第5話
夜、楢崎は布団の中でなかなか寝付けずにいた。眠る前は、いつもココアを飲むけれど、基本的には不眠症だ。部屋には、オサムがうろちょろとしていた。部屋の壁で爪を研ぎたがっている。
「ねえ、橘花ちゃん」
急に、ノックとともに紫の声が聞こえてきた。
「なあに? 入っていいよ。オサムもいるけれど」
ドアが開いて、紫が顔を出す。パジャマというよりは、Tシャツに黒いスパッツだった。楢崎は、ピンク色のふわふわとしたパジャマを着ている。先日、都心まで買いに行ったものだ。
「ごめんね。急に。ちょっと、話したいことがあって」
なんだろう、といぶかしく思う橘花は、布団から起き上がって姿勢を正す。
紫は、部屋の電気をつけて、橘花の布団の横にちょこんと座って話し始める。
「私、ここを出るよ」
「えっ!」
橘花は驚いて目を見開く。
「あやめ荘も、もう取り壊すみたいだし。私も、学校のすぐ近くに住むよ」
紫は、自分の考えを頭の中で繰り返すようにして、視線を宙に固定する。長い髪が肩のラインにそって広がっていた。
「そっか。うん。そっかー」橘花は、言葉を選びながらゆっくりと話し出す。「やっぱり、紫ちゃんは一番早く出て行くことになるんだね」
紫は、少し間を置いてうなずく。
「まぁ、どうしてもすぐに、というわけではないけどね」
橘花はうなずく。
「ふう。紫ちゃんといっしょに暮らしてどれくらいかな?」
あやめ荘に入った順番は、紺谷が一番早く、次が橘花だ。最後に紫がやってきた。紺谷は水野と長らく知り合いのようだ。
「うーんと、私が休学しているから」
紫は過去を反芻しながら言う。
「もうそんなに長いんだね……、すっかり時間が経ってしまったんだ」
橘花は、感慨深けに声をあげる。
オサムが寄ってきて、うなり声を上げる。オサムの腹をなでて、毛触りを確認する。
「懐かしいなぁ。最初のころは、いっしょに海で泳いだりしたねぇ。なんでか、もう泳がなくなっちゃったけど。りょう君は、ずっとTシャツで、変な麦わら帽子かぶって、ぶつくさ言ってた」
あはは、と紫は思い出し笑いをする。紺谷は、基本的にはレジャーを好まない。家の中にいる方が好きで、夏は滅多に外に出なかった。
よく二人は一緒に沖まで泳ぎに行った。サーファーが多いので、波打ち際は危ない。
「うんうん。砂に埋めてあげたんだよね」
「そう、『なんで僕がこんなことされなきゃいけないんだ』って怒っていたね」
今では、紫も楢崎も、紺谷と似たような麦わら帽子をかぶって、海岸のゴミ拾いをしている。
紺谷は、若くて元気な人たちが嫌いだ、と言って、ほとんど海には近づかなくなった。まるで老人のようだなと思う。紺谷は、年々心を閉じて、刺々しくなっている。もともと、ニヒルな性格なので、話の受け取り方が歪んでひねくれている。冷笑的なところがあった。
「ほんと、最初のころはたくさん遊んだねー。あと、神社にたどり着く道は、どちらが早いか、とかも競走したね」
「ああ! 確かに! なんであんなことしたのかよくわかんないけど、街の中を全力疾走したもんね」
「なぜか私が早かった」
紫は、微笑ましいような表情で楢崎を見る。アルバムでもあれば、当時の記憶を整理して思い出すことができるのだけれど、二人ともあまり写真をこまめに撮る方ではなかった。
「あと、カラオケ大会に出たこともあったね。夏祭りのときに」
「花火もたくさん見たよねー」
二人は、次から次へと思い出を語り合い、笑って過ごした。時刻は深夜。紫は眠くなってきたと言って、自室へ帰った。
楢崎は、ふう、とため息を吐いて、自分もこの先どうすべきかと考える。“永遠”が壊れる瞬間というのは、こうもあっさりしているのだな、と驚いてしまう。今まで、当然のように過ぎていく毎日を、我が物のように享受してきた。この毎日は、いつまでも続く。続くべきであると。波が滞りなく繰り返すように、区切りもなく達成感もなく、ただ通り過ぎて行く。
後になって考えてみれば、あの頃の自分はああだった、という、ある程度まとまった時間を思い出すことができる。
現実は、ゲームじゃない。一つ一つのイベントをこなすごとに仲間が増えるわけでも、自分のレベルが上がるわけでもない。いつも、その場では何かに翻弄されて、よく考えもせず行動して、怪我をする。
そうして後から考えると、あのころのおかげで、現在に引き続いている、ということだけは理解できる。橘花と紫は、二人でずっと海を泳いでいるわけではないし、紺谷も一定の性格ではない。
本当は、誰もがずっと同じではないのだ。少しずつ互いに影響しながら変化している。
常に歴史は重く、より因果を増やして、取り返しがつかなくなっていく。
橘花は、人が何も悪さをせずに、じっと黙っていられる期間はそう長くないと思っている。歴史が過ぎれば過ぎるほどに、憎しみは追加されていく。減ることなどない。
増え続ける憎しみはいつか爆破する。一人一人の中では小さなわだかまりが、武器を持ち、徒党を組んで突進するのだ。
憎しみは決して減ることがない。
歴史の中で憎しみについて考えるとき、永久に右肩上がりの線グラフを思い描く。株価ならどれほど嬉しいだろう。憎しみが倍々で増えていく様子が手に取るようにわかる。
人が死んでしまったとしても、人から人へと伝えられ、また新たに生まれる怒りは、むしろ強度を増していく。
誰かが泣いて許しを乞うたとしても。
すべての憎しみを背負って死んでも。
憎しみは方向を失い、力を増していく。
私たちは、新しく憎しみを作ることがないように、震えながら、怯えながら、必死で気をつけるだけだ。
憎しみだけは、断じて減ることがない。
用心すると良い。
人間をみくびるな。
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