第9話

「ずいぶん歩いたねぇ」

 結局、楢崎はずっと猫を抱いたままだった。オサムと名付けた猫も、暴れることなく手の中で大人しくしている。

「つい先日まで、街は真っ白だったのにねー」

 僕らは坂をのぼり、階段を上がって、神社の近くまで来た。そこには見晴台のような場所があって、夏場にはたくさんの観光客が訪れる。今は、冬なので、寒すぎて誰も近寄らない。

 テーブルとベンチが置いてあって、柵越しに街を一望できる。海も見えた。

 木のベンチに腰掛けて、僕らと猫は休憩をする。猫は、逃げもせずにテーブルの上で昼寝を始めた。人間に慣れきって、安心しているのだろう。

「楢崎はどうしてオサムが好きなの?」

 僕は暇をつぶす代わりに聞いてみた。腕時計を見ると、お昼もずいぶん過ぎていた。

 紫さんは、家でバンドの曲でも聴いているのだろうか。また、あの変なTシャツを着て。

「えー、橘花は皆好きだよ。三島も、谷崎も、ジェラルド・カーシュも、ヴィトルド・ゴンブローヴィチも。あ、子規は苦手。うん」

「へえ。楢崎は、本をたくさん読むんだね……」

 僕は、聞いたことのない小説家たちの名前を素通りしてしまう。三島由紀夫だけは聞いたことがある。

「ううーん、いやぁ、読む人はもっと読むんじゃないの? 橘花は、一冊しか読まないし」

「一冊って、なに?」

「その作者の本を、一冊だけ読むの」

「えっ! じゃあ、太宰治は、あの、なんだっけ、アレしか読んだことがないの?」

「うん。オサムは、『グッドバイ』しか読んだことがないよ」

「もっといろいろ読んであげたら? 全然違う話だろう。メロスとかあったじゃん」

 僕は、自分の場合はどうか、と逡巡する。同じ作曲家の曲を一曲しか聴かないなんて、無理だな、と首を振る。僕は、むしろ一人の作曲家をずっと聴く方だ。一曲で苦手だと思うと、二度とその作曲家には手を出さない。

 楢崎とは正反対だな、と思う。

「橘花は深追いしないのだよ。ドライなの」

 楢崎は、猫の腹を触りながら、くすりと微笑む。

「ドライ? 楢崎が? 楢崎がドライ?」

 僕は同じことばかり言ってしまう。

 言い回しを変えるのは、文学的なのだろうか。文学的というのは、どういう意味なのだろう。哲学的、とはどう違うのだろう。

「そうだよぉ。一冊読んだらグッドバイ」

「さっき言っていた人たちも、一冊しか読んでないのだね」

「うん。でも、橘花の読み込みはナカナカのものだよ」

「ああ、さっき暗唱していたもんね。話を全部覚えてるんだ」

 楢崎は記憶力が良い。それは僕も知っていた。時々、皆で話しをしている時も、楢崎が一番思い出話にリアリティがある。いつも、意味不明でトンチンカンな会話ばかりをしているようだけれど、実はしっかりと何を発言したのかを覚えているのだ。

「橘花の中で、彼らは“永遠”なの」

 また、意味不明なことを言い出す。

「えっ、オサムは橘花の中に取り込まれたの? 幽霊みたいなこと言うね。怖いよ」

 僕は、楢崎が作家の霊に取り憑かれるのを想像する。

「ううん。橘花は、彼らの“永遠”に手助けをしているだけだよ。きちんと彼らの話を覚えて、それを、きちんと人に話すの。そうすれば、彼らの話はずっと続いていくわけだね」

「まぁ、言っていることは分からなくはないよ……。でも、楢崎じゃなくてもいいんじゃないの? ほら、今はインターネットでも読めるわけだから」

 僕は、機種変更したばかりの携帯を見る。ついでに、さっき聞いた作者の名前を検索してみる。Wikipedia などが出てきた。

「ふーん。そうだね。りょう君の言うことには一理あるね」

 楢崎は目をまん丸に開いてにっこりと笑った。

「えっ、インターネットでいいの?」

「うん。そうだよね。インターネットがあればわざわざ伝聞しなくてもいいもんねぇ」

「えっ、さっきは、ずいぶん深い信念があるような雰囲気だったじゃないか」

「ふー、そうだね。きっと、オサムがりょう君に出会ったのは、橘花のおかげだね。少なくとも、そうだね」

「え、でも、楢崎に言われなくても、そのうち僕もどこかでオサムの本を読んだかもしれないよ。それこそ、インターネットや別の何かの影響を受けて」

 僕は楢崎との会話が面白くなっていた。あまり、いつもは話さないことだからだ。

 海から吹いてくる風が通って、肌寒いのも気にせず僕らは座っていた。

「自己実現は、個人の幸福を社会的なものとして無理矢理に扱わせようとする。それらは、自身の醜い側面、抑圧状態にあった実存を誇示する行為でもあり、また、システムを書き換えようとする不遜な行為だ」

 急に、また楢崎は一人で喋り出す。もしかして、またどこかの小説家の言葉だろうか。何かを暗唱しているのか。

 自己実現というと、夢を叶えるということだろうか。良いことじゃないか、と思う。不遜という意味は分からなかったけれど、夢を悪いことのように言うのは変だなと思う。システムを書き換える、というのもさっぱり意味がわからない。

「何それ? 自己実現システムって何? インターネット?」

 僕は質問攻めにしてしまう。全然意味がわからない会話なので、どこから聞いたらいいのか意味不明だった。とりあえず、「不遜」という単語はすぐに携帯で調べてみた。「思いあがっていること、おごりたかぶっていること」と出てきた。

 悪い意味だな、と思う。

 夢を見ることは、おごりたかぶっているのか。

 おごりたかぶっているというのは、悪人に使う言葉ではないか。

 自己実現、というと、もっとポジティブな意味だと思うのだけれど。

「インターネットじゃないよ。社会のこと」

「社会のシステムを書き換えるってこと?」

 僕は、楢崎の言葉の意味が、わかったような、わからないような、キツネにつままれたような気分になる。

「自己実現は、社会のシステムを書き換える?」

「ふむ。おそらく君にも、革命家になれる素養があるだろう」

「はっ、何? 革命?」

 僕は口を尖らせた。

「なんで急に僕が。僕が革命家になるの? 何を革命するの、チェ・ゲバラじゃん」

 大きい声を出してしまう。

 何が何だかさっぱりわからない。楢崎はニヤニヤと嬉しそうに笑い続けている。

「君、君、待ちたまえ。急いては事を仕損ずる、と言うだろう」

「はあ。革命家なんだ、僕は……」

 冗談だとしても、さっぱり意味不明なやりとりだなと笑えてくる。社会システムを書き換えるのが自己実現であり、僕はその才能があるらしい。僕が世の中を革命するのだろうか。

 全然、考えたこともないことだ。

「えっ、楢崎は、革命しないの?」

「しないよー。橘花は、ただ、“永遠”の手伝いをしているの。むしろ、橘花とりょう君は、敵対関係にあるんだよ。そこのところわかる?」

 僕はすぐに首を振る。

「ああ、なんか、僕がなんとかのシステムを書き換えるからか。永遠は、書き換えられたら困るってこと?」

 さっぱり理解できないまま、適当に楢崎の話に合わせる。

 すると、急に猫が起き上がった。ピョンと、簡単に手すりにのぼって歩き出す。

 わっ、と言って僕は慌てて捕まえようとするけれど、楢崎は、ぐったりとテーブルに顔を付けていた。

「ちょっと! 捕まえなくていいの?」

 素早い猫に手を伸ばして体を柵から乗り出す。

「猫のシステムは、人間に捕まるようにはできていないのだよ」

 楢崎は、走り去る猫をぼうっと眺めながら呟いた。

「でも、楢崎はオサムの四番目の妻なんだろ?」

 僕は猫がすっかり屋根の上をつたって見えなくなるまで、揺れる尻尾を目で追っていた。

「夫にとって良い妻は、夫を自由にさせる。たとえそれで、夫の寿命が縮まってもね」

 楢崎は、急に老けたようなことを言った。それも小説のセリフなのだろうか。

 僕らはしばらく、街の景色をただ眺めていた。

 自己実現というと、どんなものがあるのだろう。何かの職業に就き、大金持ちになることだろうか。

 良いことだとしか思えないが。

 少なくとも、僕は革命家ではないだろう。

 こんな田舎町で、何を革命しろと言うのか。

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