第5話
僕は、楢崎の隣にある自分の部屋へ帰ってから、急に思い出した最悪の記憶で気分が悪くなっていた。
楢崎も、結局は水野と一緒じゃないか。
自分の好き勝手に行動して、周りに迷惑をかけ続ける。どうして僕らが振り回されなくちゃいけないのだろう。
はあ、と寝転ぶ。
もしもインフルエンザだったら、自分にもうつってしまうなと思いつつ、携帯を無意味に眺めた。
どうして、あやめ荘には変な人ばかりなのだろう。
僕はふいに南側のカーテンを開いて、雪の残る外を眺めた。昼の日に照らされ、屋根がキラキラと光っている。
「まぁ、僕も一緒かな」
平日に家で遊んでいる自分のことを客観視して、一人で呟いた。
このままではいけない、という気持ちだけが前のめりになる。
その後、僕はみんなのために、島で唯一のスーパーへ買い出しに行き、帰り道を歩いていた。
スーパーの袋が手に食い込んで痛い。歩くたびに袋のなかで、酒瓶がガチャガチャと音を立てる。
あやめ荘へ戻る最後の坂を降りるとき、茶色いものが足元を駆けていった。コンクリートの階段を降りた影は、うずくまっていた。
僕はビニール袋から、つまみのジャーキーを取り出して、うずくまる猫にさしだす。
美味しそうに食べる姿をしばらく眺めていた。
僕は、猫にあげたジャーキーを、自分の口にも放り込み、あやめ荘に帰った。
島には、やけに猫が多い。僕と同じようにエサをあげる人が多いのかもしれない。
そういえば、今は寝込んでいる楢崎も、猫が大好きだった。
「おかえり、亮」
扉を開けたとたん、紫さんに出迎えられた。
「どうも。楢崎は大丈夫ですか?」
「うん。今はぐっすり眠っているよ」
「そうですか」
僕は靴を履き替えて、台所へ荷物を運ぶ。
「よう、遅かったなパシリ」
台所には、なぜか水野が待っていて、ニヤニヤと嬉しそうに笑っていた。土曜日と同じジャージ姿だ。
「雪がひどくなっています」
僕はそんなことを言う。
「酒買ってきたんだろ?」
水野はいつも通り僕の言うことを無視して、僕の買ってきた袋を横取りした。酒の瓶だけを取り出している。
「早く作ってくれよ! ツマミ。料理係が寝込んで腹減って死にそうなんだ!」
水野は、僕には感心を持たない様子で怒っていた。いつから楢崎は料理係になったのだろう。
「はあ。そうですね。でも、まずは楢崎のおかゆを作ろうと思うんですが」
「食べなくて良いんじゃないの。なんでもいいからさっさとやれよ!」
水野は大声で指示だけ出して、自分の部屋へ帰って行った。台所は玄関の横にあり、土間になっている。台所より南側には居間が位置している。
「なんでちょっとは反論しないの!」
いつの間にか背後にいた紫さんが大声を出した。僕は卵を割ってかき混ぜている。
「反論してもしょうがないじゃないですか」
僕は、菜箸でグルグルと混ぜ続ける。お米は既に炊いてあるので、卵のおかゆを作る予定だ。
「あのねぇ。そうやって水野を甘やかすから、どんどん調子に乗ってしまうんだよ! 水野がおかしいのは、亮のせいでもあるの! わかる?」
紫さんは、不機嫌な様子で腕組みをしていた。
背が高いので、鴨居に頭が付きそうだ。
「まぁ、でも、言っても無意味ですからね」
僕は、どちらかと言うと、水野には反感を抱いていなかった。一応、このあやめ荘の大家なのだから権限は持っているだろう。普通よりも家賃を安くしてもらっている、というよしみもある。
「亮は、そういうところがダメだね」
「えっ、どういうところですか」
僕は少しムッとして言い返した。卵を火にかけて、鍋を傾ける。
「だから、人を甘やかすところ!」
紫さんは、急に僕の方へ近づいてきた。
「ダメだよ! 甘やかすと、本人のためにならないから。どんどんダメになってしまうよ!」
僕は急に腹が立ってきた。
「でも、紫さんだって水野先輩には何も言わないでしょう」
「言うよ! すぐ言うよ。追い出されてもいいから」
「いや、正直、紫さんはもっと働いた方がいいですよ? 住まわせてもらっているんですから」
僕はコトコトと煮込まれる卵が泡を吹くのを見つめて言った。
「料理も、掃除も、全部僕ばっかり……」
僕は、紫さんの顔を見ずに言った。確かに、傍若無人な水野には嫌気がさすが、紫さんは逆に何もしない人だった。昔、壁掛け時計が止まっていることがあったけれど、誰も電池を変えなかった。紫さんは、気づいていたのに放っておいた、と自分で言っていた。
「どうして、全部僕がやってあげているのに、そんな風に言われなくちゃいけないんですか?」
グツグツと煮込まれる卵をにらみながら、少しだけ酒とコショウを入れた。
「何よ。まあ、そうね。これからは、私も手伝うよ」
「口ばっかりじゃないですか」
「そんな言い方はないでしょう!」
僕はおかゆをお茶碗によそって、お盆を探した。ちょうど、紫さんの横のテーブルに載っていたので、手渡される。
「どうも」
「亮はいつも一人で解決するね」
「えっ」
「私たちなんか、いないみたいじゃん」
「なんですかそれ?」
「一人ぼっちで生きている気がする」
「そりゃあ、人間は皆、一人ぼっちですよ」
僕は、お盆に載せたおかゆを二階の楢崎へ運ぶつもりだった。
「私が持っていくよ! 風邪がうつってはいけないから」
紫さんはお盆を奪って、足早に急階段を登っていった。
僕は台所の片付けをしながら、どうしてこんなに嫌な気分にさせられるのかを真剣に考えていた。
「なんでかな」
一体、僕が何をしたと言うのか。
「うまい! ジャーキーがうまい!」
さっき、猫にあげそびれたジャーキーを水野は本当においしそうに食べる。
「お前も食べる?」と水野は、持っているグラスを振りながら僕に言う。食べ散らかし、酒も容赦なく開けていた。
僕は、恐る恐るジャーキーを受け取って、モソモソと食べてみた。
よく考えると、水野と二人だけで向き合ってコタツに入るのは、珍しいことだった。
「お前、さっきなんでアレとケンカしてたの?」
水野は新しい缶チューハイの蓋を開けながら聞く。アレというのは、紫さんだ。
「さあ……」
僕は首を傾げる。本当によくわからない。
「あいつは変な女だよな! でかいのは変なのが多い」
水野は、紫さんに負けず劣らず意味不明な理論を口に出して言う。もう酔っ払っているのだろう。
「お前らって仲いいの?」
「えっ、仲良くないですよ。だからケンカするんでしょう」
「でも、この前一緒に出かけていただろ」
「え……? 本当は、僕一人で行くつもりだったんですよ」
僕は、日曜日のこと、雪道に倒れた楢崎を思い出していた。
「電球くらい一人で買いに行くべきですよ」
「まあな。さすがにゾロゾロそろって行く必要もないからな」
水野は次の缶チューハイに手を伸ばしながら笑っていた。急に寝転んで、腕に頭をのせている。
「あのチンチクリンはまだ寝てるんだろう?」
僕は、『チンチクリン』と聞いて吹き出した。楢崎のことをそう呼ぶのは初めてのパターンだ。
「寝込んでいます。インフルエンザじゃないですか?」
「うわー、うつりたくない! 絶対に嫌だ! やめてくれ! 俺だけ別宅へ行こうかな」
水野は露骨に嫌そうな顔だった。別宅というのは、鎌倉の家だ。水野は、父親が不動産の会社を経営しており、いくつもの貸物件を管理していた。
「その方がいいかもしれませんね。ただ、水野先輩、今日はもう飲んだから無理でしょう」
僕は、急いで自分も酒に手を伸ばした。飲まないと、車を運転させられると思ったからだ。
こういうパターンは何度か経験している。
「僕も出ていこうかな」
僕は急につぶやく。
定期的にそんな気分になる。
すると、グウグウと大きなイビキが聞こえてきた。どうしてこんなにすぐ眠れるのだろう。楢崎も、水野も、性格は違っても二人とも同じ性格に思える。
「なんでかなあ」
僕はただ静かに、時を刻む時計を眺めていた。もう夕方だった。今ごろ、卵のおかゆは楢崎のお腹に入ったのだろうか。コショウが多かったかな、とも思う。
「はあ」
僕は、コタツにあごをのせて盛大にため息をついた。最近、ため息ばかりだ。どうして、こんな思いなのだろう。
自分が鍋で煮込まれているような気分だった。
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