はエルフの国の中央にあった。

 あるいは、を中心にエルフの国が作られたというべきか。

 は樹というにはあまりにも巨大で、広大だった。

 雲すら貫く巨大な幹、国全体を覆う幾万の枝葉。

 天蓋を支える者、世界を繋ぐ根。

 ゆえにその名は“世界樹”。

 その萌芽を千年を生きるエルフはおろか、万年を生きる竜すらも知らない。

 創世の砌より存在するのではないかと思わせる世界樹は今、その葉を紅蓮に染め上げていた。

 常緑の世界樹が枯れかけているのだ。


 原因は明白だった。


 世界樹を囲むようにその根に突き刺さった四振りの剣。

 いずれも負けず劣らぬ魔剣名剣であり、しかもその剣身には強大な呪いがかけられていた。

 魔法を知らぬ者すら可視するほど色濃い【魔力収奪の呪い】。世界樹の魔力を喰らう呪いだ。

 そして、四方を穿つ呪いの中心にはいた。

 は一見して可憐な少女のようなナリをしていた。

 肌人の年齢で言えば十代前半。

 小柄な体躯に腰まで伸びた金の髪。

 褐色の肌の各所を金色の鱗が覆い、両の側頭部からは金属質の角が生えている。

 加えて、なによりも異質なのは、世界樹の根に腰かける尻から伸びる尾だった。

 黒い膚に金の鱗を配した身の丈に倍するほどの細く長い尾。

 先端が鉤のように曲がった尾を魔術師ならばこう評するだろう――これは“杖”だ、と。


 つまるところ、は紛うことなき竜だった。

 ――魔導竜ニズキス。それが竜の銘だ。


「クハハッ、どうした、もう終わりか?」


 数歩の距離で倒れ伏した男を見下ろしながら、竜は哂う。

 楽しくて仕方がないといった様子。

 玩具で遊ぶ幼子のように、鼠をいたぶる猫のように。


「魔力はまだ残っているのだろう。さあ、次はなんの魔法を見せてくれるのだ?

 炎か、氷か、雷か? まだ術式はあるのだろう、定命の魔術師よ。ワシにオマエの煌めきを見せてくれ」

「……悪竜め!!」


 男は這いつくばったまま抜き打ちで杖を突きだした。


【――炎よ!!】


 術式を構築する。

 魔力を練り上げる。

 杖の先端に火が灯る。

 【炎の矢】を放つ術。男が最も得意とする術だ。

 放つ一矢は男の人生で最も速く、最も純度の高い一撃。


 炎の矢は瞬く間にニズキスへと到達し――その身に纏う竜鱗によってあえなく弾かれた。

 竜本体の強度もさることながら、世界樹から奪った濃密な魔力がその身を鎧っているのだ。

 死力を尽くした一撃を難なく弾かれた男の顔に絶望が過ぎる。


「そんな……」

「クハハッ、何度見てもニンゲンの魔術はキレイだのう。百年ぽっちも生きられぬ命を凝縮した極上の煌めきだ」

「ぐ、クッ……」


 その称賛は魔術師にとって侮辱に他ならなかった。


「まあ、ワシのコレクションに入れるにはいささか小ぶりだがな」


 尾杖の先端に魔力を集めながら竜がしゃあしゃあと宣う。

 竜は大なり小なり宝物を収集する性質を有する。

 金銀財宝を収集する竜、数多の武具を収集する竜、あるいは生物を収集する竜。

 そして、この竜は魔法を収集する。ゆえにその二つ名は魔導竜なのだ。


「【炎の矢】というのなら――ほれ、このくらいの大きさはないと」


 猫が尾を振るような気軽さで、尾杖から神殿の柱ほどの矢が放たれた。

 詠唱すらなく、ただ魔力を練り上げるだけで魔法となる。

 生まれついての第七階梯――人間で言えば大魔導士級の存在である竜にとって、魔法を繰ることは呼吸に等しい。


 迫る極大の炎の柱矢。

 精魂尽き果て、心の折れた男にそれを防ぐ術はなかった。










「――なるほど。こいつはおいたが過ぎる」


 ふわりとそよいだ風が倒れ伏す男の頬を撫でた。

 気付けば男は結界――四方の剣に囲まれた竜の領域を脱していた。

 代わりに、男のいた場所にがいた。

 黒い髪、着古したローブ、一見して石とも金属とも知れぬ黒材でできた精緻で無骨な杖。

 は魔術師だった。


「……ほう。ワシの結界に干渉したか。また随分な手練れが釣れたのう」


 ニヤリ、と新たな収集対象の到来に、ニズキスが口元を笑みに歪ませる。

 優れた魔術師は優れた魔法を持つ。短い人生を賭けた研鑽がそれを生み出す。

 その煌めきこそがニズキスの収集対象。


「――ひとつ誤解を訂正しておくが」


 対する魔術師テルは冷然とした表情のまま、


「小便ひっかけて縄張り主張しただけで結界だと? 寝言は寝て言え、魔導竜」


 そう口にした。


「テ、テル?」

「エリーズは結界に入らないように。小便臭さがうつる」

「お前は何を言っているんだ!? そんなわざわざ竜を怒らすような――」

「――クハハハハハハハハハハハッ!!」


 エリーズの諫言は鼓膜を突き破らんばかりの大笑声に搔き消された。

 ニズキスは根の玉座に腰かけたまま天を見上げ、尾を抱えて笑っていた。

 そうして、笑って、笑って、笑って――金の瞳でテルを睨みつけた。


「――殺すッ!!」


 殺意は即座に魔法となって放たれた。

 炎、氷、雷、岩。あるいは熱波、吹雪、突風、砂嵐。

 ありとあらゆる属性の魔法がテルに殺到した。

 並みの魔術師はもちろん、先手を取られては大魔導士ですらこの飽和攻撃を凌ぐ術はないだろう。

 魔力量、詠唱速度、そして威力。

 その全てにおいて、竜は人間を凌駕している。

 それは単純明快な、生物としての性能の差だ。



 ゆえに、導き出される結果もまた単純明快。



 ふと、ニズキスの頬をそよ風が撫でた。


 気付けば、魔術師を鏖殺せしめんとした魔法の悉くが搔き消えていた。

 まるでそんな魔法モノなど初めから存在しなかったかのように。


「――宣言する。傲慢なる魔導の竜よ、お前を天上より叩き墜とす」


 冷然とした宣言。

 魔術師はただそこに立っていた。

 身じろぎひとつ、詠唱ひとつもなく、ただそこにいるだけで、ニズキスの魔法を



「魔法が見たいのだろう、魔導竜」


 魔術師の黒い瞳がニズキスを見据える。

 その姿に竜のような圧はない。魔獣のような獰猛さはない。

 ただ、底知れぬ深淵だけがあった。


「存分に見せてやる。これが魔法というものだ」


 テルは詠唱を始めた。

 同時に杖が複雑な軌道を描いて振るわれる。


「――え?」


 詠唱に気を取られていたニズキスは、気づけば全身を風の刃に切り裂かれ、ついでとばかりに吹き飛ばされる。

 地面と平行に吹き飛んだ矮躯が世界樹の幹に叩きつけられ、しかし即座にニズキスは起き上がった。


「二重詠唱か。やるではないか、魔術師」


 頬を流れる血を拭う。それだけの時間で全身の傷は癒えた。

 ダメージ自体は大したことない。竜の肉体は頑強だ。賦活能力とて生物の域にはない。

 だが、物理的な頑丈さ以上に、竜の鱗は魔法に対して強固だ。

 人間の魔法が鱗の守りを突破するなどあり得ない。

 生物としての格が違うのだ。おまけに今のニズキスは世界樹の魔力をも纏っている。

 人間の魔術師に突破できる謂れはない、はずだ。


 しかし、現実は竜の常識を凌駕する。


 久しく感じたことのなかった痛みが、流血が、ニズキスの尊厳を傷つける。


「キサマ、如何にしてワシの鱗を突破した」

「……お前たちは、何かにつけて大雑把すぎる」

「は?」


 応えが返ってくると思っていなかったニズキスはきょとんとして目を瞬かせた。

 この魔術師はわざわざ詠唱を中断して言葉を返してきたのか――否だ。

 そんなおめでたい相手ではないことは、この僅かな時間でニズキスも理解している。


「――まさか」


 ゆえに、その可能性に思い至った。

 魔導竜の背筋を怖気が駆けずる。


 ――


 詠唱であるとか、鱗の守りを突破したとか、そういう次元ではない。


 もっと根源的な話として、自分は【竜退治】という巨大な魔法の中にいるのではないか。


 数刻前の自分なら一笑に付していたであろう、そんな予感がニズキスの頭を過ぎる。

 そうだ。

 この状況が魔法であるのならば、鱗の守りなどなんの意味もなさない。

 これが【竜退治】であるならば、結末などわかりきっているのだから。


「もしも、そんな魔法が存在するのなら……」


 欲しい。

 見てみたい。

 喰らってみたい。

 危機を前にしてなお、竜の欲望が疼く。


「ああ、けれど、魔力はどうしたのだ、魔術師よ?

 いかにキサマが優れた魔術師であろうと、どのような手練手管を駆使しようとも、その絶対は覆せない」


 竜すらも取り込む巨大な魔法を紡ぐには、それ相応の魔力が必要だ。

 断じて、ただの人間が賄えるものではない。

 それを如何にして調達したのか。ニズキスの興味はそこに向けられていた。

 魔術師は答える。


「お前と同じだ、魔導竜」

「同じ?」

「今、僕はエルフの王だ。全てのエルフの民は僕の支配下にある。

 ――当然、その魔力も、祈りも、全て僕のものだ」

「…………クハッ」


 その瞬間、ニズキスは生まれて初めて己が首を撫でる死を予感した。


 淡々と詠唱を続ける魔術師の背に、幾万ものエルフを幻視する。

 あり得ることではない、はずだ。

 ニズキスとて、世界樹の魔力を取り込むのに相応の代償を支払っている。竜だからこそ払える代償だ。

 対して、あの魔術師はどうだ。

 ひとりひとりが己を超える魔力量を持つはずのエルフたちから残らず魔力を召し上げて、涼しい顔のまま。

 代償のひとつとして支払っている様子は伺えない。


 だからそれは、至極単純なことだった。

 単純明快な――魔術師としての格の違いだった。


「致し方なし!!」


 それはニズキスの敗北宣言だった。

 その背に竜の翼が顕現する。

 即座に飛びあがる。

 逃げるのだ、誇り高き竜が。人間の魔術師ごときに背を向けるのだ。

 屈辱はある。

 怒りもある。

 だが、それ以上にニズキスの心を支配するのは、未だかつて見たことのない魔法の結末だった。


 格の違いは理解した。

 彼我の技量には途方もない差がある。

 だが、果たしてこの魔法は

 竜退治の結末には、人間に懲らしめられた竜が這う這うの体で逃げ去るものだってある。

 つまり、逃げるだけなら可能なはずだ。

 そして、待てばいい。人間の魔術師の寿命など竜にとっては瞬きの間に尽きるのだ。


 逆しまに宙を翔けるニズキスは雲を突き破り、世界樹の主枝すらも超えて天上へと至る。

 青から黒へと移りゆくダークブルーの空。

 もはや大地は遥か遠く、竜の瞳でも魔術師の姿は砂粒ほどの大きさにしか見えない。


 だというのに。


「――宣言しただろう、魔導の竜」


 その声は囁くようにニズキスの耳元で響いた。


 そのとき、ニズキスは気付いた。

 己が飛翔する高度のさらに上。空の天辺に無尽の魔力が集っていることを。


「お前を天上より叩き墜とす、と」


 魔術師は杖を掲げる。


「――我が真名、テル・ミー=トゥルースの名に於いて奏上する」


 そうだ。

 この男は対峙したときからずっと詠唱を続けていた。

 【竜退治】という途方もない魔法に気を取られ、無視していたか細い声の連なり。

 幾万のエルフの祈りを束ねた魔導の果て。

 その魔法が今、開帳される。


「十二の階梯を駆け上り、顕現せよ天なる雷」

「……ああ、そうであったな」


 ニズキスは理解した。

 己の言動ひとつで世界を変えてしまう魔術師は嘘をつかない。

 嘘をつけば言葉が弱まる。弱い言葉では世界は変えられない。


 己の言動ひとつで世界を変えてしまう魔術師はできないことは口にしない。

 ひとつ不可能が増えるたびに、己の可能性を狭めてしまうからだ。


 だから――それゆえに、魔術師は、宣言したことは全霊を賭して履行する。

 その誓約ゲッシュこそは絶対。


 すなわち、魔術師は言葉を弄さない。


【――神威降臨アドヴェント天帝招雷デイ・フールグ


 天を裂く轟音と共に、神の雷が魔導竜を打ち据える。

 そうして、【竜退治】は終わりに至った。


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