第3話
紫には紺谷のことがさっぱり理解できない。
あやめ荘に引っ越してきてから、ずいぶん一緒に暮しているけれど、紺谷の気持ちに共感できなかった。
紺谷が、理系であることも原因の一つなのだろうか。とにかく思考回路も、行動も、無口なところもさっぱり理解できない。
早口だし、必要なことだけ話したらあとはだんまりというタイプだ。
自分とは正反対の人間だ。
「ねえ、亮は、どうしていつもそう何も言わずに行動するの?」
その日の午前中も、紺谷は、「居間の時計が止まっている」と言って、いつの間にか電池を買いに行ってしまった。本当は、自分が夕飯のついでに買うつもりだったのに。
「えっ、なぜいちいち紫さんに言わないといけないんですか?」
紺谷は風呂掃除をしながら答える。紫は、洗面所の鏡を拭いている。伸びきった髪が目にかかりそうだ。
「だって、私が買いに行こうとしてたんだよ」
「でも、早い方がいいでしょう」
「それはそうだけど」
「不都合があれば言ってください。電池の種類が違いますか?」
紺谷は、嫌味を言う。電池に種類なんてないだろう。時計は動いていれば良い。
「ううん。大丈夫だよ。そうじゃなくて、なんというのかな……」
「では、次回は紫さんが買いに行ってください。以上です」
紺谷は急に話を切り上げて、泡立った風呂に水をかけていく。几帳面な性格なのか、すみからすみまできっちりと拭いている。換気のために窓も開けていて、外から風が入ってくる。
風呂は古い作りなので、銀色のオケのような形で、膝を抱えないと入ることができない。足下に湯沸かしの穴があるのだけれど、そこがとても熱くなるので慎重に入らなければならない。
「うん、いいよ。そうだね。まあ、もう済んだことだもんね」
紫は、口ごもりながら言う。どうしてこんなにイライラしてしまうのだろう。紺谷と話すと、特に何も会話に齟齬はないのに、腹が立ってしまう。むしろ、紺谷の方が行動的で、あっという間に困った事態を解決するのに。どうして待っているだけで腹が立つのだろう。
一応、正義感も強い紫は、そういう不平等に納得がいかなかった。
いつも自分は、後手後手で口だけ出てしまう。
「紫さん、鏡が拭き終わったら、床もお願いします」
「えっ、あっ、うん。そうだね。わかったよ」
紫は、急いで目の前の鏡をタオルで拭き取って、今度は雑巾で床を拭いた。洗面台の下の床は、木材がもうボロボロになっている。腐りかけていて、体重をかけると底が抜けそうだ。ここだけではなく、古いアパートなので、あちこちほつれがあるので、慎重に過ごすようにしている。
立て付けも悪いので、扉が完全に開かないことも日常茶飯事だ。
「ねえ、亮。床が抜けそうだよ」
「ああ、それはもう、上に合板でも敷くしかないですよ」
紺谷は風呂に水をかけ終わって、こちらへ来る。スリッパを履いていた。
「今度、島の外のホームセンターへ行きます。水野さんに車を出してもらいましょう」
紺谷はスラスラと対策を話す。まるで台本でもあるような話し方だなと思う。たぶん、紫と違って、迷いのない思考回路をしているのだろう。答えに真っ直ぐとでも言うのか。
自分はいつも迷ってばかりだと紫は自戒する。
「そうだね。その時は私も行くよ」
「結構です」
紺谷は即答した。
紫はびっくりしてしばらく紺谷の横顔を見つめてしまった。色が白くて、髪はお坊ちゃん刈りで、表情が読めない。笑いもしないし、怒りもしない。
「結構って、なんで?」
「買うものは合板だと決まっているから、わざわざ二人で行く必要はありません。水野さんには運転してもらいますが」
まるで、自分は厄介者だと言われたような気がして紫はムッとした。
「だって、合板? だっけ? 合板にもいろいろ色があるかもしれないよ。模様とか入ってるかもしれないし」
紫は適当に思いついたことを言ってみる。
「どうせマットをかぶせるでしょう」
「それはそうだけれど。明らかに色が違うと気になるじゃん」
床の色は、かなり濃い茶色だった。木材が腐りかかっているので、水に濡れたような感じになっている。
「探すから良いです」
紺谷はポケットから携帯をとり出して写真を撮る。同じような色の板を買うつもりなのだろう。
紫は、なんだか居心地が悪くて、しばらく紺谷の顔を見られなかった。紺谷も、まったくこちらを気にする様子はない。
「そうだ、楢崎が床の上で暴れないように注意してください」
紺谷は立ち上がって台所の方へ行ってしまう。
紫は、しばらくしゃがんで床の木目と向かい合っていた。
どうして、こんなに言われっぱなしなのだろう。なぜか居心地の悪い気分になる。
「紫さん」
また、頭上から声がかけられて顔を上げる。
「鏡、もう少し拭いた方がいいですよ」
「はいはい! わかったからもう!」
紫は大きい声で言った。
紺谷は顔を引っ込めて、自分の部屋へ帰るために階段を登る音が聞こえた。
しばらくずっと下を向いていた。
どうしてこんなに、モヤモヤするのだろう。
どうしてこんなに、ムカつくのだろう。
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