第8話

 ぶらりと出かけるつもりで玄関に降りると、楢崎がいた。土間に木の板が敷いてあるだけの場所にうずくまっている。

 僕は、また具合でも悪くなったのかと恐怖を感じる。

「楢崎? 何をしているの?」

 恐る恐る声をかけると、顔を上げた楢崎の腕の中には猫がいた。

 うわっと声を出して後ろに飛びのいてしまった。

「いやー、この子はうちが気に入ったみたいでね。ほらほら、りょう君も触ってみてよ!」

 僕は、この前、猫にジャーキーをあげたことを思い出す。そういえば、こんな毛色だったような気もする。

「う、うん。この前もいたよ、この猫」

 僕は楢崎の横に座って、猫の柔らかい毛並みを触る。生暖かい温度だった。

「猫に名前とかあるの?」

「ねえー、名前どうしようね。橘花も悩んでるよ」

「いや、僕は別に悩んでは……」

 どうして自分が思ったことを、相手も同じように考えていると思うのだろう。

 やっぱり奇妙な思考回路をしている。

「名前はどうしようかなー。紫ちゃんに近づけて、黄色かな」

「なんで猫の名前をわざわざ紫さんに近づけるの。微妙に失礼じゃない?」

 僕は吹き出しながら、楢崎が猫の前脚に手を入れて持ち上げる様子を眺める。

「ええー、黄色って名前、可愛いけどねぇ。じゃあ、オサム! オサムでどうだ!」

「オサムって、どこのおじさんだよ!」

 僕は、楢崎の名付けセンスを疑って目を細めた。どういう感覚で、猫にオサムなんて古臭い名前を付けるのだろう。

「だって、りょう君に貸してあげたでしょう。オサムの本!」

 楢崎は、猫の前脚を上げて挙手をさせる。

「はあ? あの小説家の名前ってこと? それこそ失礼じゃない? ほら、なんだろう。ファンの人とかに」

 僕は、部屋に転がっている小説の作者に同情してしまう。まさか、自分が猫の名前にされるとは夢にも思っていないだろう。それとも、想像するものだろうか、作家というくらいだから。

「オサムー! 元気か? 今度は、死ぬなよ」

 楢崎は嬉しそうに猫を左右に振っていた。よっぽどあの小説が好きなのだろうか。

 なんだか、バンドのTシャツを嬉しそうに着ていた紫さんと同じだなと思った。

 この家では、皆、どこかが似ている気がする。

「オサムー! この人はりょう君! りょう君だよ。オサムよりもずっと長くここにいるからね。先輩だよ」

「やめてくれ。あやめ荘の先輩なんて、ツライから」

 本当に僕は先輩だの後輩だのといった、縦社会の名称が大嫌いだった。水野だけは、唯一、先輩と呼んでいる。

「ねえねえ、オサムと一緒に散歩へ行こうか」

 急に楢崎が猫を抱いたまま立ち上がった。

「えっ。もう名前は決定したの? なんでオサムなの? もっと猫らしい名前にしてあげなよ」

 僕も立ち上がる。

「猫らしい名前だよ、オサムは。というより、あの人は、本来は猫に生まれるべきだったんじゃないのかな」

 楢崎は、はっは、と笑って玄関から出て行った。

 そういえば、『吾輩は猫である』という小説があったな、と思い出す。作者も同じではないだろうか。オサム、という名前だけが頭の中で何度も繰り返される。僕は小説家の知識が皆無に近い。

「『吾輩は猫である』は、ソーセキだよ! りょう君」

 僕は、心を読まれたような気分になった。言葉に出していないのに、楢崎には分かるのだろう。

 そうか、『吾輩は猫である』は、夏目漱石か。

「オサムは、ソーセキより猫っぽいんだよ! オサムは小説家より猫に生まれた方が良かったと思う。はい、行くよ! さあ、りょう君」

 僕は、夏目漱石がどんな人物かまるで知らないのだけれど、楢崎はまるで会ったことがあるかのような語り口で話した。

「“吾輩は遂に路傍に餓死したかも知れんのである”」

 また楢崎の口調が急に変わった。何かを読み上げたようだったけれど、何の文章かさっぱりわからない。

「何それ? オサムの句?」

 僕は冗談のように聞いてみる。

「ええいー! “他人の出来ぬ事を成就するのはそれ自身に於いて愉快である”ってね!」

「だから、なんなのそれは」

 猫を抱えたままの楢崎に追いついて、横を歩いてみる。よく考えると、楢崎の髪の毛は猫と似た色だ。服はピンク色だけれど、髪の毛は金髪に近い茶色だった。クセ毛なのでフワフワと巻いている。

「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない」

「えっ、つまらないって、どうしたの? 何か無理してるの?」

「オサムー! ソーセキに負けて悔しくないのか! お前の情熱はその程度か! ええい! 海に沈めるよ」

「なんで急にそんなひどいことを言うの?」

「オサムー! ほら行くよー! 橘花はあんたの四番目のお嫁さんだからね」

 楢崎は、たぶん作家と話しをしているようだ。本物のオサムも何度も結婚しているのだろうか。

「なんでオサムは自殺したのかな?」

 僕は、ふと疑問に思って重く尋ねる。確か、太宰治は、妻と入水自殺をしたという記憶がある。海ではなく、川じゃなかったか。

 楢崎は、スタスタと歩きながらふいに僕の方を見る。

「“永遠”になるためじゃないかな?」

 また出たな、と僕はあきれてしまう。

 なんでもかんでも永遠にされては、作者も困るのではないか。もっと軽い気持ちで小説を書いていたかもしれない。日銭を稼ぐためとか。

「永遠ねえ。自殺すると、自殺という記録が永久に残るからな。確かに、永遠に近づくよ」

 僕は背筋が寒くなるのを感じた。雪は、もう完全に溶けてしまったけれど、時々、真っ黒い塊が道路のふちにたまっている。

「そんなに永遠になりたいのかな? もっと身近な、お金がないとか、食べ物がないとか、失恋がつらいとか、悲しい出来事でもあったんじゃないの?」

「まあねー。オサム本人としては、“永遠”になるつもりはなかったかもね。オサムは、恥ずかしがりやだし、お調子者だし」

「だから、なんでそんなふうに、ついさっき会ってきたような口ぶりになるの」

「オサムのことは、橘花が一番よく知っているよ。四番目の妻だから!」

 僕は、思い切り笑いそうになりながら、日に照らされた道の先を見る。

 この道が、もしも永遠に続いていたら、僕はどこで家に帰ろうとするだろう。ある程度まで来たら、そこまで来たという記念や、ご褒美が欲しくなる。でも、たとえ永遠の道を歩いても、途中で折り返せば、ただの帰り道ではないか。

 僕はふと、道というものに疑問を持つ。

 この道は、どこに向かって行くのだろう。途中で、バタバタと死体が転がっていたら嫌だなと思う。最後には僕も倒れるわけだ。また次の誰かが永遠に向かって歩いて行くのだろうか。

 どこへ?

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