第7話 感謝

「じゃあ、散歩行って来るから」


 首輪を付けたゴールデンレトリバーを連れて玄関のドアを開ける。リビングから「よろしくー」と姉貴の声が聞こえた。


 外に出ると昼間と違い、夕方の涼しい風が肌を撫でる。元気いっぱいにリードで俺の腕を引っ張る勢いに任せて、少し駆け足で犬を追いかけた。


 気付けばあの事件から1週間ほど経っている。噂は予想通り収まったが、あの後まず起きたのは、大翔からの追及だった。


 着替えが遅かったせいで教室での出来事を後から知った大翔は、すかさず俺に寄ってきた。


「秋口さんと白雪さんの間でいざこざがあったってのは本当かね? 蓮が収めたって聞いたのだが」

「蒼が俺のことを巻き込んできたから仕方なくだよ。俺がやりたくて収めたんじゃない」

「くっ、また白雪さんとのフラグを建てるなんて……」


 羨ましそうに呟く大翔。多分建ってるのは死亡フラグだと思うぞ


 大翔は一度深く息を吐くと、はた、と気付いたように顔を上げた。


「いや、逆に考えれば、白雪さんが蓮と仲良くなればもっと近くで眺めることが出来るということでは? よし、蓮。もっと仲良くなってくれたまえ。そして、目の前に白雪さんを連れてきてくれ」

「え、嫌だけど」

「やだだと!? 友人からのこんな必死なお願いを無碍にするのか」

「あいつと仲良くなるとか冗談じゃない」

「……まあ、いい。俺の予想が正しければ、もうフラグは建ってるし、蓮が拒否しようと流れは止まらないはずだからね」


 大翔は、ふっ、と意味深に微笑んで呟く。暗い笑顔が不気味で怖い。「蓮はそのままでいてくれれば問題ない」と俺の肩を叩いて一人で納得していた。


 そんなことが1週間前にあった。


 まったく。大翔も蒼も俺と白雪が近づくことを期待しているようだが、意地でもそれは避けさせて貰いたいところだ。


 だが、残念なことにこの1週間は、何度か白雪がこちらを見ていることがあり、何か話しかけようとしている様子があった。

 

 理由は明らかに俺の発言だろう。蒼も大翔も見事に引っかかっていたし、白雪も俺の言葉を信じてるのは間違いない。


 元々白雪と関わることはほとんどないので、この1週間話すことはなかった。白雪が隠したい話だろうから、人目を避けるとなると尚更話すタイミングなどあるわけない。


 ……それにその白雪の視線に気付きながらも、気付いていないふりをしていた。


 話しかけにいけばまず間違いなく、あの警戒する鋭い視線が向けられるだろう。想像するだけで背中が震えるぜ。


 それにこっちから言ったところで信じてもらえるだろうか?


「大丈夫。安心してくれ。白雪の秘密なんて知らないから。本当だぞ?」


 うん、その場を考えるだけで白々しいな。もちろんちゃんと話せば分かってもらえるだろうが、正直苦手だし怖くて逃げていた。


(はぁ。このまま忘れてくれないかな)


 望みは薄いだろうが、そんな未来を期待してしまう。

 

 救いは白雪と二人きりになる接点がないこと。流石に教室で話せる内容ではないだろうから、上手くいけば今の状態をもう少しは続けられる。


 現実逃避だとしても今はそれでいい。そんなことを考えていた時だった。


 道路脇に生えた草っ原の匂い嗅ぎ回っていたうちの犬が顔を上げる。何かを見つけてワフッと吠えた。犬が視線を向ける方を見て、思わず固まった。


「っ……白雪」


 道路を挟んで逆側に白雪が歩いていた。丁度白雪もこちらに気付いたようで、ぱっちりとした二重の双眸と目が合う。


 白雪は左右を見て車が来てないことを確認すると、渡ってきた。


 こんなところで出会すとか運が無さすぎる。誰だよ、さっきまでこのままいけるかも思っていたやつは。


 「これがフラグというやつだよ」と得意げに眼鏡を上げる大翔の姿がなぜか頭に浮かんだ。


 白雪をここら辺で見かけることはこれまでも無かったわけではない。

 同じ地域に住んでいるのだから、1、2回くらいは見かけたことがある。だが3回目が今のタイミングとは。


 白雪は、はっきりとその整った顔が見える位置まで来ると、足を止めた。


「黒瀬さん、こんばんは。犬の散歩ですか?」

「あ、ああ。そんなところだ」


 声が微かに震える。いつかは話し合うことになるだろうとは思っていたが、こんな状況は想定していない。


 だが、もう無視は出来ないだろう。向こうも話をしに来たのだろうし。


 ここまで来たらとっとと説明して逃げるしかない。なるようになるだろ。もう知るか。


 ぐっとリードを握る。白雪が何かを言いかける前に割り込んだ。


「この前の教室の話だろ?」

「……ええ、はい。私の事情を知ってるみたいでしたので……」

「そのことだが、俺は白雪の事情は知らないから安心してくれ」

「……本当に?」


 僅かに表情が険しくなる白雪。眉を寄せ、目を細める。


「そもそもに白雪が俺にそんな秘密話したことないだろ。それでどうして俺が知るんだよ」

「……ストーカーなのかと」

「んなわけあるか。これが下心を持ってる奴の態度に見えるか?」

「そうですね。それは流石にわかります」


 一先ずは頷いてくれたのでよしとしよう。そういう視線に敏感な白雪なら分からないはずがない。


「……あの場では、俺が白雪の事情を知ってると思わせた方が収まりやすいから、そうしただけだ。言っておくが、俺は嘘はついてないからな?」

「はい?」

「俺は小中高一緒ってしか言ってない。それで相手が誤解しようが、俺は悪くない」

「……そういうこと、ですか」

 

 腑に落ちたようで、険しい表情が元に戻る。そして今度は、不思議そうにこてんと首を傾げた。


「てっきり、私のこと苦手としていると思っていましたけど?」

「気付いてたのか」

「そういうのには敏感なので。でも、それなのにわざわざ?」

「別にいいだろ」


 はっきり強く言うと、白雪は一度口を閉ざす。一瞬の沈黙が風と共に間を抜ける。


 白雪はぽつりと誰に聞かせるでもなく、空気に溶かすようにゆっくり独り言を紡いだ。


「……わざわざ誤魔化してまで私を庇ってくれたんですね」

「いや、あれは……っ」


 イラストを堪能する時間を邪魔されたから早く終わらせたかっただけ。そんな言葉が頭に浮かんだが、声にならなかった。


 目の前の表情に思わず言葉を失う。


 それはよくよく見なければ分からないほどの微かな変化。


 ----だが確かに、ほんのりと口角が上がっている。


 滲み出た無防備で緩やかな微笑みは、強烈なほどに目を惹く。控えめなあどけなさが笑みの魅力を引き立てる。


 冷めた視線か、興味のなさそうな表情しか見せない自分の前で、そんな表情を急に晒すなよ。不意打ちにも程がある。


 見惚れそうになっている自分に気付いて、慌てて視線を逸らす。


(なんだよ、その表情は……)


 白雪が笑っている姿は別に珍しい姿ではない。教室で七海と一緒に楽しそうに笑いあってる姿をよく見かける。


 だが、それらの笑みと今目の前にある可憐な笑みはまったく違う。

 10年の中でも見たことのない無防備な柔らかな表情。薄く笑む姿はあまりに忘れ難い。


 ----不覚にも可愛いと思ってしまうほどに。


 こんなこと口に出せるわけがない。こいつが可愛いとか認められるか。なんだか負けた気分だ。無性に悔しい。


「……誤解が解けたならいい」


 思考が回らない中、なんとかその言葉だけを振り絞った。

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