中天に昇った春の陽光が山森を照らす。

 雲がまばらにかかる空では巨鳥がさんざめき、鬱蒼とした森を角猪が闊歩する。

 そこかしこで肉食の魔獣が牙を剥き、それすらも捕食せんとする食魔獣植物たちが蔓を伸ばす。

 そんな人跡未踏の山頂には明らかに違和感のある小屋がある。

 人外魔境に等しい極地とは不釣り合いな普通の山小屋。

 それがテルの住処だった。


「……んが」


 小屋のど真ん中に鎮座するベッドではテルが寝こけていた。

 テルの朝は遅い。なんなら二、三日起きないこともある。

 その間は周囲を縄張りにする魔獣たちも安穏とした弱肉強食の日々を送れるのだが、その日はいつもと様子が異なっていた。


「…………人か」


 億劫そうに瞼を開いたテルは万年床から起き上がり、ぼさぼさの髪と髭を適当に梳くと、着古したローブを羽織り、愛用の杖を手に小屋を出た。

 途端にそこかしこで魔獣たちが遠吠えをあげる。

 頂点捕食者の覚醒を知らせる警戒の咆哮だ。

 いつものことなのでテルは耳を塞いで咆哮をひとしきり耐えると、結界に反応のあった方角へと足を向けた。


 テルが居を構えたこのあたりは周辺国の国境からも遠く、棲んでいる魔獣も強大で、手を出すうま味のないド辺境だ。

 あちこち旅して見つけた、戦友への宣言通りの山奥。

 テルにとっても魔獣の悲鳴きんじょめいわくがうるさいことを除けば理想的な住まいだ……お互い様かもしれないが。

 そんな僻地に人が来ることはないし、来る意味もない。

 ただひとつ、テルに会いにきたのでなければ。


「んー、すごいな。まだ生きてる」


 気配を探りながらテルは呟いた。

 皮肉ではなく純粋な称賛だ。このあたりの魔獣はどれも強大で、そこいらの冒険者程度なら瞬きのうちに肉塊になっている。

 テルは他人の生き死にには興味ないが、自分に会いに来た人間がミンチになる前に顔を見ておこうと思うくらいの甲斐性はあった。

 てくてくと山を下り、森を抜け、怯えたように後ずさりする湿地狼に手を振り返しながら進むことしばらく。

 テルはようやく稀客の姿を視界に捉えた。


 美しい少女だった。

 豊かな実りを思わせる黄金の髪に、神が手ずから塑像したかのような整った顔立ち。

 弓を手に、血に塗れて必死の形相を浮かべてもなお、その美しさは妖精の如く。


「まだだ……まだ、わたしは死ぬわけにはいかない!!」


 必死な表情で叫ぶ少女はありていに言って命の危機にあった。

 周囲を魔獣に取り囲まれ、木の皮と葉で編んだ簡素ながら美しい服は見る影もなく、その下の白磁の肌にはいくつもの裂傷が走っている。

 出血は足元に血だまりを作り、その命を刻々と削っている有様。

 次の瞬間に倒れてもおかしくないほどの重傷。

 もはや気合で意識を保っている段階だろう。

 それゆえにテルが近づいて来たことにも気付いていない様子だった。


「ここでわたしが倒れては国の皆が、世界樹が――」

(おや?)


 決死の覚悟で少女が魔力を練り上げる。

 適当に追い返すつもりだったテルは術を繰る手を止めた。

 少女が練り上げた魔力はテルの魔力量――魔術師としては並みのそれを遥かに上回っていた。

 テルの中の天秤が傾く。

 稀客に対応する面倒臭さから少女への魔術的興味へと。

 テルは練っていた術式を変えた。


「――【森へお帰りアド・シルヴァン】」


 さっと杖を振るう。

 応じて、囁くような風が今にも少女へとびかからんとしていた魔獣たちを撫でた。

 反応は劇的だった。

 魔獣たちは悲鳴をあげてのたうち回り、食魔獣植物は自ら根を引き千切って転がるように森の奥へと逃げていく。

 彼らは思いだしたのだ、この世界もりの主が誰かを。


「な、なにが起こったの……?」

「こんにちは、お嬢さん」

「んひぃッ!?」


 唖然として周囲を見回していた少女は、ぽんと肩を叩かれて飛びあがらんばかりに驚いた。

 振り向いた少女はテルを見て、まるで幽霊に出くわしたかのような表情を浮かべた。


「な、な……」

「そんなに驚くことかい。僕に会い来たんだろう」

「え、あ?」

「もしかして違う? 秘境探検家だったりする? だったら自意識過剰だったなあ」


 困ったように髭モジャの頬を掻くテルをまじまじと見つめ、ようやく少女は現実を認識した。


「……もしや、魔術師テルか?」

「そうだけど?」

「そうか……よかった。これで、みんなを、助け……」


 限界などとうに過ぎていたのだろう。

 少女は安心したように気を失った。


「いや安心されても困るんだけど……」


 山小屋まで運ぶ面倒を思って急速に魔術的興味が薄れていくのを感じながら、テルはぱたりと倒れた少女を見下ろす。

 そのとき、頬にかかっていた黄金の一房がはらり流れ、少女の横顔を露わにした。


「ふーん?」


 テルの視線が少女の横顔に注がれる。

 正確には露わになったその耳へ。

 少女の耳は笹穂のように長く尖っていた。



 ◇



「……はっ!?」


 エリーズが目を覚ましたとき、すでに日は暮れかけていた。

 ふらつく頭をぶるぶると振って起こすと、自分がぶかぶかの平服を着せられ、妙に心地のいいベッドに寝かされていることに気が付いた。


「起きたかい?」


 声に引かれて視線を巡らせれば、ぼさぼさの髪と髭に覆われたローブ姿の男が目に入った。

 男――テルは読みかけの魔導書をパタンと閉じると、ズカズカとベッドに乗り込んでエリーズの額に手を当てた。


「熱はないみたいだね。毒を喰らってたら面倒だったんだけど。運がいいね、のお嬢さん」

「なっ」

「その尖り耳を見れば誰だってわかることだ」


 言いながらテルはペタペタと無遠慮にエリーズの身体をまさぐっていく。

 少女より少しだけ冷たい指が傷跡に触れるたびに、くすぐったいような暖かいような不思議な感覚がエリーズの中を駆け巡っていった。


「うん。経過は良好みたいだね。だいぶ血を失ったからしばらく激しい運動は控えるように。なにか違和感はある?」

「生まれて初めて男性に触られて、対応に困っている」

「生きていく上では慣れた方がいいでしょう。人間で一番多い性別は男性と女性だからね」

「そうか。助言に感謝する――――ではなく」


 肩からずり落ちそうな上衣をなんとか整え、エリーズはベッドの上で居住まいを正した。


「まずは命を救っていただいた感謝を。

 わたしはエリーズ・シルファリウム=クープレスス、世界樹の葉より零れし雫を受けし糸杉の仔。

 テル殿に申し上げたき儀あってまかりこした」

「糸杉の仔、しかも源流か。なるほど、エルフのお嬢さんではなくお姫さまと呼ぶべきだったか」


 うんうんと頷く髪髭モジャモジャ人のどこに目線を向ければいいかしばし迷い、鼻――があると思しきあたりに視線を固定したエリーズは話を続けた。


「ご推察のとおりわたしはエルフの王族だ。そして、王族を代表して依頼したい。どうか?」

「いいよ。続けて」

「今、エルフの国は竜の襲撃を受けている。我が国と我が国が守護する世界樹の危機だ。どうか力を貸してほしい」

「対価は?」

「わたしという存在の一切を貴殿に捧げる」


 エリーズは躊躇なく言い切った。

 少女は自分の価値を理解している。忌々しいことに肌人の間で常若のエルフが愛玩用の奴隷として取引されていることも知っているし、自分がエルフの中でも容姿がいい方であるということもわかっている。

 王族であるということにも価値があるだろう。

 だから――


「足りないな」


 軽く城が建つほどの対価を提示されながら、魔術師もまた躊躇なく言い切った。


「国を救うのに王族の一葉ではまったくもって足りない」

「……王族にはもはやわたしと母しかおらぬ。母は王だ。貴殿にはやれぬ」


 下衆が、という罵声をギリギリで押しとどめながらエリーズは続けた。

 エルフの国が持つあらゆる伝手を総動員してなお竜に勝てる人物はついぞ見つからなかった。

 この魔術師が最後のひとり。人界最強を謳われる魔術師だ。

 肌人の国の将軍より伝えられた「あいつならたぶんここら辺にいるだろう」というあまりにもか細い糸を伝ってみつけた、最後のひとりなのだ。

 だが――


「その認識が間違っていると言っている。

 ――国を救うのなら、国を対価にするのが筋だ」


 だが、そのか細い糸はどうやら地獄に繋がっていたらしい。


「たしか、エルフは婚姻すると耳飾りをつけるんだったね」


 魔術師の指が飾り気のないエリーズの耳を無遠慮に撫でる。

 一切の愛情を感じない、ただ形を確かめるような手つき。


「未婚の、しかも王族の一粒種を寄越したということはそこまで差し出す覚悟があるんじゃないのかい、王族の代表さん?」

「……そうだ。竜は世界樹を占拠し、その魔力を喰らっている。このままでは我らは国と世界樹の両方を失う。

 それならば世界樹だけでも残したい――たとえ国を売り渡すことになったとしても。それが我らエルフの総意だ」

「契約成立だね」

「…………ああ、そうだ。我が夫、我が王。竜退治の対価に貴様をエルフの王へ迎えよう」


 苦渋と屈辱を噛みしめながらエリーズは跪いた。

 ふと、肌人の国で飛び交っていた噂を思いだす。

 魔術師テル――その二つ名は“地獄の音楽家”。

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