第12話

 あやめ荘から二十分ほど歩いて、僕は北側の埠頭へたどり着いた。また、船着場からの風が顔に当たって寒い。

 海風が強く、西日が目に痛かった。寄せては返す波が繰り返し何度も砂をさらう。僕が生きている限りは、何も変化がないだろうなと漠然と思う。

 いつもと同じ毎日が、毎日続くだけ。

 雪を抱えたぶ厚い雲が空を覆い、海は夕日を受けて金色に輝いていた。

 夢のような光景にしばし見惚れてしまう。

 このままこの景色を、箱に入れて保管したい。

「りょうくーん!」

「なにしてんだ」

 埠頭にピョンピョンと飛び跳ねる楢崎がいた。

 両手を大げさに左右へ振っている。

 僕と紫さんは、階段を急いでのぼって、そこで猫まみれになっている楢崎を発見する。

「二人とも来たの?」

「うん。いきなりいなくなるから驚いたよ」

「へへ、この前、紫ちゃんも居なくなったからね」

「それで、オサムはどれ?」

 紫さんは楽しそうに猫たちを指さした。

「あ、これです」

 僕はオサムと思われる色の猫を捕まえる。楢崎が、二番目の妻がどうのと言っていたように、確かに白い猫の隣で幸せそうに丸まっていた。

 両手で抱えて紫さんに見せてあげる。

「はじめましてだね、先生」

「えっ、オサムは先生なんですか?」

 僕はオサム先生という語感がいいなと思った。

「小説家だから、先生だよ。可愛いね」

 紫さんは物怖じせずに猫を両手で触っている。

「紫ちゃん、妻の前でやるべきことではないよ」

 楢崎がしゃがみこんだままで急に正してきた。口調がまた変化している。

「そんなに厳しいの?」

「そうだよ。橘花は、四番目の妻です。あちらの白い猫が、二番目の妻です」

「ははっ、先生はモテるんだねぇ」

「ううん、モテるというよりは、世話役なんだと思う。本能に訴えかけるの。放っておくと死んでしまうってね」

「あらまぁ」

 紫さんは、少し驚いて、大きい声で笑い出した。

「オサムは、罪作りな男だよ。さらに、読者も惑わせるわけだからね」

 僕はオサムを赤ん坊のように上下に振ってみる。あくびをしてとても眠そうな顔をしていた。家の戸棚から持ってきたササミをあげると、ゆっくりと食べていた。とても野生動物とは思えない優雅さだった。他の猫たちもササミには反応せざるを得ないようで、一気に僕の手に寄ってきた。

「皆、お腹減ってるんだねぇ」

「あやめ荘では飼わないの? 連れて帰ればいいのに」

 紫さんがふいに楢崎に問いかけた。

「うん。オサムは自由人だから、島の中をうろうろしている方が健全なんだよ」

「へえ、そっか。でも、よく島から出て行かないよね。わかるのかな。島の境界線が」

「テリトリーがあるんじゃないかな。マーキングとかもするでしょう。島の中を認識しているんだと思う」

「ふうん。猫ってそういうものなんだね」

 ササミをすべて食べてしまったオサムは、白い猫のそばに寄っていった。

 風が寒く、吐く息は白い。手がかじかんで、冷たくて動きづらかった。

「はー、なんか寒いねぇ!」

 楢崎が座り込んでからジャンプして言う。

「あ、いてて」

 ジャンプした後に、いきなりまたうずくまる楢崎。手をあてた細い足を見ると、赤く腫れていた。

「いてて、やっちゃったな」

「大丈夫? くじいたの?」

「靴ちっちゃいから、痛くなっちゃった」

「えっ、靴ずれ? 最近、買った靴なの?」

「うん。ついこの前、通販で買ってみたの。でも、大きさは合っていたけれど、素材がエナメルでかたくて。足の後ろのところが痛い」

「わっ、腫れてるね」

「痛いよぉ」

 どうも、楢崎の言い方は、靴が小さいことが悪いように聞こえる。

 どうしてそんな買ったばかりの新品を履いて遠くまで来るのだろうか。わざわざ、靴ずれしてまで履くものではないだろう。

 その時、チラチラと白い粉が目の前を舞った。

「あっ、雪だー!」

 楢崎は顔だけ上げて声を出す。雪が降ってきた。海の方にも、無数に白い粉が舞っている。

「また雪だねぇ!」

「帰りましょうか」

 僕は寒いのが苦手なので、早く暖かいコタツに戻りたかった。雪は、先週のようにまた積もるのだろうか。

「ほら、橘花ちゃん、帰るよ」

 紫さんがまたおんぶの姿勢で待機している。

「楢崎はもう猫たちと楽しく暮らしなよ」

 僕は面白がって言ってみた。

「ええー! こんな寒いところでサバイバルなんてむりだよぉ」

「ちょっと、亮くん。酷いこと言わないで」

「いえ、楢崎がいつも紫さんに頼ってくるから、注意した方が良いかなと思って。前に、紫さんも言ってたじゃないですか」

 僕は、台所で水野を甘やかすな、と叱られた記憶を思い起こしていた。なぜあんな風に言われたのかは、いまだによく分かっていない。

「えっ、なんだっけ。ああ、あれは、男の子だから」

「男女差別じゃないですか!」

「そうだね、でも、女の子には優しくしないと、子孫を残せないよ」

 紫さんはストレートな意見を言って、僕を黙らせる。二人の女性と風呂まで共通の共同生活をしていると、感覚が麻痺してくる。でも、確かに、女性に対する態度というものはあるのかな、と考える。

「楢崎と結婚する気はないんですけど……」

 僕は控えめに否定する。

「わかった、わかった。ほら、橘花ちゃん行くよ」

「うん! 行こう!」

 楢崎は、紫さんの背中に飛び乗って、とても嬉しそうに笑っている。紫さんの長い黒髪に顔を埋めていた。

「紫ちゃん、髪サラサラー」

「ええっ、そうでもないよ。風でボサボサになっちゃった」

 猫たちも解散するのか、数が減っていた。オサムは、相変わらず白い猫と眠そうに寄り添っている。

「亮くんには、慈悲の心がないの?」

 突然、楢崎が質問をしてくるので、なんだそれは、と口を尖らせた。

「何言ってんだ。靴ずれなんてする方が悪いよ」

「こらこら喧嘩しないの。雪が強くなる前に、早く帰るよ。猫たちにさよならを言って」

 楢崎は紫さんにおんぶされながら、振り返って猫たちに手を振る。

「やだな、オサムも風邪ひかないといいけど」

 紫さんは少しだけ笑う。楢崎の設定をきちんと受け継いでいるようだ。

「ねえねえ、紫ちゃん。明日雪が積もったら、雪だるまでも作ろうよぅ」

「ええー、明日って月曜日でしょう。学校行かなくちゃいけないよ」

「うん。でも、雪が積もったら、電車が止まるんじゃないかな?」

「それでも、一応行かなくちゃいけない」

「そっかぁ。じゃあ、りょう君で我慢するかな!」

 急に楢崎が振り返って僕の方を見た。目が合ったけれど外した。どうして、寒い中でわざわざ雪だるまなんて作るのか。

「楢崎は、本当に子供みたいだね。雪だるまなんて、普通は作らないよ」

 僕らはゆっくり歩き出してあやめ荘の方へ向かう。夕日は影を潜め、強く雪が降り始める。

 街は再び白く染まった。

「また、真っ白になるねぇ。風流だねぇ」

「そうだね。寒いけど」

 紫さんは、黒っぽい革のジャンパーを着ていた。ロックスターとかが着そうな、たぶん寒さには強くないものだ。

「今ごろ、歌をうたっているのかね」

 楢崎が海を見るような目で呟いた。たぶん、紫さんが好きなバンドの話しだろう。

 ずっと海に落ちる雪を見ていると、なんだかリプレイ画像を見ているような気持ちになった。何度も何度も、同じ映像が続いていく。

「さあ。寒いから歌もお休みじゃないかな。そういえば、温泉に入っていたね」

 紫さんはテクテク歩きながら話す。細身のジーンズにブーツを履いていた。軍隊みたいなブーツだなといつも思う。底が分厚くて、先がとんがった革靴だ。

「雪が海に吸い込まれていくねぇ。なんだか、不思議」

「雪が海に帰っていくようだよね」

「紫ちゃんも、詩人になってきたねぇ」

「えっ、本当? そんな感じに聞こえた?」

「うん。歌でも作れそうな雰囲気だったよ」

「うそっ。そんな簡単じゃないと思うよ」

「楢崎は、テキトーなことを言い過ぎだよ」

 僕は二人の横を歩きながら言う。

「そうかなぁ。紫ちゃんは、詩人になれそうだよ」

「なれそう、だったら誰でも言えるでしょう。僕だって、小説家になれるかもしれない」

 自分で言いながら、いや、それはあり得ないなと笑う。さすがに、芥川龍之介すら読んだことのない小説家はいないだろう。どうなのだろう。むしろ、今時の作家は、昔の作家なんて読まないのだろうか。真面目に考えるとそんな気もする。

「うん。りょう君は小説書けるかもね。オサムと同じムジナのような気がする」

「同じ穴のムジナ?」

 僕は彼女の発言を微妙に訂正する。

「それそれ」

「やだよ。妻が何人もいるなんて、僕の性格には合わない。弟一人でも嫌だったのに」

「ふうん。りょう君はそうなんだ」

 僕らはしばらくそんな会話をして歩いていた。

 背中越しに遠くで波の音が聞こえる。

 空は暗くなりはじめていた。

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