第9話
「さあ」
「さあって。それが紫ちゃんの仕事でしょ」
紫は、大きく目を見開いてしばらく停止していた。
「えっ、いやいや、そんなの、違うでしょ。そうだ! 恋人とか、友達じゃない?」
「いない場合は?」
「ええ! そんな人っている?」
橘花は、下を向いて思い切り空気を吸い込む。
「たっくさんいるよ!」
「どうして?」
「だって、私もそうだから!」
「えっ、橘花ちゃんには私がいるよ。お姉さんもいるでしょう」
紫は、そこまで話して橘花の両親が既に他界していることを思い出す。ひとの家族事情というものは、どれだけ負担が重くても、すぐ忘れてしまう。自分は、酷い人間だろうか。
「ううん。紫ちゃんが、街へ戻ってしまって、その後にも会えるとは限らないでしょう」
「会おう会おう。いいよ、いくらでも!」
紫は、困り果てたように取り繕う。本音では、先のことはわからないし、自分の先に待ち受ける激務を想像して、難しいだろうと考えていた。
「うん、ありがとう」
橘花は、紫をこれ以上悩ませないように、簡単に微笑んで話を終わらせた。
会話が成立することよりも、常に相手の体調ばかり考えるようなところがある。会話の中で納得なんてできなくて良いのだ。
「橘花ちゃんは、どうするの?」
紫は、まっすぐに見つめて尋ねてきた。疑問に思っているというよりは、心配の方が先立っている。
「ねえ、二人とも」
突然、ずっと黙っていた紺谷が静かに話し始める。腕を組んで見つめる。
「自分たちがどうするのかはよくわかった。でも、今回のことは、二人がどうしようと関係ない。決定事項なんだ。嫌がろうと、文句を言おうと、変更はない。世の中ってそういうものだよ」
「わかってるようぅ」
橘花は体を震わせて言う。眉を寄せていた。
「君らは自分の話ばかりだな。どうしようと勝手だが、全員の段取りを決める方が先じゃないか?」
紺谷は、ホワイトボードを手に取って、下の方に日付を書き込む。矢印をいくつか書く。
「さあ、片付けはいつから? 掃除はどのタイミング? 誰がどこを担当しようか」
「ええー、さっきの話がまだ途中だよ」
「だから、君たちがどうしようと、あやめ荘には関係がないんだよ。まず全体の行動を決めてから、自分事をいくらでも悩めばいい」
「りょう君はどうするの?」
「もちろん僕も都心へ行くよ。駅の近くが良い」
「行ってどうするの? 何か目指すものがある?」
「まあ、それは僕の話だから。君には関係がない」
「関係ないけど、いっしょに悩めば早く解決するんじゃない?」
橘花は口を尖らせて非難するように言う。
「嫌だね。自分のことは自分で決めるべきだ。他人が決めたらそいつを一生恨んでしまう」
紺谷は今まで見たこともないような苦々しい表情で不快感を表現する。
「絶対に御免だよ。自分のことを人に決められるなんて」
橘花は、紺谷も意見がはっきりしているなと呆れてしまう。どうして二人ともこんなに迷いなく自分を追い込めるのだろう。橘花には、やっぱりわからなかった。
「だって、自分の人生を自分の頭で決めないのなら、一体、この頭は何を決めるんだろう?」
紺谷は目を上に向けながら人差し指で髪を触る。頭を示しているのだろう。
「良い、悪い、なんて後回しだよ。自分で判断するんだ。自分で決めるんだ。そうしないと、いずれ壊れてしまう」
「まぁ、壊れる、は言い過ぎじゃないかな。人に振り回されるようにはなるだろうね」
紫が腕をめいいっぱい伸ばしながら言う。
「ラクはラクなんだー。アルバイトとか、下働きとか。言われたことを忠実に行うだけだから。何にも考えなくていいでしょう」
「怒られたら、謝ればいいだけ」
紺谷も紫の方を見て言う。
「でも、そのうちに脳がマヒしてきちゃってさ。これは自分の考えなのか? それとも誰かの命令なのか? 無意識で判断できなくなってしまう。そうなったら、最後だからね」
「えー。そこまで人には頼らないよ。橘花も、自分で考える方だし。でも、今は、将来について決めかねているの。なんだか、一度決めたら後戻りできないようで」
「後戻りできない、という部分だけは間違いないよ。素晴らしい点に気づいている。誰もが急かされて、考える暇もなくあらゆる道に突っ込まれるんだ。つらいね。どこにも道なんか無いんだから」
紺谷は考え込む。
「君もモラトリアムじゃない?」
「うん、難しく言えばそうね。猶予されているだけ。最近は、そもそも道に入らない人も多いみたい」
「道に入らない?」
橘花が、首を傾げて二人の会話にリズムを付ける。
「そう。アルバイトや、どこかのちょっと特殊な職業なら、奥が深くないでしょう。道を進まなくて済む」
「特殊な職業って? ちょっと気になるね」
紺谷が合いの手を入れた。
「ほら、山奥の美術館の売店とかさ」
「えっ、美術館って特殊なの?」
紺谷は小さく笑う。
「だって、同じ給料でも、コンビニと美術館の売店では天と地ほども違うよ」
「そうかなあ。僕は、コンビニの内情を聞いてみたい。美術館のアルバイトなんて、平凡だよ」
「価値観がだいぶ違うわね。憧れるよ。山奥の美術館で働くの」
紫が指をさす。
「なんで? 虫も多いよ」
「もうっ、虫なんてどうでもいいでしょう! 素敵じゃない、山奥って」
「はあ? なんで素敵なの?」
紺谷は、自身が岐阜の出身だからか、山に憧れる神経がまるで理解できなかった。山には、常に獣も虫も多く、気候は厳しい。小学生くらいの頃には、毎年子供が死んでいた。
何が素敵なのか?
紺谷は、紫の能天気さに少しイラだった。自分が、山奥から都会に引っ越してきたときは、クモを見なくて済む日々に感動したものだ。少し歩けば、コンビニでなんでも買える。岐阜の家では、なんとトラックで生協を呼んでいた。店なんて隣町まで行かないと一つもなかった。
「紫さんは、山のことを何も知らないんだね」
「えっ、そうかな? 確かに、私は一度も山なんて暮らしたことがないけれど」
「山で毎年何人死んでいるか、知らないでしょう」
「まぁ、事故は多いでしょ。都心でも交通事故は多いよ」
「冬の雪がどれほど深いか知ってる?」
「あー、テレビで見る。人が埋まっちゃうんだよね」
「そうだよ。移動なんかできなくなっちゃうよ」
「でも、暖炉とかで暖まってるのとか、憧れるけどなぁ。こんなコタツじゃなくて」
はああ、と紺谷は大げさなため息を吐いた。心の底から、ウンザリしているようだった。
「紫さんは、焚き木をオノで切ったことあります? どれだけ疲れるか。腕なんか腫れますよ!」
「さあ。ストレス発散になりそう」
紫は、少し困ったような顔をする。どうやらこの話題は紺谷にしてはいけなかったようだ。ものの見事に食いついて離れない。
「ストレス発散? あんなのただの労働ですよ? 火をくべたら一日中見てないといけないんですよ。エアコンならつけっぱなしでいいじゃないですか」
「暖炉には情緒があるわ」
「情緒なんかいりません!」
「もうー、ふたりともなんの話をしているの? 脱線しすぎだよぉ」
橘花が、紺谷と紫の間に入って両手をのばす。
紫が戸棚を開けて何かを持ってきた。ポテトチップスのようだ。
「紫さん、そんなもの急に食べるんですか?」
「えっいいでしょう。都会のオアシス」
「はあ、太りますよ」
「さっきまで都会の良さを熱弁してたくせに」
あはは、と紫は軽く笑い声を上げる。
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