第7話

 楢崎は、水曜日には回復して、木曜日も金曜日もうどん屋へアルバイトに行った。

 今日はまた土曜日で、僕は部屋で寝ている。

 部屋に転がっている小説の表紙を横目で見る。結局、読まなかった。

 せめて、ドラマや映画であれば簡単に見られるのにな、と愚痴をこぼす。

「亮! 起きて、起きて!」

 僕はゆっくりと頭を上げる。案の定、紫さんが仁王立ちしていた。あやめ荘の最低の特徴は、部屋にカギがないことだ。もともと、古い一軒家を改築しただけなので、トイレも風呂も共同だ。

「なんですか?」

 僕は、うわっと起き上がって髪を触る。

「Tシャツが当たったんだよー」

 そう言うと、紫さんは青色の布を開いて見せた。奇妙な図形のようなロゴが入っている。

「えっ、なんですかそれ」

「先週のライブで、グッズ販売の抽選があったんだよー。いやぁ、まさかもらえるとは思わなかった!」

「もらえるって、お金払って買ったんでしょう」

 僕は、音楽が好きだけれど、バンドなどはさっぱり分からない。ライブへ行ったことも、クラブへ行ったこともない。

「そうだけど! 嬉しくない? こういうことって!」

 紫さんはニコニコと笑いながらTシャツを振り回していた。よくそんなもので喜べるな、と羨ましくなる。

「どうして紫さんは、そんなにそのバンドが好きなんですか?」

 僕は思いつきで聞いてみる。布団を畳んで、すみの方へ寄せた。

「だって、情けないんだよ!」

「はあ?」

 意味不明だった。

「とにかく、ボーカルの子が情けないの!」

「何ですかそれ?」

 確か、紫さんが好きなバンドは、女性も合わせて五人のメンバーだ。ボーカルは、男性だったはず。

「なんで情けないんですか?」

「そういう雰囲気」

「はあ? なんで情けないボーカルが好きなんですか?」

 しばらく紫さんは、うーん、とうなりながら天井を見ていた。

「そうね。なんというか。母性本能なのかな。情けないと、応援したくなるというか」

 僕は、この場を立ち去りたくなってしまった。なぜなら、僕は母親が苦手だからだ。特に、自分の母親が過干渉だったので、何から何まで心底うんざりしていた。

 僕が、あやめ荘に一人でわざわざ暮らしているのも、母親から離れるためでもある。それに、弟が実家でドラムを叩いているのも騒がしくて嫌だった。

 バンドというものに、僕は良いイメージを持っていない。

「そんな情けない人より、もっと強くて、格好良くて、自分を守ってくれる人を追いかけてくださいよ」

「えー、そんなのいる? どこに?」

「まあ、ここにはいません。バンドも数限りなくあるから、一人くらいたくましい人もいるんじゃないですか?」

 僕はいい加減なことを言いながら、部屋のゴミを拾う。

「うーん、まあ、探せばいるかもね。でも! 弱い方が応援したくなるでしょう。そう、これは応援なのよ」

 紫さんは、五百円でも買えそうなTシャツを抱きしめながら、愛おしそうにぶつぶつ何かを言っていた。

 バンドのファンというのは、会ったこともない、舞台でしか見たことのない他人に、大金をはたけるものなのだろう。

 舞台でしか本物を見たことがないから、なおさら金銭を通じて距離が近くなったような気分になりたいのか。

 それは、株式売買にも似た感覚なのだろうか?

 自分が多く出資すれば、バンドは、より活躍する。売れてくれば、もっと大きなステージで歌うことができる。

 自分が好む対象に影響を与える、という幻想にお金を払っているような気がする。

「もし、そのボーカルと実際に会えたらどうしますか?」

 僕は、思いつきで聞いてみる。たいして興味がないからこそ聞けるのだと思う。

「えええ! 困るね! どうしよう! 嬉しいな、でも微妙!」

 紫さんは眉にシワを寄せながら口は笑っていた。

「それって本当に好きなんですか?」

「好きだよ! でも、私はバンド全体が好きなのであって、ボーカルだけに会っても仕方がないんだよね」

「いや、僕に聞かれても困るんですが……」

「うーん、できれば会いたい! でも、会ったあとにまたライブに行くかどうかは微妙だね」

「そ、そういうものですか」

「うん。だって、たぶん、普通の人だと思うよ」

「まあ、歌う以外は、僕らと同じように生活しているだけでしょうね」

「そうだよー。私たちみたいに共同生活でもしてるんじゃない?」

 僕は共同生活という言葉を聞いて、今日の分の洗濯機を回さないと、と思い出した。

「じゃあ、バンド全員に会えるといいですね」

「それじゃあ、ただのライブでしょ!」

「バンドのメンバーもあやめ荘みたいに一緒に暮らしているなら、そこへ遊びに行けるといいですね」

 紫さんはしばらく猛烈に話し続けて、最終的には服の上にTシャツを着て嬉しそうに自分の部屋へ帰っていった。

 あの様子だと、いつか本当にバンドの家へ行くのではないかと思えた。

 僕は、さっぱり関心が湧かないので、ぼうっと紫さんの長い髪の毛が揺れる様子を見ていた。

 そういえば、この小説の作者も、読者と会ったりしたのだろうか?

 僕は楢崎に借りた本を見つめる。

 “永遠”とはどんなものだろう。

 僕は、楢崎の言葉をわりと真面目に考えてしまった。

 小説もバンドも、全然知らない僕にとって、作品といえばクラシックで、作者といえば作曲家だ。

 昨日の夜も、ショスタコーヴィチを聴いていた。大袈裟な曲なので、嫌な気分の時に聴くとスッキリする。ソビエト連邦が関係しているので、軍歌のように仰々しい。怖い、という印象を持つ人も多いだろう。

 僕が、もしショスタコーヴィチに会ったら、何を話すだろう?

 神経質そうだから、他人に会わないような雰囲気がある。

 ブラームスや、マーラにも、僕は一体何を話せばいいのだろう。

 たぶん、僕は質問攻めにするだろうな、と思う。

 どうやって曲を作っているのか、とても興味がある。作曲をしている以外は、僕らと同じように生活しているはずだから。

 料理を食べて、風呂に入っているだろう。滅多に部屋から出ずに、ずっと曲を書き続けているのだろう。

 僕らと何が違うのだろう。

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