第7話
あやめ荘に戻った紫は、早速、紺谷の部屋をノックした。昼寝が趣味なので寝ているかもしれないとは思ったが、容赦する性格ではないので、遠慮せずに呼ぶ。
「亮、ねえねえ、ちょっと相談があるんだけど」
薄い扉を叩く。紫の後ろには楢崎がいて、背中にくっついている。
「何ですか?」
すぐに声が返ってきた。起きていたようだ。
「頼みごとがあるの」
「どうして僕に?」
向こう側から扉を開けるつもりはないようだった。あやめ荘にカギはないので、紫は扉を開ける。
「入るよ」
入ってから言う。
亮は部屋のすみの方で本を読んでいた。もたれかかる西側の窓ガラスは、隣がすぐに家なので、開いても光はまったく入らない。南側の窓からは採光がとれる。
「えっ、楢崎と二人では解決できない難問なんでしょうか」
紺谷は本から視線をあげる。
「あー! りょう君読んでるんだねぇ。えらいねぇ。オサムもさぞ喜ぶよ!」
紫はなるほどと納得する。猫に付けた名前はこの小説家だったのか、と知る。文庫本は半分もいかないところが開かれている。
「うん。読んでるよ。でもな、読みにくい。古い。本当に疲れたよ。疲れ果てた。文字は疲れる」
紺谷は矢継ぎ早に愚痴を並べている。
「きみは、まだ修練が足らないのだよ。先に芥川でも読んだ方がいいんじゃないか?」
楢崎は、また突然話し方が変わって低い声を出す。紫には楢崎の変な性格がよくわからない。
「嫌だよ。もう正直、小説はいらないかな。映画ならいいんだけど。簡単に見られるし」
紺谷は、顔を振って不機嫌そうな顔をする。
「あっ、それより亮。パソコンを持っているでしょう? それを貸してくれない?」
紫は、リーフレットの見本を見せて経緯を説明した。みるみるうちに紺谷の顔が不機嫌になっていく。どうやら最大級に嫌なことを言ってしまったようだ。
「なんでですか!」
急に大きな声を出すので、紫はびっくりして後ろに引いてしまう。紺谷は、普段はまるでロボットのように淡々としているけれど、スイッチが入ると人格が変わる。ものすごく早口になって、まくし立てるように喋る。
「どうして僕のPC じゃないといけないんですか。手書きではいけませんか?」
紺谷は、持っていた文庫本を手放して前のめりで言い放つ。
「だって、手書きだと字が下手なのバレるし」
「えー、紫ちゃん上手だよ」
「そうかな。うん、まあ、でも島中に配られるかもしれないものだからね。プリントした文字の方がいいでしょう」
「どうしてそれで僕のPC なんです? 都心のマンガ喫茶でも行ってきてくださいよ」
「ええー、遠いよ。わざわざそこまで行かなくても、ねえ」
楢崎は紫の脇の下でうんうんとうなずいている。紺谷は一歩も引かない、といった顔でムキになっている。
「とにかく! 僕のPC を使う、という発想自体をやめてください。絶対に無理です!」
「何か変なものでも入っているのか?」
急にまた楢崎が口をはさんだ。なぜかにやにやと楽しげに笑っている。
「ないよ。全然。ただ、自分のものを人に触られるのが嫌なのさ。誰でもそうでしょう」
「そうかなぁ。私は、橘花ちゃんとよくCDとか交換してるよ。あと、服も」
「そうだよぅ。その本だって、もともとは橘花のでしょう。触ってるよ。思いっきりオサムを共有している」
楢崎は文庫本を指差して言う。確かに、と紫は紺谷を見つめる。
「人の個性が出るものは、貸し借りしたくないんです。だって、本は何も変化できない。でもPC は、触れば変えてしまうことができます。壊されても嫌だし……」
紺谷は眉を思い切り寄せて紫を睨む。
「わかった、わかったよ。じゃあ、私たちは、命がけの手書きで頑張るよ! ごめんごめん」
紫が手を顔の前で振って、困ったように笑う。
どうして紺谷はこんなに怒り狂っているのだろう。使われたくないのはわかるけれど、そこまで血相を変えるというのは驚く。
「ひょっとして、昔の彼女の写真でもあるんじゃないの!」
楢崎が嬉しそうに言った。
「違うよ。今も昔も彼女なんていない」
紺谷はキッパリと言い返す。本当にそうなのだろう。
「じゃあ、エッチな画像だな!」
楢崎が、指を立ててピンポーンと言う。
「ええええー!」
「なんだって! どういう発想してるんですか!」
紺谷はいよいよ立ち上がってこっちに向かってきた。完全に頭に来ているようで、つかみかかってくるかと思った。
ペシっと軽い音で、楢崎の頭に手を置く。全然叩くような勢いではなく、頭をつかむような格好だ。
「なんで楢崎がそういう発想をしたのか、僕が言ってあげようか!」
「なによぅ。離してよぅ」
紫は、横へどいて、紺谷と楢崎が向かい合う。
「自分がそういうものを隠しているからだっ!」
紺谷はまた大きな声で断言した。
「なにー! なぜバレたんだ! 橘花のひみつをどうして知ってるの!」
楢崎は紺谷の手の下でじたばたと暴れている。そして、あっさりと認めてしまった。
「ふう……」
紺谷はあきれた、という顔で沈黙している。
「楢崎がどんな変なものを見ているか。僕は全然興味がない。教えなくていいから。二人とも早く自分の部屋に戻ってください!」
紺谷は語尾を強めに早口で一気に言う。
バタンと閉まったドアの向こうで、盛大なため息が聞こえてきた。
「怒っちゃったねぇ」
楢崎がおそるおそる顔をあげる。紫はうなずいて、小声で答える。
「一体、亮はどんなとんでもないものを隠し持っているんだろう」
「人妻かな?」
「えっ、熟女とか」
「うわっー、お母さんより歳上!」
「まさか、まさか、男同士とか!」
「うおー! 来ちゃったね。やっちゃったね。でも、橘花はどんなりょう君でも受け入れるよ!」
まるで引きこもりの部屋の前で叫ぶ両親のように、二人はしばらく大声で妄想話をしていた。
紺谷は、その日は、そのあと一度も部屋から出てこなかった。
紫と楢崎は、手書きでA4 の紙に落書きのようなものを書いて、リーフレットの原案を作った。
しかし、それは人に見せられるような次元のものではなく、殴り書きのように汚かった。
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