承
小屋を出て、暮れなずむ空の下、磨かれた刀身に顔を映しながら頬に剣先を当てる。
僅かに肌を引っ張られる感触と痒い箇所を掻くような快感。
次の瞬間、ジョリジョリと伸び放題だった髭が削ぎ落される。
魔獣争乱の対価に貰った名剣はなるほど、凄まじい切れ味だった。危うく頬肉まで削ぎ落しかけたほどに。
次いで伸び放題だった髪を後ろで縛り、それでも暴れる髪を適当に切り揃えれば、なんとか人前に出れる程度の見た目にはなった。
「どうかな、エリーズ?」
肌人で言うところの二十代後半くらいだろうか。
黒髪黒目のどこにでもいそうなテルの顔を見るとはなしに見て、エリーズはぷいと顔を背けた。
「肌人の美醜はわたしにはわからん」
「エルフ基準では?」
「平坦な顔に目がふたつと鼻がひとつついている」
「それは重畳。何年も鏡なんか見てないから目鼻が増えてたらどうしようかと思っていた」
「どういう生態だ……」
「君の服はどうする? その服でよければあげるけど、だいぶブカブカだね」
「貴様が心配する必要はない」
すげなく告げると、エリーズはその場で平服を脱ぎ捨てた。
男物の平服に隠れていた意外と起伏に富んだ肢体が惜しげもなく晒される。
「~~♪」
生まれたままの姿になった少女が歌い、下草の上でステップを踏む。
声とも鳴き声ともとれぬ原初の音がその身を包む。
しゅるりと衣擦れの音がした。
気付けば、透き通るようなエルフの肌は木の皮を縒った糸と葉で編まれた服に覆われていた。
一切の人工物を介さず、簡素ながらも美しい装いはエルフの王族にのみ許された正装だ。
「へえ、便利だね」
「……この程度、エルフなら誰でも使える」
自分の身体にとんと興味なさそうな未来の夫を睨みながら、エリーズは口を尖らせた。
「肌人の国で最強を謳われる魔術師が身繕いの魔法に驚くとはな」
「うん。【服を作る魔法】なんて肌人にはない発想だろうね。普通、服には地域差や流行り廃りがあるから潰しが効かないし、術式の開発と修得の手間を考えれば、適当な魔法で適当に稼いで適当な服を買った方が格段に早い」
「…………」
エリーズは眉をひそめた。
本当にこの男が人界最強を謳われる魔術師なのか?という疑問が頭を離れなかった。
エルフでもそうだが、魔術師というのはどこか浮世離れしているのが常だ。
四六時中魔法のことを考え、魔法だけを口にし、魔法で世界を塗り替える生態がそうさせるのだ。
王族の責務として魔法を学んでいるエリーズですら、そのケはある。
(それに魔術師の『
だが、このテルという魔術師はなんとも俗物的だ。
竜退治に玉座を要求するあたり特にそうだ。エルフの感覚でははしたないとすら思える。
しかも、その魔力量は常人並み……肌人の魔術師としては及第点という程度だ。
王族として優れた素養を持って生まれたエリーズとは比べるべくもなく、そこらのエルフと比べても雲泥の差だ。
もちろん魔力量の多寡が魔術師の技量に直結するわけではない。
だが、優れた魔術師の多くは潤沢な魔力量を持つ。魔力量が多ければそれだけ魔法の修練ができるからだ。
魔法はその多くを才能に依拠するが、技術であることに変わりはない。
如何な才能とて磨かなければ輝くことはない。
それを考えれば――
「で、エリーズ。エルフの国はここでよかったかな?」
「んん?」
思考に没頭していたエリーズは一瞬テルが何を言っているのか理解できなかった。
次いで、目の前に自分の故郷が
遠くに見える、空を支えているかのような巨大な世界樹。
周囲を行き交うエルフたちのざわめき。
辺境の殺伐とした山森とは違う、古く芳醇で落ち着いた木の香り。
目と耳と鼻がこれが現実であることを伝えているが、少女の思考が現実を認めるにはしばしの時間が必要だった。
「て、転移の魔法……だと!?」
「ああ、うん。結果だけ見れば似たようなものかな」
「いつわたしに魔法を使った?」
「今さっき」
「――!!」
あり得ない、という言葉が喉まで出かかったのをどうにか呑み込む。
自分がエルフの国に立っている以上、その言葉は魔法を貶めてしまうものだからだ。それは魔術そのものへの冒涜となる。
だが、目の前の光景を認めるには魔術師の端くれ――第三階梯としての常識が邪魔をする。
――完全な【転移の魔法】は七階梯級――大魔導士と呼ばれる一握りの存在が使える超級の魔法だ。
エリーズとて故郷の森の中なら、己の身を数歩分“跳ばす”くらいはできるが、それが限界だ。
地図の端から端といっていい距離を、承諾を得ていない他人ごと転移させる。
できるできないを通り越してあり得ないとしか言いようがない。
(これが人界最強の魔術師……信じられないことばかりです)
「それで、僕の玉座はどこにあるの?」
「貴様のではない……まだな」
――これさえなければなあああああ!!
胸の裡で思う存分叫び散らしてうっ憤を発散しながらエリーズは先導する。
すれ違うエルフたちはエリーズに気づくと無言で礼をとって道を譲る。
そのたびにエリーズの胸は痛んだ。
かつては陽気に挨拶を交わしていた民から距離を取られることが辛かった。
だが、彼らの多くは父や母、あるいは兄や姉を竜に奪われているのだ。
国と、全てのエルフの魂のふるさとである世界樹とを存亡の危機に晒している王族と、どうして気軽に挨拶を交わせようか。
きっと言いたいこともあるだろうに。それを思えば、これは彼らの精一杯の誠意なのだ。
隣で杖を片手にきょろきょろとあたりを見回す阿呆の首根っこを掴みたくなる腕を押さえながら、エリーズは嘆じた。
(ほんと、こんな男が最後の希望なんて笑えない冗談ですね)
「テル殿、なにか気になることがあるのか?」
「ああ、うん。ドラゴンに現在進行形で襲われている割には――随分と被害が少ないと思ってね」
エリーズはテルの顔面をぶん殴った。
◇
エルフの王宮は世界樹の麓にある。
王宮、と言っても見た目は周囲の木造建築と大差はない。
元より閉鎖的なエルフの国では他国の要人を迎えることが少なく、権威を誇示するという文化が薄いのだ。
「――もっと言えば、王族というのも我らを交易共通語に当てはめた言いように過ぎないのでしょう。より正確には守り手とか象徴とか、そういうニュアンスになるかと思われます」
「なるほど、勉強になります」
膝をついたテルは曲がりくねった木の根の玉座に腰かけた妙齢のエルフを見上げる。
王冠を模した月桂樹の髪飾りにエリーズと同じ金の髪。
娘と比べると柔和な目元に、白い葉で編まれたゆったりとした正装から覗く肉付きの良い体つき。
肌人なら二十代で通じる若々しい見た目とは裏腹に古木のような重厚な魔力の気配。
重ねた年齢で言えばテルの十倍ではきかないだろう。
権威の誇示を必要としないのも頷ける。女王はその身ひとつでエルフの王が如何なるものかを体現していた。
「拍子抜けでしたら申し訳ありません、魔術師殿。
わたくしはエルヴィール・シルファリウム=クープレスス。エルフの国の女王です。今のところはまだ、ですが」
「お初にお目にかかります。魔術師をやっているテルと申します。女王陛下におかれましてはご機嫌麗しく」
「……」
『母さま、皮肉ではないと思います。なんというか、こういう人みたいなんです』
『そ、そうなのね。お母さんちょっとびっくりしちゃったわ』
『こんな状況でご機嫌麗しいわけないでしょ、くらい言ってもいい気がしますが……』
意外ときちんとした礼法で跪いたテルを尻目に、エルフの女王と姫がひそひそとエルフ語でささやき合う。
兵士たちに交じって学んだエリーズは交易共通語だと男口調だが、素のエルフ語だと歳相応のものだ。
『ところで、なんでテルさんの頬はあんなに腫れているの? あまりに堂々としていて指摘しづらいのだけど、氷とか持ってきた方がいいのかしら?』
『ごめんなさい。さっきわたしがぶっちゃったんです』
『なんで!?』
『カッとなってつい……』
『もうエリーズちゃん!! すぐに手が出るのはよくないってお母さん思います。だいたいあなたは弓とか魔法ばかり稽古して嫁入り修業が――』
「女王陛下?」
「はっ!!」
いつの間にか顔を上げていたテルが怪訝そうな表情で見上げていた。
エルヴィールはエリーズに目線で「あとで説教」と伝えると、コホンと咳払いした。
「……条件はエリーズから聞きました。玉座を譲ることに否やはありません。我らエルフは世界樹あってのもの。世界樹を守るためなら国とて惜しくはありません」
「そのために全てのエルフの民を喪うとしてもですか?」
「魂の寄る辺なき肉体は生きているとは言いません。エルフにとって世界樹はそういうものです。たとえエルフが最後の一人まで死に絶えようと、世界樹ある限りいつかエルフは蘇る……」
「種族の象徴というだけではない、と」
「肌人の貴方には理解しがたいかもしれませんね。申し訳ありませんが、そういうものだとご理解ください」
「そういうものだと理解しました。では――」
ローブの裾を翻してテルは立ち上がった。
空気が変わる。
どこにでもいるような没個性な肌人の男はもういない。
そこにいるのは、言葉ひとつで世界を変える――魔術師だった。
「魔術師テルの名に於いてここに契約を結する」
冷然とした魔術師がいつに間にか手にしていた杖を振るう。
一見して石とも金属とも知れぬ黒材でできた無骨な杖。
杖頭に誂えられた月を象る魔石が仄かな燐光を放つ。
蒼く澄んで、しかし底知れぬ深淵の色。魔術師テルの魔力光。
「契約内容は世界樹を侵す竜の退治。対価はエルフの国の全て。
なお、対価は前払いとする」
紛うことなき地獄の契約。
結べば後戻りできない。
だが、エルフの女王に選択肢はなかった。
皆、死んだ。竜に挑んで死んでいった。
彼女の親も、兄も姉も、国の腕利きの魔術師も、冒険者も、他国より招いた宮廷魔術師すらも死んだ。
正真正銘、この故も知れぬ男が最後のひとりなのだ。
「エルフの女王エルヴィール・シルファリウム=クープレススの名に於いて契約を履行する。
我が身の退位をもって対価を賦与する。
……これより貴殿はエリーズの夫であり、エルフの王です、テル様」
エルヴィールは玉座を下りてその脇に恭しく跪いた。
テルはズカズカと無遠慮に進み出ると躊躇なく玉座に腰かける。
「エルフの玉座、たしかに頂戴した。案外座り心地いいね、これ」
「ふん、随分とみすぼらしい王がいたものだ」
「エリーズ!! 申し訳ございません、テル様」
「いいさ」
ぷいっとそっぽを向いたエリーズを見て、テルは苦笑を浮かべた。
このくらい素直な方がやりやすい。妻の駄々を笑って見逃す程度の器量はテルにもあった。
「でも、別にエリーズの夫の立場は要らなかったんだけど?」
「ぐぬぬぬ……」
それはそれで納得いかない、と言わんばかりに歯ぎしりするエリーズを横目にテルが訊ねるが、エルヴィールはゆるりとかぶりを振った。
「エルフの玉座は世界樹の守護の誓い、禅譲するにも条件がございます」
「たとえば誓いを継ぐ一族の配である、とかか。まあ、それくらいの
指先に燐光を灯したテルが独り言ちる。
エルフの玉座が齎す力は彼の想像通りであり、ゆえに絶大だった。
「本来ならば新王の即位は国を挙げて盛大に祝うものですが……」
「不要だ。それより折角お膳立てが整ったんだ。さっさと始めよう」
「は?」
座ったばかりの玉座からためらいなく立ち上がったテルは気負いなく告げた。
「竜退治の時間だ」
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