第9話
「紫ちゃんっ、警察を! 探偵でもいい! エルキュール・ポアロを呼ばなくちゃ! アガサ・クリスティだね」
楢崎がまくしたてるように言う。なぜか楽しそうな、面白がっているように見える。
「えっ、だって、本当に? 死んでるのかな?」
「死んでないとそんなところに寝転ばないよぉ」
楢崎は後ろに引いていた。確かに、どう考えてもおかしい。どんな理由であってもこんなところに寝転んでいるのは説明できない。夏ならまだしも、今は冬だ。海女でさえ、海には入らないだろう。
「見てみよう」
紫は覚悟を決めて、黒い塊に近づいていく。マントというのか、とにかく全身真っ黒な服を着ていた。人形かもしれない。
「えーっ! 後悔先に立たずだよ! 殺人犯にされたらどうするの!」
「橘花ちゃんが証言してよ」
紫はにっこりと笑って言う。まあ、一応、医療従事者を目指す者として、倒れた人間を放っておくことはできない。
そろそろと、ゆっくり人らしきものに近づく。髪の毛は完全に人間のものだった。いや、しかし最近の人形は精巧にできていると言うから。
オオカミの巣へ手を差し入れるように、がばっと髪を引っ張った。
「あれ?」
紫は思いのほか軽いその頭を持ち上げてびっくりする。
「あっ、人形だ」
どうやらそれは、髪の毛だけが本物の、人形のようだった。
空気を入れて膨らますタイプのようで、今は完全に空気が抜けていた。
「ん? どこかで見たことがあるような」
紫は、その空気人形をどこかで見たことがあるな、と深く観察した。でも思い出せない。
「わー、なんだぁ、人形だったんだね! 怖がって損した」
振り返ると楢崎の顔がすぐそばにあった。さっきまで不安で泣き出しそうな顔だったのに、もうニコニコと微笑んでいる。
「なあに? どうしてこんなところに捨てられているの?」
「救命の練習かなあ。なんだろうね」
「髪の毛だけは本物みたいなのに、顔は適当だね」
「ねえ。あれ?」
ふいに見上げると、なんとほんの数メートル先に同じような真っ黒いものが落ちている。
「えっ、なんだこれ。いくつも落ちてるの! 怖い!」
「わー、なんでもう一つあるのぉ!」
二人は恐怖を覚えながら、それでもはたから見れば楽しそうに騒いでいた。
「なんだこの抜け殻は。なんでこんなにボトボト落ちてるの!」
紫は、持ち上げた人形をその場に置いたまま、もう一体の方へ近寄って、同じように覗き込む。
すると、案の定同じ男の人形だった。髪の毛だけが本物のようだ。
「えっ、なんなの。一体、この怪奇現象は!」
「誰の仕業だろうねぇ。なんの意味があるんだろう」
楢崎と紫は、しばらく奇妙な人形たちを見つめていた。どう考えても、こんな場所に落ちていることの説明がつかない。仮説も浮かばない。
ひょっとして、死体だと思わせて驚かせよう、といういたずらなのだろうか。
「何をしているんだい?」
頭を寄せ合って相談していた二人に影が降りる。見上げると人形の三体目が突っ立っていた。
いや、それは人間だった。
今度こそ間違いなく生きた人間だ。
その顔を紫はよく知っている。
「えっ、何? 誰?」
楢崎が目をまん丸にして聞く。
「ぼくのカケラに用があるのかな?」
真っ黒い服を着た男はそう言った。マントではなく黒いロングコートのようだ。
「あああ、なんだ! カケラだったんだ」
なにがカケラなのだ、と思いながら紫は声をあげる。かなり異常事態だ。
すると、今度は男がその場で歌い出した。
とても切羽詰まった感じで、音が響いている。
聞いたことのない曲なので、もしかしたら自作曲かもしれない。
男は青白い顔で、頬がこけていた。髪は人形と同じで、真っ黒だ。目にかかるほど長い。
「紫ちゃん。こんな事態ってあるんだねぇ。変な人が歌っているよ」
「うん、そうだね。歌ってるね」
二人は身を寄せ合って、島の異常者を見つめた。
「二人はどこから来たの?」
ふいに歌うのをやめて、男が真顔で聞いてくる。
「えっ、会話するの? ねえ、紫ちゃん会話できるパターンだよ!」
楢崎は、男にすぐ返事をするのではなく、いったん紫に驚きの声をあげた。
紫は何度もうなずく。
今まで舞台でしか見たことのない顔が喋っている。つい先日テレビで見た顔だ。
「どこって、この島に住んでるんですけど」
おそるおそる男に言い返す。
「ふうん。ぼくはこの島は初めてだよ。いい場所だから、ぼくのカケラをセッティングしてもらったんだ」
男は、特に自分が変であるということをこれっぽっちも考えていないようで、当然のことのように異常な内容を話す。
「ええええ! 自分でどこから来たのか聞いておきながら、橘花たちの返事には興味ないの?」
楢崎が適切なツッコミをする。
「ぼくは、コウっていうんだ」
男は自己紹介する。
紫は知っている。
「ねえ、どこかに泊めてほしいんだけど」
「えええええええ! なんで!」
楢崎が、もはや奇人変人に接するように乱暴に言う。人懐っこい性格だが、頼られるのは嫌いなのだろう。
「泊まるって、昨日はどうしたんですか?」
紫はなるべく冷静に尋ねる。
「今日、来たからね。ついさっきだよ。きみたちが来たから、もうおしまいだけど」
「何を?」
楢崎が端的に聞き返す。
「撮影」
あっさり男は答えた。
「えっ、撮影って、なんの?」
「『魚のクシャミ』って知らない? ぼくの仲間」
紫と楢崎は、顔を見合わせる。紫はライブにまで行ったのだから知らないとは言えない。
「申し訳ないけど、橘花は知らないよっ」
「じゃあ、覚えて。ぼくを好きになって!」
黒い男はそう言うと、ニコニコしながら手を差し出してくる。どうやら握手をするつもりだ。
橘花は困惑しながらも、手袋をしている男の大きな手と握手をする。
「じゃあ、行こうか」
「はあああ!」
楢崎が牽制する。男は楢崎の細い腕を引っ張って、いきなり立ち上がらせた。
「きみの名前は?」
男が、ドラマのような台詞を言う。ひょっとして、この映像もどこかで撮られているのではないだろうか。そんなふうに思いながら見回しても、周囲には相変わらず誰もいなかった。
「橘花だよ。あっちは紫ちゃん」
紫は、無用心に本名を言う楢崎に腹が立つ。
「ふうん。キッカ。キッカのうちにぼくを連れていって」
男は紫よりも背が小さかった。ちょうど楢崎よりも少し大きいくらいだ。舞台で見るより小さく見える。
「ええええー。橘花だけの家じゃないからね」
楢崎は、いつもなら、紺谷と紫に注意されているのに、今日は積極的にまともなことを発言している。
「ぼくは別にいいよ」
「いいよって、それは橘花のセリフじゃないの」
楢崎が男と対等に会話をしていた。それにしてもいちいち透き通った綺麗な声をしている。
「橘花ちゃん! 本当にうちに連れて帰るの? その人」
紫は急に不安になって言う。正直なところ、頭がこの事態に追いついていなかった。自分の好きな歌手のはずなのに。いざ目の前に現れると不審がってしまう。
「うん、まあ、町内会に渡せばいいかなって」
「えっ、ぼくをキッカのうちに連れていってよ」
自称『サカナノクシャミ』という男は、楢崎にべったりとくっついていた。楢崎は声にならない悲鳴を上げる。
「なんなんだこいつはー! なれなれしい!」
「橘花ちゃん! ひとまず本名を聞き出して!」
紫は、自分たちのことを知られたので、相手を知ろうとした。
「だから、コウだよって。ぼくの名前はコウ」
「それは芸名でしょう」
「コウは一人なの? 仲間は?」
「うん。まあね。撮影班がいるけど」
「その人たちはどこ?」
「うどん食べるって言ってた」
男は、楢崎と手を繋いだまま振り返って言った。
「キッカ、ねえ、キッカ。コウって言ってみて」
「コウ! 近づくな!」
楢崎は、手を離そうとしているようだった。
しかし、男は細身でも強いようで、半分は楢崎を持ち上げるように、階段をのぼって引っ張っていってしまった。
岩場には、不気味な人形が不法投棄されている。
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