゃんと黒瀬さんのことを散歩してあげるんですよ」

「なんで立場が逆転してんだ」

「何を言っているんですか。あくまで散歩をさせて頂いている。その気持ちが大事なんですよ? 謙虚な心が大事って道徳で習いませんでしたか?」

「謙虚とは?」


 謙虚な心が大事なのは理解しているが、これは絶対違う。それだけは分かる。


 なのにここまで自信満々に言われると、俺が間違っているのではないか? と少しだけ不安になりそうだ。


「白雪が相当犬好きなのは分かった。そんなに好きなら犬飼ってたりするのか?」

「いえ、残念ながらお父さんがアレルギーなので。たまに犬カフェに行って癒されるくらいです」

「へぇ。そんなのあるのか」

「遅れてますね。今の時代は犬カフェですよ。犬が写れば、映えも5倍です」

「犬の効果凄すぎないか?」


 絶対効果が出てるのは白雪だけだと思う。


 白雪はゆっくりアルフを人撫ですると、漸くその手を離した。


「はぁ、満足しました。アルフはすごくいい子ですね」

「気にいったなら何よりだ。アルフも満足してるみたいだしな」


 俺の足元に戻ってきたアルフの顔がきらきらと輝いている。舌を出して笑うアルフと目が合った。


「……良かったらまた撫でてやってくれ」

「はい、ぜひ」


 力強く頷く白雪。だが、はっと何かに気付いた素振りを見せると、すっと疑う視線を向けてくる。


「まさか、犬をダシにして私を狙って……? ごめんなさい。そこまでしてまで頑張る心意気は凄いと思いますけど。狙っても付き合いませんよ?」

「狙ってない。狙ってない。純粋にアルフが気に入ったみたいだから言っただけだ」

「む、それなら……」


 犬には弱いようで、警戒が緩む。まったく、また変な経験値が増えた。これが貴重な経験、か。解せん。


 その時、ポケットのスマホが震える。


「あ、悪い」


 ポケットからスマホを取り出し、画面を見る。画面に映ったのは姉貴からの電話の通知。無視したら、あとでなにされるか。


 電話に出ると、向こう側からテレビの音共に姉貴の声が聞こえてくる。


「あ、蓮? 今どこら辺?」

「今? 中央公園の近く」

「良かった。お母さんが買い忘れたみたいで、いくつか買ってきて欲しいって」

「分かった」


 いつもの姉貴のパシリかと思ったが、母親からのお願いなら仕方ない。買いに行かされてるのは変わらないが。


 一通り覚えて電話を切る。


「悪い。もうちょっと待っててくれ」


 白雪に断り、スマホにメモを取る。忘れないうちに書いておかないと絶対忘れる。

 買い忘れてまた買いに行かされることだけは避けなければ。

 

 しっかりと言われたもの全部メモ出来たことを確認して、ホーム画面に戻す。


 そこに表示されるのはシュガー先生の最新イラスト。どのイラストも可愛いが、このイラストは特に素晴らしく、ホーム画までしてしまった。


 そんな可愛いイラストが表示されてるホーム画面が、白雪にも見えたらしい。


 スマホから顔を上げると、ほんの僅かに目を丸くして俺のホーム画を見ていた。


「そのイラスト……」


 



 

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