第7話
「橘花!」
はっと目を開いて、橘花は起き上がる。目の前に紫がいた。顔がすぐそこにあった。
「早く、コウを見に行こうよ」
紫は、とても楽しみな様子で、橘花の腕を取り、引っ張ろうとする。長い髪の毛が振り乱れる。
「えっ、もうそんな時間なの?」
橘花は、驚いて時計を見ると、まだ早朝だった。
「早いなあ! こんな時間からもう撮影しているの? 寒いよぅ」
カーテンを開くと、白い影がちらついている。雪が降っている。隙間風に震えさせられる。今年はもう何度も見た雪だ。
「ほらほら、早く行かないと! コウも帰ってしまうよ」
紫は、昔、体育会系の部活に入っていたので、本気を出せば朝は早い、とよく言っていた。背が高いという理由で陸上部に入っていたそうだ。
橘花は、眠たい目をこすりながら、あくびをする。腕を上げて伸びをした。見ると、壁のすみでオサムが眠っていた。
「じゃあ、玄関で待ってるね!」
紫は、そう言うと、機敏に立ち上がって部屋
を出て、あっという間に階段を降りていった。
橘花は、ぶつぶつと文句を言いながら、着替えはじめて、分厚めのセーターを着る。黄身がかった白色で、網目が粗い。
「一体、あれはなんの夢だったんだろう」
怖い夢を見たような気がする。
内容は、意味不明だけれど、砂漠にいたような気がする。どうしてわざわざ砂漠なんだろう。
コウの人形が出てきたような気もする。
銃で吹き飛ばされてしまった。
「橘花ちゃーん」
下から声が聞こえてくる。
永遠の話をしたような気がする。
「はーい」
橘花はオサムを抱き抱えて、大きな声で返事をする。急いで身支度を整えて、鏡も見ずに階段を駆け下りた。踏面が狭いので、すぐに転びそうになる。
「あら! 可愛いね」
紫は、しゃがみこんでまた軍隊のようなブーツを履いていた。革靴なので、硬そうだ。
「そう? いつもと一緒だよ」
「じゃあ、いつも可愛いね」
橘花は、にっこりと微笑んで照れ臭く笑う。あまり人から褒められることに慣れていない。母親は特に厳しい人で、怒鳴ることはあっても、笑うことはほとんどなかった。
「えー。そうかな」
嬉しさを隠すことができない。
「えへへ」
ついつい笑ってしまう。そういえば、姉の桃花にも、橘花はよくからかわれた。反応が直感的なのだそうだ。おそらく、自分の感情を、他人に知ってほしい、という自動的な反応なのだろう。普通は、自分の感情なんて隠すだろうが。
「ほらほら、靴を履いて! 早く行くよ」
急かされて、橘花はオサムを土間に置いて、自分もブーツを履いた。雪が降っているからすぐ足が埋まってしまう。
オサムが長い尻尾を揺らしながら、するりと足元を歩いていった。
「あっ、紫ちゃん! りょう君は? りょう君は一緒にいかないの?」
「亮は行かないって宣言していたよ。全然興味がないんだって、コウに」
「ふーん。つまんない男だねぇ」
橘花は天井を見上げて、まだ夢の中にいる青年の背中を思い浮かべる。きっと、紺谷は歌手自体に興味がないのだろう。確かに、食事の席でも芸能人や歌手の話になったことはない。
「もう、先に行くよー!」
紫が玄関の外から声をかけてきた。何も食べていないのでお腹が減った。ブーツを履き終わって立ち上がり、歩き出す。オサムはいろいろと先を見越しているように玄関の引き戸を前足で引っ掻いていた。
橘花はオサムを抱きかかえて外へ出る。
幼い頃、今よりももっと背の低かった橘花は、よく母親に動物のように抱えられたものだ。
「紫ちゃん!」
「橘花ちゃん、まだオサムを持って行くのね」
「まあ、オサムも目的がないようだから」
「そう」
紫はやんわりと微笑んで、鋭い脚を突き進めるように歩いていく。当初は、意思が強いようには見えなかった後ろ姿が、ずいぶん様になってきたな、と橘花は卒直に感じた。
コンパスのように、長い足が雪の降る道を進んで行く。
「寒いねぇ」
そう言って、橘花は、以前紫がライブへ行った日のことを思い出した。あの日も、朝からゆっくりと雪が降り続いていた。紺谷は、ほんの数週間前とはまた性格が変わったようにも思う。
変わらないのは、橘花だけだろうか。
自分は、何も変わらない。
気持ちも、姿も、止めておきたいと思うように何も変わりはしない。
このままずっと、何も変わらず毎日がならされて、平坦でゆるやかに続けば良いのに。
願い続けた日常。
「真っ白だ。歌でも作りたくなるね」
紫は、橘花と並んで歩きながら、コンクリートの上に落ちる雪を踏み締める。
「どんな歌?」
「切ない感じじゃないかな」
「ふうん。ねえ、紫ちゃん、切ないって、どんな感情なんだろうね」
「えっ、また変な質問をするね?」
紫は橘花を見て、首を傾げる。今日は傘を持ってきたので、コートに雪はあまり付いていない。
「だって、なんなの切ないって。胸が苦しいのかな。つらいとか、痛いともまた違うんでしょう」
「そうだね。つらい、だと、苦痛に耐え忍んでいるような印象になるもんね」
「うん。切ないって、苦痛とは言わない気がする。どちらかというと、悔しいとか、悲しい、に近いのかな」
むなしい、さみしいとも、また近い。
「なんでかな。切ないって、日常にはあまり登場しない感情かもね。小説にはしょっちゅうでてくるけれど」
橘花は、『百年の孤独』という小説を思い出していた。
「そうだ。紫ちゃんに」
橘花は、おもむろにオサムの腹を紫の顔に当てる。
「わっ、何? 切ない話はどこ行ったの?」
「暖かいでしょう」
橘花は突拍子もないことをして人を驚かせることが好きだった。
雪にまつわる歌を思い出そうとする。タイトルではなく、歌詞に雪が出てくるものはたくさんある。
「切ない、っていうのは、消えてしまう儚さかも」
紫が白い息といっしょに吐き出す。
「うん。そうだね。永遠の反対という感じ」
「刹那とは漢字が違うよね。永遠の反対って、刹那的、一瞬というから」
「切ないというのは、終わりの言葉なのかなー。長く続いたなにかが、ふとした瞬間に、あっという間に、終わってしまう」
「そうね」
二人は凸凹のコンビで、階段を上がり、住宅街を抜ける。海を見下ろせる坂まで来ると、一気に風が強まり寒気がする。住民は誰もいないし、たぶん、観光客もまったくいない。
開けた神社のところまで登ったところで、二人は驚いて立ち止まる。
「あれ! なんでここに」
橘花はびっくりして声をあげる。
神社の階段に、コウと二人が立っていたからだ。相変わらず真っ黒な衣装を着ている。
「あー! キッカ! キッカ! いたの!」
コウが、こちらに気付いて右手を大きく振っていた。黒い布がばさばさと旗のように揺らぐ。
「コウ! どうしてお参りなんかしてるの?」
二人は、駆け足でコウたちの側へ寄っていった。アシスタントの二人が、人形を一体ずつ分担して持っていた。一見、死体のように見えるので、とんでもないほど不気味だ。
「えっ、もう帰るんだよ!」
コウは、何も不思議はないとでもハッキリいうように快活に笑った。二人のアシスタントも、にっこりと笑う。マスクをしていた。
「はっ! ええっと! もう撮影は終わったということ?」
「まだ、八時前だよ?」
紫と橘花は口々に声を上げる。
「だって、日の出をとりたかったから」
コウは、もう何もかも決まっていることのように、淡々と静かに言い放つ。
「日の出! うそ!」
「そうだよ。だから必死で場所取りや準備を、前日から行ったんだよ。いやー、いいの撮れたよ。ま! ボクらは素人だから、大したカメラじゃないけどね。本物はもっと大名行列のように人数も規模もすさまじいから」
コウが、あははと笑って、アシスタントの二人を見る。両方とも灰色のダウンジャケットを着ていた。
「うん! じゃあ、ボクらはこれで帰るからね。じゃあ、またね、キッカ」
「本当に一瞬で撮影は終わりなの?」
橘花が首を傾げる。
「うん」
コウはあっけなく答える。
「一瞬だけ、朝日が撮れれば良いのだよ。見る?」
おもむろに携帯を取り出して、コウは撮影した動画を見せようとしてくる。橘花は、興味深々で覗き込む。紫は、警戒しているようで、少し離れて様子を見ている。
「ほうほう、おっ! いいねー」
橘花は歓声をあげて手を叩く。
そこには、真っ黒な姿のコウが映っていた。
背後から日の出の光が昇り、コウの影は三つになる。人形が背後で倒れたのだろう。
「どういう意味なの?」
橘花は、良い映像とは思ったけれど、意味不明だなという感想を持った。なぜ分裂したのだろう。それに、このくらいはCG でもできるのではないのか。
「意味なんかないよ」
コウがあっけなく答える。何も悩んでいる様子はなかった。
「えっ、テーマとかは」
「ない」
「えええ」
「そんなのを決めたら、決まり切った形になりそうじゃん」
「フィーリングってやつ?」
橘花が、指を口元に当てて小首を傾げる。
「直感、感覚、イメージ」
コウはサラサラの金髪を横に振りながら微笑む。真っ黒な衣装に、金髪というのも、おかしい。
「ふうん。よくこんなところまで来たねえ。わざわざ朝早く」
「ボクは神奈川の出身だから、この島は馴染み深いんだよね。昔、高校生のときは、しょっちゅう遊びにきていたよ」
その後も、しばらく橘花とコウは世間話をして過ごし、紫は二人のアシスタントと居心地が悪そうに会話していた。
神社の朝は、同じ島の中なのに空気がひんやりとして、静謐な雰囲気があった。
スズメが木にとまって鳴き声を上げていた。
「じゃあ、そろそろボクらは行くよ」
コウが、スタスタと階段を降りて、振り返りもせずに言う。
橘花はその場でコウの後ろ姿を見ていた。夢に出てきたあの人形を思い出す。銃声が鳴り響いてコウの頭は吹き飛んでいた。
現実では、何も起こらず、三人はあっという間に降りていった。
残った橘花と紫は立ちすくんで、オサムは足元でくるくる回っていた。
「風のように早い人たちだったねえ」
「そうね。コウの歌を生で聴きたかった」
「教えてもらった動画を見ればいいんじゃない」
「まぁ。映像ならいつでも見られるから」
「あっ、紫ちゃん。ひょっとしてコウのファンになったのかな? コウ専属?」
橘花は茶化すように紫の顔を覗き込んだ。
「えー、私はもういいよ。またライブに行く」
紫は顔をしかめて首を振る。
「そっか。そうだね。紫ちゃんには紫ちゃんだけのお気に入りがいるからね」
「さあ、橘花ちゃん。あやめ荘に戻ろう。海岸に行っても仕方がないから。オサムはどうするの? 家で飼うの?」
「うーん、オサムはここに置いて帰るよ」
橘花は足元で尻尾をからませるオサムの背中を軽くなでる。
「そう。じゃあ、帰ろうか」
「あっ、そうだ、紫ちゃん。ここから島の写真を撮ろう。ちょうど家の屋根を上から撮れるから。海も見えるし」
橘花は階段を降りて、見晴台の方へ歩いていく。オサムはついてこずに、その場で昼寝をしていた。
「雪が写ったら春じゃないよ!」
紫は、傘をさしたまま冷えた体を震わせる。
写真は春用なので、冬の写真では意味がない。思いきり雪が降っているので、今日は無理だろう。
「『春の雪』じゃーん。ミシマミシマー!」
橘花は小説のタイトルを唱えながら坂を降りていく。三島由紀夫のことだろうか。自死する作家ばかり読んでいるのだろうか、と紫は少し心配になった。しかし、橘花が自殺することはきっと永遠にないことだろう。
「待ってよ! ちょっと」
紫はすべらないように駆け足で追いかける。
雪が降りしきる街並みはとても美しかった。
ずっと忘れない。
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