第2話

 戸棚を探してもLED電球の替えはなかった。仕方がなく、島の入り口の雑貨屋に買い物へ行こうと思う。朝の決心だ。

 僕は、古びたあやめ荘の中で、なるべく音を立てないように動いていた。まだ、三人とも寝ているからだ。

 特に、楢崎の寝坊助は病的で、夜中まで平気で起きている。紫さんは気分屋なのか、昼前まで眠っていることもあれば、僕よりも早く起きることもある。水野はわがままなので、自分が起きると大声で僕らのことも起こそうとする。

「電球を買いに行くの?」

 びっくりして振り返ると、紫さんが腕組みをして立っていた。

「雑貨屋へ行こうかなと」

「どうして自分でやろうとするの?」

 紫さんは少し怒ったような風だった。

「えっ、誰もやらないから……」

 僕はまるで悪いことでもしたような雰囲気が嫌だった。

「ふーん」

「紫さん、やってくれます?」

「やだよ」

 僕は大きなため息を吐きそうになった。こういう着地点の見えない会話は大の苦手だ。無意味で時間の無駄だ。

「じゃあ、僕はもう出かけるので、いいですか」

「私も行くよ」

 紫さんは腕組みしながらにらむように言う。

「は?」

「素直に、ありがとうでいいでしょう」

「えっ、あ、まあ、好きにしてください」

 どうして自由に喋らせてくれないのだろうと、微妙な気分になる。そもそも、電球くらい誰でも一人で買いに行けるだろう。

「さあ、行くよ!」

 いつの間にか、紫さんが主役のように大股で歩き出す。僕は嫌な気分でゆっくりとついて行った。

 

「橘花ちゃん寒くない? マフラー、私のも巻く?」

「ううん。へーき」

 楢崎は両手を広げ、くるりとまわる。

 僕はどうして楢崎が付いてきたのかさっぱり分からないまま、二人の後ろを歩く。

 というのも、紫さんとあやめ荘を出る時に、階段から転げ落ちるように楢崎も降りてきたのだ。

「りょう君、はやくー!」

「はいはい……」

 楢崎はウサギのように跳ねて、路地の角へ消えてしまう。後には、僕と紫さんが残る。

 すると僕らの横を選挙カーが通っていく。女性の立候補者のようで、誰もいない道で大きく手を振っていた。

「もう、あれじゃ風邪がわるくなっちゃうのに」

「風邪ひいてるんですか?」

「そうだよ。微熱だけど。」

「どうしてわざわざついてくるんですか?」

 僕は不満たっぷりに非難する。

「えっ、大勢の方が楽しいじゃない」

「風邪だっていうのに出歩いて、勝手にわるくして。起き上がれないくらい熱が上がったらどうするんですかね」

「看病してあげないの?」

「しませんよ。勝手に医者へ行って、自分でどうにかするでしょう」

「冷たいんだねぇ」

 紫さんは、またコートのポケットに手を入れたままで、楢崎が走り去った先を見る。

「紫さんは看病してあげるんですか?」

「するでしょう、当然のことだよ」

「どうして?」

 すると紫さんは大声で笑い出した。一応、午前中なので、近所に迷惑をかけないように声を抑えて欲しいと思う。

「袖振り合うも他生の縁?」

「へえ。他山の火事ですよ。僕にとっては」

「それって、対岸じゃない?」

 僕は、ため息をつきそうになった。

「紫さんは、楢崎が好きなんですね」

 僕は精一杯の嫌味を込めて、憎らしく言った。

「別に、そんなのじゃないけどさ。せっかく同じ所に住んでいるんだし、それに、橘花ちゃんは可愛いし」

「可愛い? あれが?」

「可愛いよ。小さくて、ふわふわしてて」

「意味不明なことを言いますね。何考えているのかわかりませんよ。だって、風邪なのに散歩に行きたいだなんて。全く理解不能です」

「そこも含めて可愛いんだよ。ほら、妹みたいで」

「妹?」

「うん。ほら、行こう。橘花ちゃん、待ってるから」

 見上げると、風邪の楢崎が元気そうに手を振っていた。その向こうに海も見えた。

「はやくーっ!」

「ねえ、妹ってなんなんですか」

「もう、ただ、うちが女系の家でね。私が末っ子だったっていうだけの話だよ。それで、本当は妹が欲しかったな、って思うんだ」

 紫さんの実家は九州だと聞いている。今は、こちらで専門学校に通っている。

「亮は? 一人っ子っぽいけど」

 今度は紫さんが僕に尋ねてきた。

「弟がひとりいます」

 僕は二人兄弟の兄だった。弟は心底ひねくれており、実家では毎日ケンカをしていた。顔が似ている分、余計に腹が立つのだった。

「えっ! ぜったいに一人っ子だと思ったんだけどなぁ」

「一人っ子は、水野さんですよ」

 傍若無人、わがまま大王を思い出す。

「でも、そうやって意地張るのは、確かにお兄ちゃんっぽいね」

「どういうことですか?」

「私は、三姉妹の末っ子でね。姉によく甘えたんだよ」

「紫さんこそ、お姉さんみたいですけどね」

「そう。それで、一番上の姉がね、そういう感じだったの。私には甘えろって言うのに、自分は全然甘えないんだよ。意地を張るの」

「僕とは全然違いますね」

「そう?」

「紫さんはお姉さんは働いていますか?」

 僕は、少し意地悪な質問をしてみる。

「うん、ばっちり働いているよ。地元だけどね。亮は大学中退寸前でしょ。図星をつかれたら反撃?」

 紫さんが渇いた笑い声を出す。反撃はそっちだろ、と言いたくなる。

「中退じゃなくて、休学しようか文転しようか悩んでいるだけです」

「もう。冗談だよ。本気にしないで。怖い顔しちゃ嫌だよ」

 正直なところ、中退することも考えていた。でも、黙っている。

「まぁ、私は、お姉ちゃんじゃないからね。可愛い時は可愛いけど、面倒だなって思っちゃうときもあるんだ」

「それはそうでしょう」

「ただ、そういうふうに、一貫してない態度をとるってすごく嫌なんだけど。一人の人に対してね」

 紫さんは楢崎の、とは言わなかったけれど、思うところが多いようだ。

「橘花が、紫ちゃんの妹?」

 突然、また、橘花が僕らの間に入り込んできた。驚いて転びそうになる。

「ちがうちがう。聞いてたんだね。ごめん」

「んー。橘花も、紫ちゃんみたいなお姉さんだったら欲しいなぁ。りょう君は弟くんがいるんだっけ?」

「いるよ」

 橘花は不思議な笑顔を見せる。何が面白いのかは不明だ。

「んふー。一人っ子だったらよかったのに!」

「女の子は、一人っ子の男が好きなの?」

 なぜかいつの間にか二人で結託したように、にやにや笑っている。

 僕がなんて返事しようと気にしないようだった。

「僕には二人のことがわからないよ」

「わからなくてもいいもん。複雑な話なんだよ」

 なぜか勝ちほこったような顔で歩いて行く。

「紫ちゃん、橘花は妹なんて嫌だよぉ」

 二人は隣同士で歩きながら話している。楢崎が、紫さんの腕にべったりしがみついていた。

「なるなら、紫ちゃんのお兄ちゃんがいいな!」

「えっ! なんでお兄ちゃんなの?」

 口をつぐむ僕と、驚く紫さんのあいだで、楢崎は楽しそうに笑っている。

「ほら、驚いたときそうやって少し頬が赤くなるところとか、わたしがお兄ちゃんだったらすっごく可愛いって思いそう」

「何それ」

 紫さんはパタパタと手を振る。

「いいじゃん。お兄ちゃんになりたいとかー、妹になりたいとかー、そういうこと思ったら、なっちゃえばいいんだよ」

「なりたいって思ってなれるものじゃないだろう……」

 僕と紫さんは同じようなことを言う。

「なりたいって思ったらなれるよお!」

「楢崎の言うことは、意味不明だよ」

「そんなことないし」

「そんなにきょうだいが欲しいって、楢崎は、一人っ子なのか」

「んーん。お姉ちゃんがいるよ」

「お姉さん、いるの?」

「そうだよ。お姉ちゃんはねー、桃花っていうんだ」

「お姉さんも花なの?」

「そう。お姉ちゃんが桃花で、橘花が橘花。お父さんがつけたんだけどねぇ。桃に橘じゃ、お雛さまだよね」

 紫さんが困ったように笑っていた。

「そういえば、楢崎の実家って遠いの? 帰ってるところ見たことないけど」

「んー、遠いよ」

「東京って、言ってなかったっけ」

 紫さんが首を傾げて聞く。

「けど、遠いなぁ。そうだ。りょう君の実家はどんなところなの?」

「うち? うちは、岐阜だよ。特に何もない、ただの田舎。山だけがある」

「ふうん。紫ちゃんの実家はねー、女のひとがたくさんいてー、おばあさまは巫女さんなんだよ」

「まぁ、巫女、とはちょっと違うけど。かんなぎ、だよ」

「かんなぎ?」

「シャーマンみたいな。お祈りとかするの」

 全然よくわからないけど、とりあえずうなずいてみた。

「祖母にきいても、詳しくは教えてくれないんだけどね、なんか色々あってね」

「まあ、でも、そういう人がおばあさんにいるってすごいですね」

 僕は、感心して聞き入ってしまった。

「すごくはないよ。給料もないし。ただ、そういう人ってだけで。怪しいし」

「紫ちゃん、お箸の使い方きれいだよね。あと、急須の持ち方とか!」

 また、突然楢崎が話題を変えてきた。自分で振った内容をすぐに忘れてしまうのだろうか。

「もう、私の話はいいよ。亮の話でもしたら」

「僕ですか?」

 急に話題を振られて嫌になってしまう。

「そう。亮の話。うちの実家なんてどうでもいいでしょう」

「何もないですよ」

「弟くんはどんな子なのー? 家の周りにはどんな草が生えてるの? 田舎って家も古いの? 古かったら、廊下のどこを踏むと音が鳴るとか、りょう君は覚えてるのー?」

「いきなり、なんで質問攻めなんだよ……」

 僕は心底嫌そうな顔で言ってしまう。

「きっといつか、亮くんにお話を聞こうとしたときに、橘花の質問を覚えていてくれているか、それとも、忘れちゃっているかってことを考えると」

「何それ?」

「未来に約束をした気分になれるの。楽しみなことが、りょう君のおかげでひとつ増えたんだよ?」

「そんなこと考えるんだったら、楢崎の実家の話でもしてくれよ」

 僕はうんざりして、無理矢理に会話を変える。

「ひみつー!」

 楢崎は、平気で自分は答えずに笑顔で飛んでいった。不公平だ。

「ほんとう、ずっとこうでもいいんだけどね、でもね、まいにちが毎日続いて、変わったことなんて何もなくて」

 いつの間にか、僕らは船着場まで来ていた。

 たくさんの小型船が、ロープでくくりつけられている。金具が当たる音が響いていた。

「同じ時間に起きて、料理をして、ときどきお買い物をして、同じ時間に眠ってって思うと、すこし大変そうって思う」

 楢崎は一人で話し続けていた。

「変わらないことがいやな訳じゃないの。でも、同じことがずっと続くのが怖いの」

 僕らは返事をせずに、船を見ている。

「ヴァージニア・ウルフの『波』や、ミラン・クンデラの『不滅』でも、そんなことが書かれていたわ」

 楢崎は急に難しそうな本の名前を出す。ヴァージニア、と聞いてもヴァージニア州しか思いつかない。

「海の波がね、ずっと押し寄せるの。何千、何万回じゃなくて、もっとたくさんの、考えられないくらいの数で、すべての岸が削れちゃうまで。それがすごく怖いの。無限とか、永遠とか」

 僕は、少し大きめの声で言う。

「楢崎の言うことは、さっぱりわからないよ!」

「えー」

「だから、なんで嬉しそうなんだよ……」

「紫ちゃんは、何が怖い?」

 楢崎は標的を変えたようだ。

「私、看護師になるんだ」

「かんごふさん?」

「まだまだ先のことだよ。学校でもっと勉強をしなきゃいけないし」

「かんごふさんが怖いの?」

「うん、そうだよ。だって、人の命がかかっているからね」

 紫さんはうつむいて話す。

「楽しみだなー。そうしたら、橘花、たくさん風邪をひくね!」

「え、橘花、顔赤くなってるよ。風邪、わるくなってない?」

 そういえば、楢崎は顔が真っ赤になっていた。笑顔で飛び跳ねているので分かりづらい。

「おおー、海だねえー」

 楢崎は僕らのすべてを無視して走り去った。

 堤防の階段を早歩きで上り、楢崎の姿は見えなくなる。

 歩く姿はふらふらとおぼつかなくて、本当に風邪がわるくなっているのかもしれない。

「ちょっと!」

 紫さんは、看護師というより保育士のように追いかけていった。

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