第3話 停滞と想望


「あれ、今日は珍しい人だ」


 こちらを見るなり話しかけてくる女子高生に、レジに立つ安曇海はぎこちない愛想笑いを浮かべる。常連の一人──そもそも常連ではない客は多くない──であるところの彼女は相手を気にすることなくズケズケと話しかけてくるところがあり、海は密かに苦手にしていた。


「太陽君と宙さんは?」


「雲居先輩は奥で……勉強していて、宙さんは銀行に行くついでに買い出しに出ています」


 雲居太陽はあまり店のほうには関与していなかったのだが、ついこないだからそちらも少しさせられるようになっていて、今は奥の部屋で次は何を発注すればいいか、という宿題を出されていた。大意で勉強でいいだろうと特に説明はせずに、シャーペンの芯とみかんジュースのバーコードを読みながら顔を上げることなく海は質問に答えを返す。

 常連が名字ではなく名前で呼んでいるのは、主にここにいる星月宙と雲居太陽が名前で呼び合っているからである。


「へー、勉強とか苦手なタイプだと思ってたんだけどな。意外! じゃあ、頑張ってって伝えといて!」


 支払いを済ませて女子高生は「じゃあねー」と店を出ていく。別段親しくなくてもそういうのはなんとなく察せられるものなんだな、と海が妙な感心をした矢先だった。

 奥に繋がるスライドドアが突然勢いよく音を立てて開く。そこから顔を出したのは中で在庫の台帳とにらめっこしていた筈の雲居太陽。


「……ズルい」


「え?」


「前々から思ってたんだけど、やっぱりズルい!」


 何がだろうか、と海は目を瞬かせる。急にそうやって言われることは何もないはずだ。もしかしてアレコレ言われずにレジを任されるからなんだろうか。そこは太陽自身に頑張ってほしいところだし早くそうなってもらいたいところでもあるのだけど……と考えが逸れかけた時。


「宙さんばかりズルい! 俺も名前で呼ばれたい!!」


 力強く明かされたのは思いがけないが過ぎる正解だった。



「だってさ? 宙さんより俺のほうがずっと海と付き合い長いのにさ?」


「そう言われても……」


 顔と腕だけ店側に投げ出すようにしながら太陽は不満を続ける。このタイミングで星月宙が帰ってきたらがっつり叱られるんじゃないかと海は思わなくもなかったのだけど、宙どころか他に客が来る気配も見えなかった。何しろ店の前の道を歩いている人の姿がちっとも見えない。

 そしてこういう時の太陽はちょっとやそっとでは引かないのだ。


「だから俺のことも太陽って呼んでくれよ!」


「それはちょっと……」


「なんでだよ宙さんのことは宙さん、って呼んでる癖に」


 なんでもなにもそれは単に星月宙が名字呼びを嫌がっているから、というだけの話である。年上相手にそんな馴れ馴れしい真似をするのは本当に気が引けたのだけど、そうやって気を使った(つもり)の結果、逆に気を使わせてしまったのはあまり思い出したくない悪い思い出だ。


「……宙さんはそう呼んで欲しいと言うから」


「じゃあ俺だってそう呼んでほしいからそう呼べよー」


 それは全くの正論だったものだから海は言葉に詰まってしまう。

 道理が通っていない自覚はある。悪いとも思う。だけどどうしてもできないのは、宙と違ってその呼び方で馴染んでしまったことと、もう一つ。


「でも、そうすると土生先輩だけ違うようになるし……」


「じゃあ緑さんも名前で呼べばいいじゃん。気にしないと思うぜ?」


 あっさりと答える太陽に、簡単に言うと海は深いため息をつく。だけど恐らくそうなのだろうな、という想像がつくのも確かだ。気にしているのはきっと自分だけなのだろう。分かってる。太陽は、悪くない。


「……というか、雲井先輩はどうして土生先輩を名前で呼んでるんですか」


 分かっているからこそ気不味くて、海は話の方向性をずらす。初対面の頃からそうだったから不思議にも思わなかったのだけど、同じ学校だったのはこの二人なのだから、本来なら雲居太陽こそが土生緑を先輩と呼ぶべきであるはずなのだ。


「だって俺が入ったとき大地さんも職員でいたからさー、名字だとややこしくて」


「大地さん?」


「ほら、一つ前のイエローだった。緑さんの兄さん」


「えっ」


「えっ、言ってなかったっけ」


「……初耳です」


 確かに自分たちの前のイエローが途中でリタイアになったせいで土生緑が適正年齢より少し早いながら就任し、中途半端な時期だった為にそのまま次の、つまり自分の代のイエローになったのだということは知っていた。だけど名前を聞いたことはなかったしそれがまさか彼女の兄だなんて思いもしなかったし、ましてや施設の職員でいただなんて!


「あー、確かに海が入った頃には、えーと外の仕事……」


「外勤?」


「そうそうそれ! だったからまー、知らなくってもしょうがないって」


 いつの間にかすっかりこっち側に出てきてしまっていた太陽が海の背中をばしばしと叩く。気遣われてしまったのが分かって、それで勝手に居た堪れない気持ちになってしまって海は視線を前に逸らす。

 宙が戻ってくる気配はまだ見えない。タイミングよく客が入ってくることもない。


「……なぁ、海」


 少しだけ違うトーン。視線を戻すと太陽が真っ直ぐに海を見上げていた。


「本当に、気にしないと思うぞ」


 言われたセリフはさっきのものとほとんど同じだけど、込められているものが随分と違う。比重がいつの間にか入れ替わっている───その理由もやはり分かってしまうから、今度は視線を逸らせられなかった。

 それは事実なんだろうと海は分かっている。それが嫌だというのではなく、そうするというのは既に変化であり変化を起こすこと自体が、


「───…でも、


「男二人で顔つき合わせて何をやってるんだい」


 急に聞こえた声に太陽と海は同時に振り返る。すると思ったよりも近くにいた姿に太陽が「やべ」と小さく言ったのが海の耳に届き、サッと血の気が引いていった。

 入ってきていたのは星月宙ではなく、土生緑だった。


「話くらいしててもいいと思うけど、人が入ってきたことに気付かないのは良くないな。お客さん、帰ってしまうよ」


「緑さん! 宙さん途中で見なかった?」


 青くなっている海を遮る勢いで身を乗り出して太陽が緑に問いかける。そんな太陽を見て緑はくすりと微笑むと、少し思い出すような仕草を見せた。


「ああ、見たよ。たくさん荷物を持っていたものだから手伝おうかと言ったんだけど、それより雲居君と安曇君の様子を窺ってくれと言われたんだ」


 少しくらいは持たせてくれてもいいのに、と緑は肩をすくめる。普段を思えばそのやり取りは想像に容易いように思えた。


「ところで、雲居君は言いつけられていたことがあったんじゃないか?」


「あっ」


 さっきより軽くさっきより大きな声でやべっ!とこぼして太陽が慌てて部屋の中に戻っていった。だから緑の視線は自然と海へと向かう。


「という訳だから、安曇君が星月さんを手助けにいってくれないか」


「え? でも、いいって言われたんじゃ……?」


「私は星月さんに好かれてないからね。私がレジに入って安曇君が行けば多分喜んで手伝ってもらうと思うよ?」


「それは───」


 嫌がっているのに名字で呼ぶからでじゃないですか。そう言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。どの口がそれを言うのか。自分ができないことを人に言おうというのか。そこに含まれる意味は随分違うとしても、それはおかしいじゃないか。


「なんだい、安曇君」


「……いえ、じゃあえっと、行ってきます。お店のほう、お願いします」


「うん」


 頭を下げて海は店を出ていった。

 太陽は部屋に閉じこもって真面目に帳簿と睨めっこしている。

 もちろん星月宙はまだ帰っても来ない。

 だから。


「……全く」


 呆れたような困ったような顔で土生緑が小さなため息をついたのを誰も、見ることはなかった。

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