第2話

 猫を抱えたまま、あやめ荘へ戻る。

 そういえば、水野があやめ荘を解体すると言い出した。橘花が防波堤の方へ逃げたのも、そのためだ。

 今は、部屋の中が通夜のように静まり返っている。

 居間を覗くと、紫が座ってテレビを見ていた。少し前まで、パソコンの件で紺谷とケンカをしていたが、解体話が出てからそれどころではなくなったのだろう。

 ほんの数年、毎日同じ日々が続いても、激変は一日でおとずれる。

 橘花は、“永遠”の希望が、少しずつ壊れていることを感じた。

 あやめ荘がなくなってしまうなんて。

 黙ってコタツの角に入る。足がぶつかるので、正座する。連れてきた猫は膝の上で眠そうにしていた。

「あれ、橘花ちゃん。オサム連れてきたんだね」

「うん、今日は部屋に泊めちゃうよ」

「そっか。まあ、ショックなことがあると、温もりを求めるのかもね」

 紫が、橘花をまぶしそうな目で見る。コタツには、かなり控えめにビールの缶が開けてあった。

「なんか、いろんなことが一気にあったねぇ」

 橘花は天井からぶら下がる照明を眺めながら言う。まったく、今日一日でいくつのイベントが発生したのだろうか。我々は、ゲームではないのに、毎日がゲームのようにプログラムされている。誰がこんなにままならない状態にしたのだろう。

「コウは元気かな」

「三人で行動してると思うけど」

「でも、宿を探してたよ」

「えー、取材? 下見で来ているんだから、普通すでに取ってあるでしょう」

「ふうん。そうかな。また、会えるといいねえ」

 橘花はニコニコと笑って言った。

「コウはなんで一人だったんだろう」

 紫は、ふいに気になって聞いてみた。先日温泉特集に出ていたときの映像を思い出す。

「さーねえ。個人活動の方がラクなんじゃないかな。そこまで有名ではないだろうし。あっ、紫ちゃんにわるいね。たぶん、本人はそのことを全然気にしていないよね。きっと、音楽が大好きで、その音楽さえできればいい、って思ってるよ」

 橘花が案外真面目に答えたのには、彼からわずかな“永遠”を感じ取ったからかもしれない。

 何者にも影響を受けない。

 人の死に左右されない不動の歌。

 永遠の存在。

「まあ、そんな感じだね」

「音楽かー、橘花もたまに歌ったりするけれど、自分で作ろうとは思わないなぁ。なんでだろう」

 橘花は、小説をよく読むが、自分では全然書かないし、歌も作らない。自分で作ることは、楽しいだろうし、もしかしたら、どんなに小さくても才能があるかもしれない。

「うーん。そうね。自分で作ると、その作ったものがどうなるのかを見届けなければならないし、作り終わったら、たとえ自分が死んでしまっても、悪く言われたり、笑われたりすることがあるからじゃない?」

 紫が、遠くを見ながらよく考えて話す。

 さらりと的を射た酷いことを言っている。

「できれば、作りたくないよね」

「そうかなぁ」

「うん、普通は作りたくない」

「そうか」

 橘花は、ふと窓の外に目をやって、真っ暗な外に何かいるような気配を察した。でも、別の猫がいるわけでもなく、コウもいない。

 オサムは橘花の膝の上で丸まっている。

「作ることは、怖いこと」

 橘花は、そう口にした。

 作る、ということはどちらかというと遊びに近い。でも、世の中を形作るありとあらゆるものは、誰かの手によって作られている。

 作ることは、怖いこと。

 作ったら、もう元に戻すことができない。

 だから、古く職人たちは、命をかけてものづくりをしてきたのだろう。別に、若者を否定するわけではない。でも、今の時代の人たちは、あまりにも簡単にものを作りすぎているような気もする。劣化品の大セールだ。

「歌も怖い?」

 橘花は、どこにいるのかわからないコウのことを考える。

 自分なんてちっぽけな存在が、歌ったって何もなりはしないのだけれど。それでも、慎重にやらないと、それこそ他人のものを自分のことのように歌えない。

 そもそも、橘花は、歌というものが、なんだか異世界から聞こえてくる夢幻のような気がする時がある。曲は、生きた誰かが必ず作っているのだけれど、歌い終えたあとには、様々な人の思考を縫って、這うように広まっていく。いつのまにか元の歌い手のことまで忘れ去られ、赤の他人でも、何も見ずに歌えるようになるのだ。

 あっという間に広まっていく。

 この伝播力というのは、ものすごい力ではないか。

 ひょっとしたら、物理的攻撃などよりも、ずっとずっと強いかもしれない。

 歌は怖い。

 橘花は、急にそんなことを感じた。

「ねえ、紫ちゃんは歌が上手なの?」

 コタツに入ったままの提案で、いい加減なことを言う。紫は困ったように笑って、首を縦に振る。

「うん、まあね。カラオケだって好きだよ。昔は、ひとりでもよく歌っていたから」

「ひとりで? すごいね」

「まあ、高校生くらいの頃ね」

 橘花は、一瞬だけ自分が高校生の頃はなにをしていたかなと思い出す。

 よく図書館にこもって、本ばかり読んでいたような気がする。ほとんどの時間を、本棚のすみっこの方で過ごしていた。日本の文豪と呼ばれる人たちの本はそのころにあらかた読み終えたのだ。

「ふぅん。紫ちゃんも歌うのだね。なんだか、意外かも。どうして、そんなに歌が好きなの?」

「そうだね。歌って、自分というものを表すのにいいかなって思うことがあるよ。普通にいつもと同じように過ごしていて、ごはんを食べて、お風呂に入って、眠るだけではできない、複雑なものを出せる気がする」

「感情を表現するってこと?」

 橘花は、自分は怒ったら、そのまま顔に出すし、素直に怒りを見せる。

「うーん、そうだね。あんまり、普段気づいてないもの、って感じかなあ。ほら、ツボの刺激のように。血行がよくなると、意識していなくても、押すと血の巡りがよくなるの」

「なんか面白いたとえだね。歌はツボ押しなんだ」

「まあ、例えだけどねぇ」

 橘花は、おもむろに立ち上がると、開け放しだった窓にカーテンをかけた。古いカーテンなので、ところどころフックが外れている。

「ねえねえ、紫ちゃん。歌ってみてよ」

「ええー、無理だよぉ。いつも歌うのは、カラオケばかり。人前ではあまり歌わないかなぁ」

「いいじゃん。歌ってみて。橘花は、聞いてみたいの」

 紫は、少し考えて、やがて小さな声でハミングをする。音を調整しているようだ。

 歌なのに、まるで静かな読み上げ文、そんな曲だった。橘花が聞いたことのない曲だけれど、一度聞いたらなかなか忘れない。

「うまいうまい。紫ちゃんいいね。追っかけてるバンドの曲?」

「まあね。でもA面じゃないんだよ。アルバムに入っている全然目立たない曲。有名でもないの」

 紫は思い出しながら言う。

「でも、忘れられない曲なんだよねぇ」

「うん。確かに、印象的な曲だね」

 そのあとも、いろいろな曲を歌い出した。元気の良い派手な曲もあり、大声を張り上げる。

「ちょっと、入るよ」

 突然、男の声がして二人は一斉に振り返る。

 ふすまを開けて、紺谷が立っていた。

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