第8話
玄関を開けると、なぜか紺谷が仁王立ちをしていた。
「ただいまー。あれ、りょう君何をしているの?」
「二人とも、ちょっとこっちきて」
紺谷がくるりと方向を変えて居間へ向かう。機嫌が悪そうだった。
「どうしたらいいと思う?」
コタツの定位置に座って尋ねる。表情は暗かった。
「あやめ荘は、来月には閉められるそうだよ」
「えええ! 来月って、すぐじゃん」
「そんなに急に話が進んだの?」
二人は驚いて顔を見合わせる。一緒にコタツに入って紺谷を注目した。
「工事は早い方がいいんだってさ。ほら、風呂も壊れてるし」
「それはそうだけれど。いくらなんでも急すぎるでしょう」
紫は、既に退去の意志を示していた。予定の無茶苦茶さにあきれてしまう。橘花は、何一つ出て行く準備をしていない。
「困るよー。紫ちゃんは、もう先がわかってるけど、私は、特に決まっていないから……」
橘花は、自分の指を見つめていた。
本当に。今の自分は、どことの誰とも、場所とも一切繋がっていない。
この世界のエアーポケットにでもいるように。
世間の影響を受けず、無意味な存在としてただ息をしている。雨が降って風が吹くのを避けるだけの毎日。
本当に何もない。
「橘花は、何も決まってない」
改めて言葉にしてみたら、無性に虚しくなってきた。
「橘花ちゃんも都心に行ってみたら?」
「えっ、何をするのかも決まってないんだよ」
「そうだね。うん、でも、いろいろな人がいるから、自分のやりたいこととか見つかるかもしれないよ」
「そうかな。橘花は、なんだか、余計に悩みそうな気もするけどなぁ。悩んで、たくさんある道のどれを進めばいいのかさっぱり分からず、目隠ししたまま突き進むようで、むしろ傷がどんどん増えそうだよ」
橘花にとって、都会は心を迷わせるものが多い、という印象がある。あれもいい、これもいい、あれはダメだ、これはダメだ、どこの誰だかよくわからないたくさんの人間が口々に言いふらす。大きな声が、毎日毎日、自分の心をかき回すようだ。
「紫ちゃんは、どうして都会に戻るの?」
「えっ、だって、たくさん人がいるから、看護できる人数も多いでしょう。その方がありがたいの」
「ああ、そういえば、そうだね」
橘花は、紫の合理的な考えに驚く。
「紫ちゃんは、キッパリしてるね」
「キッパリって何? 私は、そもそも人のことがよく分からなくって。周囲に悩まされるという経験もないよ」
紫はハキハキと、淀みなく言い切る。本当に何一つ迷っていないようだ。
「だって、何かを迷うってことは、選択肢がいくつもあるということでしょう。なんだか、羨ましくて泣けてくるなあ。普通は、選択肢自体がない。皆、嫌々進んでいるだけだよ。当たり前のこと」
二人の様子を紺谷は黙って見ていた。
「そうかな。そんなに嫌なのかな」
「そうだよ! 皆、感情を押し殺しても、内心は嫌で嫌で仕方がない。きっと、厳しいお宅なら子供のころから徹底的に我慢させられているでしょうね。嫌だ、なんて絶対に言えない。まぁ、私もそう」
紫は、自嘲するように笑った。笑い方も、嫌な感じではなく、諦め切ったような仕草だ。
「ほんと、我慢ばっかりね。だから、逆に悩まない。全然、悩まない。ものすごく窮屈な道を、人と押し合いながら進むだけね。手順も決まってるから、ある意味では楽かもしれないわ」
「えっ、楽ではないでしょ。大変なお仕事だから。ずっと気を張ってないといけないよ」
「そうね。まぁ、私は忙しい方がいいかな」
「そっか。紫ちゃんにとっては、立ち止まって、思い悩んで、どっちにしよう、と頭を抱える方が辛いんだね」
「その通り。立ち止まってなさい、というのが苦手なんだ。すぐに動きたくなっちゃう」
紫は、あはは、と言って笑った。橘花は、紫の気持ちを想像して、自分とは正反対なんだな、と改めて思う。
「じゃあ、紫ちゃんにとっては天職だろうね」
「うん。そうだよ」
即答されて、橘花はすっかり言葉を失ってしまった。
なぜ、こんなに迷わずなんでも言えるのだろう。
どうして、自分とは違って、恐れがないのだろう。
どうして、そんなにハッキリと自分の将来を決定してしまえるのだろう。
次から次へと疑問が湧いてきた。
「橘花ちゃんは、どうするの?」
ああ、ついに質問されてしまった、と思い、下を向いてしまう。考えはグルグルと同じ場所を回り続け、『どうしよう』『イヤだな』『このままがいい』という単語だけが何度も頭をよぎった。むしろその単語しか浮かばなかった。
「うーん。橘花は、正直、決めるのが苦手」
「迷ってしまうの?」
「うん。だって、あっちも良さそうだし、こっちの方が慣れているから安全でしょう。もし、失敗したらどうしようって、考えるだけでもイヤになってくる」
橘花は下を向く。
「えっ、失敗ばかりよ。何言ってるの? 実はね。どちらへ行っても失敗なんだよ。大人が騙しているの。この残酷さは、わかる?」
紫の言葉を聞いて、橘花は、ふと静止する。言葉の意味をわかろうとしたが、悲観的で好みではなかった。
「紫ちゃん、何かあったの? いやーな感じだよぉ」
「えっ、あっ、ごめんごめん。どちらも失敗だなんて、さすがに言いすぎたね。でもね。仕事というものは、究極として、正解なんてないんだよ。試験じゃないの。仕事ができるのに、試験が全くできない人もたまにいる」
紫は、苦い豆粒を噛み潰すように顔を歪ませる。嫌な思い出でもあるのだろう。
「人が相手だからね。どうしても好き嫌いの世界になっちゃうんだよ。看護師なんてまさにそうよ」
橘花はうんうんと素直にうなずく。何かをつかもうとして、必死で聞き入っている。自分の中の疑問を少しでも解決させるために。
「じゃあ、わけわかんない理由でも怒られちゃいそうだね」
「あるある。邪魔! って言われたりね。そんなのお互い様でしょう? きっと、人のことを簡単に邪魔と言ってしまう人は、自分を助けるロボットすら壊してしまうでしょうね」
紫は遠くを見ながら呟く。悲しいというよりは、あきれているようだ。
「人は歳を取ると、自分以外を愛せなくなるのかもね。違う、二極化する? 自分を愛せない人だっているから……」
「それは、歳を取る前からそうだよぉ」
紫は、ひどく深刻な表情で語りながら、平気で間違えたり、突然笑い出したりするから、身構えて聞いている方は面食らってしまう。わざとかもしれない。
「うん、そうね。歳は関係ないかも」
「ナルシストって、わがままなんだよねー。理想があって、無理に進めるから、あらゆるところにぶつかって、いろいろなところが曲がったり、欠けたりしちゃう。不細工になる」
「それは、自分しか愛せない場合ね」
「そう。逆に、無私無欲だと、なんにもはじまんないでしょう」
橘花は肩をすくめる。
「やんなっちゃうね。欲って、底無しだから。どこまでも広がってしまう。いっそ、広がってもいい、と開き直れたらいいけど。別の人の迷惑になる」
「ああ、看護の現場でも、マーキングの激しい人は、自分のわがままが通る陣地を増やしたりするよ。わざと無茶苦茶なことを言って、最初に相手を言いなりにさせようとするの。基本は、無視。善良な人は間に受けるのよ」
紫は珍しく嫌そうな顔をしていた。何か悪い記憶でもあるのだろう。橘花はあえて聞き出さず、静かに頷いて話を聞いた。
「ふうん。その時に、相手から嫌われちゃったら、もう取り戻せなくなりそうだけどね。ギャンブルみたいな人間関係だね」
「あはは、確かに。まあ、そこまで我がままな人にとっては、周囲の人間なんてお手伝いさんみたいなものだから、嫌われたっていいんじゃないの」
「はあ。看護も客商売のようだねえ」
「半分以上は、客商売だよ」
紫は、ふう、と大きなため息を吐いて目を細める。
「私ねえ。医療にもっと余裕ができたら、きっと、どこも悪くないのに入院したがる人が増えると思うんだ」
紫はため息を2回吐く。
「どういうこと? 働きたくないって意味?」
「皆、本当はズタボロなんだよ。もうどこが痛いかさっぱりわからないくらいに。医者という、ひとまず信頼できる職業に、自分を診てもらうことで、安心したいの」
橘花はうなずく。
「私たちの生存を望んでくれるのは誰だろう」
「生存? 生きててほしいってこと?」
「うん」
「さあ、親とか」
「親が死んだら?」
橘花は、急に真面目な顔をして紫の目をまっすぐに見つめた。突き刺さるような鋭さだ。息がかかるほど近くへ寄ってくる。
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