第11話

 日曜日にふらっと帰ってきた水野は、酒の飲み過ぎなのか顔がむくんでいた。

「飲み過ぎですよ。飲酒運転はさすがにやらない方が良いですよ」

「飲んでない。一日中寝てたら太った」

 水野は適当な返事をして、眠そうに自分の部屋へ帰っていった。

「あっ、紺谷、もうチンチクリン、風邪治ったよな?」

「ああ、はい。大丈夫みたいですよ。昨日は二人で神社近くまで散歩してきました」

「へえ。何しに行ったの?」

「猫と散歩です」

 僕は、自分で言っておきながら、よくわからない理由だなと思った。暇人なのはお互い様としても、一応、水野には外出の理由があったのに。

 そういう部分は、水野の方が歳上で、管理人としてお金を扱う大人っぽさがあるのかもしれない。実際に何か行動しているかどうかは別として。

「お前らバカだね」

 僕は首を傾げて肩をすくめた。

 水野は傍若無人に見えて、無駄な会話を嫌うので、さっさと自室へ姿を消した。

 一番、無駄な会話をしているのは僕かもしれない。

 狭くて急な階段をのぼって、二階の自分の部屋へ戻る。すると、階段の手すりにもたれかかって紫さんがぼんやりしていた。

「亮、橘花ちゃんを知らない?」

「えっ、部屋にいないんですか? 水野先輩は今、帰ってきましたよ」

「うん、いないんだよね。部屋にも、お風呂場にも、トイレにも」

「ええ! 今度は楢崎が行方不明ですか……」

 僕はぼんやりと、先週紫さんが居なくなった土曜日のことを思い出していた。あのときは、楢崎は風呂に入ったあとに、濡れたままで飛びこんできた。そして、風邪をひいたのだ。

「どこ行ったんだろう。携帯持ってないんですか?」

「ううん。どこにいるのってメールしてみたら、『ひみつ』って三文字が帰ってきたよ」

「ひみつって、ドラえもんですか……」

「は? ドラえもん?」

 僕はいい加減なたとえをしたことを後悔する。紫さんは、ドラえもんを見たことがないかもしれない。こんな時、ひみつ道具があれば楽ができるのに、と思う。

「どこ行ったんだろう。連絡は取れるのに、どこにいるのかわからないって、不気味だよねぇ」

「まあ、確かに楢崎らしい異常行動ですよね」

「また風邪をひかないといいのだけれど」

「本当にそうですよ。風邪をひいたら、周りが困ります。そうだ、僕もメールしてみます」

 僕は紫さんに頼るのも変だと思い、自分の携帯でメールを送ってみる。機種変更したばかりなので、メニュー画面が真新しい。前の携帯は、画面が割れてあっという間に壊れた。

「何て送るの? たぶん、ひみつって言われるだけだよ」

「『オサムは元気か?』と書きます」

「オサムって何? 猫のこと?」

「そうです」

 僕は少し考えてから、楢崎にメールを送った。

 ほとんどいつも一緒にいるので、わざわざメールをすることはない。前回の内容は、『納豆買ってきてね』である。

 どれだけ僕たちは当たり前のように一緒にいるのだろうと驚く。その日はたまたま、僕が東京へ遊びに行っていて、帰りにスーパーへ寄ったのだった。たいして友達は多くないので、弟が岐阜から遊びに来ただけだった。しかも、弟は彼女とテーマパークへ行ったので、ほんの‪二時‬間ぶらぶら歩いただけだった。

 アニキも早く彼女を作りなよ、と軽口を言われた。僕は、今まで彼女というものが一度もできたことがないので不穏な顔をする。

 中学も高校も、男子校だった。

 そんな僕がシェアハウスに憧れたのは、ひょっとしたら、女性というものを合法的に知るためだったかもしれない。

 水野に言われるがまま部屋の入居を決められ、僕があっという間にあやめ荘に移り住んだ。

 女性がどうのこうのと、思春期ならではの勘ぐりをして、実際のところは、なんのロマンスもなかった。恋人でもなく、兄妹でもなく、疎開先の子供同士のような関係性。

 そういえば、楢崎と僕は、初日に素っ裸で対面した。とんでもない風呂の思い出だ。

「オサムは元気か、って送った?」

 紫さんに言われて、僕はにやりと笑った。

 大昔の記憶を心の箱にしまって、適当に受け流す。

 すると、ピコピコとすぐに携帯が鳴った。

「あれ? もう返事がきた」

「えっ、なになに? もう返信来たの?」

 階段の手すりから紫さんが覗き込んでくる。

「はい、えーっと、なになに。『オサムは二人目の嫁のところで元気にしている』ですって」

「なんなのそれは。暗号なの?」

「いえ、オサムっていうのは、小説家のことなんですよ。猫にも小説家にとっても迷惑ですよね」

「へえ。オサムねえ。面白いこと考えるね!」

「紫さんも、ボーカルの名前を猫に付けたら楽しいんじゃないですか」

 すると、紫さんは大笑いをし出した。

「ありえないよ! 不気味な女になっちゃうでしょ。好きな歌手の名前をわざわざペットに付けるなんて。気持ち悪いよ、どう考えても」

「あはは。確かに、辛いものがあります」

「いや、笑い事じゃないからね! 別れた彼氏や、父親の名前でも怖いよ、相当ね」

「楢崎は、好きとは思っていない小説家だから良いんでしょうね。むしろ、家来にしたい、としか思ってなさそうですし」

「家来って。よっぽど、その小説家が面白かったんだろうね。二人目の妻ってことは、楢崎は三人目なの?」

「いや、四人目らしいですよ」

「ははあ、すごいね。話が急展開すぎて」

「ん? また返事がきました。『ササミを持ってきて』って? なんだ、結局、そういうことか」

「ササミ? 猫の餌だよね。オサムと一緒にいるのかな?」

「たぶん、複数の猫たちと一緒にいるような気がしますよ。おそらく、海岸の埠頭で」

 僕は、昔、楢崎と散歩していて、猫に絡まれた場所を思い出す。そこは、船着場の横の埠頭だった。たくさんの猫が寄ってきた。

「ふーん、ササミ持って行こうか?」

「いえ、大丈夫です。面白いから僕が持っていきますよ」

「じゃあ、二人で行こう」

 結局、僕らは二人で出かけることになった。

 どうして僕一人で出かけさせたくないのだろうか。

 外は肌寒く、先週のようにまた雪がちらついている。

「さあ、行こう」

 僕は紫さんに手を引っ張られて歩いていく。

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