第10話

「そうだよ! 紺谷亮! りょう君っていうの」

 楢崎が手を繋いだまま、ひとの個人情報を話しまくる。男は、島の中では浮いている黒い衣装で軽やかに歩いていく。

 まるで親子のようだった。

 どうしてこんなことに、と紫は後ろで付いて歩きながら考える。

 なぜ自分の好きな歌手が島にいて、楢崎と仲良く歩いているのか。

「キッカは、リョウと付き合っているの?」

 コウが楢崎をからかうように聞いている。

「ううん、橘花にはオサムがいるからねっ」

 また、猫の設定をつらつらと話す楢崎は、なぜかもう上機嫌になっていた。

「オサムはうちにいる?」

「いないよ! 彼は放浪しているから」

「リョウ以外には誰も男はいないの?」

「えっと、うるさいのが一匹」

 楢崎は、大家の水野をそう呼んだ。そもそも、コウを連れて帰って、水野にどう説明するのだろうか。

「ふうん。四人で暮らしてるんだね」

 コウは、楢崎たちの事情をすっかり理解したようだった。

「ちょっ、コウさん! どこ行くんすか」

 突然、コウが名前を呼ばれて振り返る。

 そこには二人の男女が立っていた。男は、一瞬、女性かと思うほど髪が長かった。

 彼らは、間違いなくさきほど二人でうどんを食べていた男女だ。女性は、逆に男性のように髪が短かった。格好もズボンと白いシャツで、男っぽい。

「んー? しばらくキッカのうちに行くよ」

 コウは手だけをあげて二人をあしらう。

 髪の長い青年が大きく手を振って、はあっと言う。隣の女性はただ静かに驚いていた。

「えー、誰ですかその子! また捕まえてきたんですか」

「んーん。ぼくが捕まったの」

 コウはぱたぱたと手を振って、また明日ね、と言う。

「コウさん、下見はどうするんすか! 岩場の!」

「えー、だから、また明日ねって」

 コウは楢崎を持つ手をさらに引っ張って駆け出す。紫と男女がびっくりして出遅れる。コウと楢崎の背中はあっという間に見えなくなってしまった。

「えっと、コウさんは本当に歌手なんですか?」

 紫は、隣の男女に質問をする。最初は走って追いかけてようとしたが、どうせあやめ荘しか帰る場所はないだろうと考え、三人はのんびり歩いている。

「そうです。今日は撮影場所の下見に来ました。風をテーマにした曲なんすよ」

 髪の長い男性が、仕事口調でスラスラと話す。どうやら、コウとは長い付き合いのようで、いつも突然いなくなるコウの癖に悩まされているらしい。

「へえ、風。わざわざ冬に風?」

「まあ、コウは芸術家ですからね。やることなすこと、わけわかんねえですよ」

 男性は、自分たちの仕事の経緯を話し出す。とにかく話し慣れているようで、支離滅裂なコウとは性質からして違う。

「もう困ったもんすよ。いつも、女の子をとっ捕まえてどこかへ行ってしまう。でも、コウにとっては、女の子との出会いが歌になるんですよね。女の子がいないとダメで」

 紫は男性と話しながら歩いて、時々、へえ、とか、そうなんですね、と答える。なんだか、歌手というものは特別だという意識があったけれど、こんなにも身近なものなのだな、と納得する。

 どんな歌手でも街を歩けばコウと一緒で、ごく普通の青年なのだろうか。

 二手に分かれた道で、右側の方から二人がこちらへ歩いてきた。鐘のある観光名所の方からだった。

「いやー、コウは話がよくわかるねっ!」

 楢崎とコウは相変わらず手を繋ぎながら親子のように笑いあっている。

「まさか、まさか、ジル・ドゥルーズを読んでいるとはねえ。それも『記号と事件』を! メディアの記号化と退廃! うちの子たちにも聞かせたいよ」

 楢崎はその場で飛び跳ねるように喋っている。どうやら、コウと文学の趣味が合ったらしい。

「あっ、コウさん。どこ行ってたんすか」

「鐘を鳴らしてきたよ」

 コウは簡単に答える。龍の鐘のことを言っているのだろう。もしかして二人で恋人のカギでもかけてきたのだろうか。もう恋人になったのか。

「さあ、帰りましょう。帰るっていうか、下見に行きましょう」

 スタッフの男性がコウに寄っていって、大きな声を出す。

「えー、せっかくキッカと話が合ったのに。無理だよ」

「無理って、撮影どうするんすか」

「下見は、ぼくだけでもう終わったよ。見るものはもう見た」

「光の加減とか、風の吹き方を調べて、明日の何時ごろが最適なのか検証しないとダメっすよ」

 スタッフの男性がごくまっとうな意見を言う。紫は、この人がいるから、コウは今までやってこられたのだなと直感した。

「ねえねえ。さすがに、長野まゆみの『夏季休暇』とかは知らないでしょう。きみの雰囲気にそっくりだよ」

「長野さんは実家に置いてある」

 コウは楢崎と対等に会話をしている。楢崎は心底嬉しそうに、そのあともいろいろな作家をあげた。

「さあ、コウさん! 現実に帰るっすよ」

 コウは、肩をすくめて疲れたように笑う。

「現実は、現実だと思う時だけに現れる」

「森博嗣みたいだねー」

「すべてがFになる」

「はあ?」

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