楢崎橘花

第1話

 波打ち際の居所を予感しながら、橘花は一人で歩く帰り道が好きだ。

 防波堤の消波ブロックに波が当たり、白いしぶきが飛び、いつ終わるとも知れない波音がリピートされラジオのように繰り返す。

 永遠にこの波が続くという保証はどこにもない。ただ、こうやって波を眺めていると、自分というものが何者でもなく、明日も明後日も変わらず毎日を送ることを許可されたような気分になる。

 橘花は、“永遠”を探している。

 それは、繰り返しの美学であり、永久不滅のシステムを予感させるものだ。たとえ何らかの病魔で人類が死に絶えたとしても、海もデータもそのままであり続ける。

 人が経済活動を行うことによって、温暖化の影響はあるだろうが、海側にとって人間の行動など矮小なものだろう。氷が溶けるくらいだ。

 橘花は、普段から様々な思考を巡らせているが、言葉に出すことは滅多にない。言っても無意味だと判断しているからだ。言葉なんてものは、いくら尽くしても消えてなくなる魔法のようで、人に影響を与えたとしても、実際には大したものではないのだ。

 最近の世の中は、人の言うことを何から何まで悪く取る。

 また、怒りを抱える側が、発言者の地位や、しがらみなどを詮索するような卑しさというのか、いやらしさがある。言葉を値踏みしている。

 それは、社会的な生き物である限りは避けられないものだろうか。自分たちの安全のためにはどんな愚かなことでもするような、動物的な自己防衛本能にも根付いているのだろう。

 “永遠”に関する考察を、以前、紫と話したことを橘花は記憶している。

 二人で会話をすることもまた、“永遠”に強度を与える一つの方法だ。

 我々は、歴史を俯瞰する際に、あたかも自身が第三者であるかのごとく意識する。自分は、今、目の前の書籍なり、記憶媒体に記載された歴史とは、まるで何も関係がなく、全く影響を与えることもないという透明人間のプレーヤーのようなポジションを取るのだ。映画やマンガ、そういった創作物を受ける際と同じように。

 なぜなら第三者の透明人間は最も安全だから。

 つまり、我々にとって、「歴史は創作物」なのだ。

 やれ、大戦争だ、核爆弾だ、虐殺だ、ホロコーストだのと聞いても、酷い酷いと首を振って、その歴史を見終わったら、まるで映画の観客席から立ち上がる聴衆のように、すっかり頭の中から歴史なんて追い出してしまう。

 本当は、その大戦争に自分の遠い先祖が参加しているというのに、人殺しは恐ろしいと言って、開いた歴史をすぐに閉じてしまう。

 お話はおしまい、今現在の我々に脅威はなく、明日はまた同じ毎日の繰り返しで、なんら変化はない、という根拠のない疲弊した安心を生きている。

 “自分たちも歴史の一部である”という意識があまりにも希薄なのだ。

 インターネットが発達したことによって、ありとあらゆる言葉は記録され、時には撮影されることで、はからずも“永遠”にされる。

 人々は、以前より慎重になったかというと、全然そんなことはなく、むしろ自身の不当を叫び、彼らの怒りを記録しようと躍起になっている。

 なんとしても「自分が生きた記憶」を刻み付けたいとでも言わんばかりに。

 権力者たちは、常に脅かされている。

 旧体制であれば、民衆は互いがどのような立場にあるかを知る術がなかった。どれほどの苦境にあっても、その状態が身の回りと同じであれば、誰も彼も大差ないと諦め、本は燃やされ、テレビは放映を取り止める。被害者であるとすら気づかずに。

 媒体の何もかもが管理されていた。

 しかし、ひとたびネットの網がそこら中に張り巡らされた今、愚か者も、賢しい者も、同じように知識を得て、方法を知る手段を得た。物さえあれば、核爆弾でも作れるだろう。

 あらゆる情報は共有され、嘘と虚構と不満を内包しながら、肥満児のように膨れ上がっていく。一般的ないわゆる幸福は、大衆によって比較され、とある“幸福”は、より高く豊かな幸福に見下げられて一生を終える。

 情報の過剰摂取で、我々は嘔吐を繰り返している。いくら正しい情報であっても、量が多ければ、情報同士の小さなほころびが、互いの正当性を虚無へと引き戻す。

 誰にとって正しいのか。

 つまり、ある民族の女が西で殺されれば、そのことを知った何千人の民衆が東で爆発するわけだ。女が西で殺されたことが現実だとしても、東で怒り狂う民衆にとっては、怒りの口実、着火剤に過ぎない。普段からの不満を共有する無数の集合は、ほんの小さなきっかけで爆発する。

 爆発させたのが、タバコの火か、コンロの火か、女の死か、という後になって考えてみれば些末な問題だけが残る。

 現実とはなんだろう。

 コウが、小説の登場人物を真似て、現実についての概念を話していたが、橘花の考えは違った。

 我々は極めて現実離れした虚構のなかでも、まったくの現実を常に生きている。現実離れ、というのはせいぜい物質の話であって、たとえばそれが誰かの開発したゲームだとしても、そのゲームの開発者には生活をする現実があり、ゲームという記録媒体を通して、我々は開発者の記憶と過去をプレイしている。

 影響を許可するというのは、虚構のゲームの登場人物から自分の元へ手紙がくるようなものだ。

 そのゲームの登場人物が、現実を生きた人間の模倣ではないと、誰が証明したのだろうか。

 ヒトラーを操作するゲームだったとして、バッドエンドとハッピーエンドはどこで別れるのだろうか。ドイツの歴史が、もう済んだ話だとしても、そのゲームが、ある国で起こった完全なる史実をもとに作られていたのなら、我々はそれがもう変わりようのない過去である、という前提の上で強固な姿勢を取る。岩の後ろで話すくらいに、安心して歴史を遊ぶことができるわけだ。

 永久不滅に、もう変わることのない現実。

「はにゃー」

 橘花は、気の抜けたような声を出して、遠く沈む夕暮れを見つめていた。足下には大量の猫が集まっている。さっき、スルメをあげたのだけれど、まだせびるつもりなのだろう。

 風が強く、髪の毛がバサバサとからみついてうっとうしい。

「うまいことできないかね」

 一人で呟く。

 今のところ橘花の周囲の世界は平和で、それにくらべて海外の一部の地域では今なお毎日のように人が死んでいる。

 「しあわせ」とはほど遠い現実に、ウンザリするではないか。その現実は、特に隠されるわけでもなく、インターネットに今日も堂々と置かれている。見るか見ないかは、選ぶことができるが、死んだ人間を生き返らせることはできない。

 我々は、たぶんそういった現実を、ゲームやドラマのように遠目に見ている。いつでも笑っていられるし、この人たちは頭がおかしい、と悲観できる。自分がたまたま安全に過ごせているというだけで、あらゆる想像力を喪失し、「物見やぐらの他人」であろうとする。

 自覚しているかどうか、それはわからない。しかし、彼ら彼女らは永遠に他人事としてあらゆる現実を認識する。毎日顔を合わせる隣人が、突然襲いかかってきたとしても、「彼は頭がおかしいのだろう」と笑っていられるのはなぜか。

 自分に原因はないのか?

 自分は相手に影響を与えていないのか?

 おそらく、そんな発想すら持ち合わせてはいない。

 常に自分をクリアケースに入れて、子どもたちは箱の中から世界を嘲笑している。

 ゲームをしている。

 子どもたちはゲームをしている。

「オサムはゲームなんかしないでしょ」

 橘花は一匹の猫に手を差し伸べて、声をかける。

「君は下手くそだけど、案外、死ぬ気で生ききったのだよ!」

 オサム、と呼んだ猫を抱えて、橘花は話し続ける。周囲からみたら狂人にも見えただろう。しかし、橘花もその程度は自認している。

「笑われて、罵られて、死んだ後も最悪の日々が続いていく。でも? オサムの罪は、さてなんだろうね。君に惚れた女たちが、勝手に君を生存させようとして狂っていっただけじゃないか。君はとっくの昔に、自分は生きることに向いていない、と気付いていた。自分は致命的にこの世界に合っていない、と自覚していた」

 橘花は、微笑んで海に視線を向ける。足下には、猫たちがからみついて、鳴き声をあげている。波はずっと寄せては返す運動をしていて、白っぽい泡をあげては大きな音を立てている。

 オサムも真冬の海に身を投げた。でも、死ななかったようだ。

 橘花は、今まで生きていて、死にたいだなんて思ったことがない。どちらかというと面白がって生きている。

 いつか死にたくなるだろうか?

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