第2話

 紫には好きなものが多い。

 それは音楽であったり、ドラマであったり、いろいろな「作りもの」だ。車などの無機物には興味が持てず、いつも人の感情にうったえかけるものを追いかけてしまう。悲しみや愛情、勇気など、身近な曲にはそういった感情が盛り込まれている。

 紫自身も、自分はとても感情的な人間だと思っていて、すぐに怒るし、笑うし、泣いてしまう。

 たぶん、あやめ荘の中では一番感情に弱いのではないだろうか。楢崎は、確かに子供っぽいけれども、決して人前で泣いたりすることはない。怒ることも多いけれど、どこか演技のような雰囲気がある。嘘っぽいのだ。

 どうして、自分はこんなに感情的なんだろう、と思うこともある。

 感情なんてない方が、ずっと生きやすいような気がする。いちいち頭に血が上ったり、体が震えたりしてしまっては、不便じゃないか。

 紫にとっては、紺谷のように冷め切った様子が羨ましい。どうしてこんなに、何ものに対しても、向き合わないでいられるのだろう、無視できるのだろう、と不思議だった。

 一度、紫は紺谷と大ゲンカをしたことがある。理由は些細なことだ。

 紫は、その時、とても腹が立って、外の電柱を自分の足で蹴ってしまった。思いっきりぶつけたので、真っ青に腫れてズキズキ痛んだ。傷は、三日くらいで治ったけれど、今でも、足の人差し指が少し曲がっていて、他よりも太い。

「ねぇねぇ、紫ちゃんは、どうして看護師さんになりたいの?」

 楢崎は、よくその質問をする。

 その日の朝は、二人で海の様子を見に行った。

 夏の島は賑わっていて、たくさんの人が来る。サーフィンをして、ただ砂浜で寝転んでいるようだ。若い人も多いので、後にはたくさんのゴミが捨てられている。

 海岸の砂浜には、ビール缶が多かった。

 島の自治体で、ゴミ拾いをすると五百円の商品券がもらえる。今日は、商品券目当てで拾いにきたのだ。

「うーん、そうだね。人を助けたいからかな」

「ふうん。お医者さんではないんだね」

 楢崎は、麦わら帽子をかぶって、髪を二つに縛っていた。紫は、つばの長い野球帽をかぶっている。暑いのにどうして黒色のTシャツを着てきたのだろうと後悔した。好きな歌手のTシャツなのだ。

「医者は、大変だからね。もっとずっと勉強しなくちゃいけないよ。男性の方が多いし、長時間労働だし」

「でも、看護師さんも大変だよぉ」

 楢崎は、手袋をして、足元の缶を拾う。

「うん、わかっているよ。医者よりも、もっと長時間労働だもんね」

「そうそう。だって、もしも、もしもだよっ、未知のウイルスとかが現れたら、きっと毎日働かされてしまうよ」

 紫は、首を縦に振ってうなずいた。わりとまともなことを言う。

「そうだね。未知のウイルスなんて、どんなものか想像できないけれど、みんなが倒れても、自分は倒れられないことはわかるよ」

「うんうん。人がつらいときにその看病をして、自分がどんなにつらくても、表には出せないんだよ」

 楢崎は、ぽつぽつといつもより小さな声でゆっくり話した。怖がっているようだ。

「それもわかってるよ。でも、世の中には他にもたくさん大変な仕事があるからね」

「そっかぁ。紫ちゃんにはかたい意志があるんだね! それなら、がんばってほしいな」

 楢崎は、麦わら帽子の下から満面の笑顔を見せた。

「そうは言っても、なかなか突き進めなくてね。どうしてかな、本当に、合っているのかなっていつも迷うんだ」

 紫は、下を向いて不満をつぶやく。普段は、あまり弱音など吐かない。

 自分の心情に素直な楢崎の前だから、思ったことを思ったままに言おうと考えた。

「このまま、私はこっちに行っていいのかな? もしかして、全然違う方へ行っていないかなって、いつも不安になるの。だって、誰にも保証してもらえないんだもん。どんなに頑張っても無駄かもしれない。それって、悲しいよ。今までの努力が全部なくなっちゃう。何十、何百時間かけても意味がない。つらいよ」

 紫は海の方を見ながら一気に話した。不安になると口数が増えてしまう。

「紫ちゃんは、いつから看護師さんになろうと思ったの?」

 楢崎が、ゴミ袋と缶を持ったまま聞いてきた。

 太陽は、まだ天上にはなく、朝方の海岸は涼しかった。もうすぐ、賑わってくるので、自分たちは引き上げることになる。

「えっ、小校生くらいかな。おじいちゃんが入院した時に、すっごく親切にしてもらったんだ」

 紫は、子どものころを思い出す。

「そうなんだ。その思い出が、きっかけなんだね」

「まぁ、そうかな。大げさだけど。こんなに大事な仕事があるんだ、って驚いた覚えがあるよ。人に感謝したり、感謝されるのも嬉しかったな」

 紫は、高校生のころは運動が苦手で、器楽部に入っていた。でも、毎日マラソンをさせられ、なぜか発声練習などもあって、大変な思いをした。

「なんか、ずっと考えているんだけれど」

 楢崎は、急に深刻な声を出す。

「紫ちゃんは、たぶん、なんというのかな。“自分を助けてあげたい”んじゃないかな?」

「えっ?」

 紫は目を大きく見開いて、思い切り声を出す。

「何それ!」

「えっと。橘花には、そう見えるってだけの話だよ。あんまり気にしないでね」

「気になるよ! 助けるって何? 私が人を助ける仕事をしたいんだよ」

 紫は混乱しながら問いただす。

「うーん、だって、紫ちゃんの不安そうな顔見てると、むしろ自分が助けられたいのかなって、気がして」

 楢崎は、言葉を選びながら、笑って言った。

「それは、なんというか、紫ちゃんの核の部分だから、絶対にないがしろにしない方がいいよ。ずっと心に残っていくものだろうし」

 おかしな沈黙がゆっくりと流れた。

「そうかなあ。まあ、確かにずっと悩んでいることではあるよ。責任もあるし。でも、自分が助けられたい、というのは本当によくわからないな」

 紫は、砂をはらってビンを回収する。サンオイルのビンだ。ひび割れている。

「紫ちゃん自身が、心にフタをしている大事なことはない? 忘れちゃってるかもしれないけど」

「フタ? そんな隠し事はないけど」

 また、不安になってしまう。

「隠し事とはちょっと違うなぁ。どちらかというと、包帯のような。表に出さないもの」

「私が、怪我してるみたいだね」

 紫は、先日痛めた右足をさする。ほとんど傷は残っていないけれど、少しだけ歩くときにしびれる。

「うん。そう。心が怪我しているんだよ。きっと、大きな傷をずぅっと無視してきたでしょう。痛がっているの。だから、看護師さんになりたいの」

「ええっ、そんな変なこと言わないでよ! 心当たりもないし」

 紫は、手を大きく顔の前で振って否定した。

 楢崎が、どうして急にそんな不穏なことを言い出すのか、理解できない。

「看護師さんになって、たくさんの人を助けることで、君は、君自身を救いあげようとしている」

 紫はびっくりして、しばらくあんぐりと口を開けていた。楢崎の言いたいことがさっぱり理解できないからだ。

「ええー、私、自分のためじゃないよ!」

「いいや、僕には分かるんだよ。なかなか奇妙な精神の倒錯じゃないか? 実に興味深い」

 急に変な話し方になって、楢崎は右手で顎をつかんでいる。

「君は、君自身の心に深い傷を負っている。それを隠そうとして、他者に干渉しようとしている。しかし、それではずいぶん不健全じゃないか! なぜなら、本来の傷が見て見ぬ振りをされているから。化膿してしまうよ」

「人を傷モノにしないでよ! 意地悪!」

 紫は笑えてきたので楢崎に砂をかける。足下に少しだけ。

「へへーん。そうだね。大事な三人姉妹の末っ子だものね」

 楢崎はニヤニヤとしながら走り出す。足下はサンダルなので砂が巻き上がる。

 紫も、楢崎の小さな背中を追いかけた。

「紫ちゃん、橘花が倒れたら看病してねっ」

 紫は、階段を駆け上がっていく麦わら帽子を目で追った。

 自分には傷がある、という言葉が引っかかる。

 天空には太陽が上り、厚い雲が青色の空をふさいでいた。

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