しあわせぐらし
yuurika
紺谷亮
第1話
「りょう君、りょう君!」
僕は、布団から飛び起きた。
枕元には機種変更したばかりの携帯電話が充電されている。部屋の電気はつけっぱなしだった。
「何、楢崎? いいよ、入って」
しぶしぶドアへ声をかける。部屋は六畳一間。狭くてどこにも逃げ場はない。
「大変なの! 紫ちゃんがいなくなっちゃった!」
部屋に入るなり、濡れた髪を振り乱して楢崎が叫んだ。幼稚園児みたいなイチゴ柄のパジャマを着ている。
「紫さんが?」
「うん、部屋にも、お風呂にもいないの!」
「さあ、海にでも行ってるんじゃないかな?」
楢崎は一気にこちらへ駆け寄ってきて、両手を顔の前で大げさに振る。
「こんな時間に海へなんか行かないよ!」
携帯を見ると、23:16だった。
「紫さん、携帯を持ってなかったっけ?」
「つながんない」
「そうか。じゃあ、水野先輩に聞けばいいんじゃないかな。紫さんと仲がいいし、何か知っているよ」
「水野さんと紫ちゃんって、仲いいの?」
楢崎が目をまん丸に開いて首を傾げる。信じられない、という表情だ。
「まぁ、僕よりはいいよ。たぶんね」
「たぶんって!」
「うん」
「ねぇねぇ、りょう君。どうしよう」
僕はうっとうしくなって、楢崎から離れようとする。でも、楢崎は濡れた髪の毛のままで近寄ってくる。
「どうしようって、言われてもね……」
部屋は古い木造アパートなので、音が響きやすい。一階で寝ている水野にも声は聞こえているはずだ。紫の部屋は北側に位置して、大きさは僕と楢崎の部屋より少し大きい。
「ちょっと! 君は友人が心配じゃないのか!」
突然、まるで人格が変わったような言葉づかいになる。楢崎が奇妙な性格をしているのは、この部分だ。
「なんだよ。一応は心配だよ」
「ねえ、りょう君。紫ちゃんを探しに行かない?」
すぐに口調が元に戻る。
「えっ」
「海に行ってみようよ!」
ついさっき、海に行っているんじゃないか、という僕の意見を否定したのに、海へ行こうと言い出す。いつも通りおかしな思考回路だ。
そもそも、外は雪が降っている。木造アパートには平気で隙間風が入ってくるし、ちらっとカーテンを開けて外を見ると、暗闇に白いものが舞っていた。
「雪が降っているのに?」
僕はうんざりした顔で両手を前にのばす。
「もし事故に遭ってたらどうするの?」
楢崎は、泣きそうな顔でつぶやく。
「うーん、そうだね。まあ、ひとまず着替えておいでよ」
「えっ、橘花も行くの?」
僕は驚いて口をあんぐりと開けてしまった。
どうやら楢崎は、僕一人に紫さんを探しに行かせる気だったようだ。
「さ、さむい!」
「寒いねえ……」
服を着直して、あやめ荘の前に二人で立っている。こういうとき、女の子はどうして当たり前のことを言うのだろうといつも思う。寒いに決まっている。
「りょう君!」
すると、楢崎が僕の腕にすがりついてきたので、びっくりして離れた。
「なんで逃げるの!」
楢崎はうらめしそうにくっついてくる。
雪は足首まで積もっていて、体の芯から寒さがこみ上げる。
「あれ?」
ふいに楢崎が声を上げる。
僕も楢崎の向いている方を見る。街灯が一つ灯っていて、その下に背の高い人が歩いていた。
「紫ちゃーん!」
楢崎は夜中に大声を出すと、僕を突き放して、人影の方へ走っていく。長靴ではないので、足はベタベタだろう。
「あれ、橘花ちゃん」
楢崎は背の高い人影へ飛び込み、抱きついていた。
「どこに行ってたの?」
紫さんは、楢崎に抱きつかれても、ポケットに手を入れたままだった。黒いコートは、雪をかぶって白っぽくなっている。
「えっ、別に」
「部屋にいなかったから、探しに行こうと思ったんだよ!」
「ああ、そういうこと。ライブに行ってたんだ」
「えっ」
「だから、ライブ」
楢崎は紫さんに抱きついたままで、僕の方へ振り返った。
「紫さん、携帯は?」
「電池が切れた」
紫さんは、カバンすら持っていなかった。たぶん、ズボンのポケットに財布と携帯だけを入れて出かけたのだろう。
「よかったー! ねえ、さむいから早くうちに入ろうよー」
楢崎は、紫さんの腕をつかんで玄関へ向かう。
紫さんは、隣に立つと僕と同じ背丈だった。
「りょう君、ありがとう!」
楢崎は、ついさっきまで泣きそうな顔をしていたとは思えないくらい満面の笑顔だった。
「あー、さむかったね」
ただ服を着て、靴を履いて、家から出て、また家に帰ってきただけなのに、僕は疲れ果てていた。
「おまえら! 夜中にうるせぇんだよ!」
その時、廊下の角から現れたのは、あやめ荘の管理人、水野だった。不機嫌だった。
「うわっ、玄関を濡らすんじゃねえよ! おまえら本当にバカだなぁ。自分で掃除しろよ!」
ガラガラと玄関の引き戸を閉じて、僕は足元をはらう。
「そうだ、紺谷」
「え、はい」
僕は嫌な予感がしつつ返事をする。水野は金髪で、ジャージを着ていた。
「トイレの電球変えとけよ!」
「えっ」
「LEDにしろ」
水野は、管理人であるにも関わらず、あやめ荘の管理をするつもりがなく、備品整備などは住民の僕らにさせていた。
「たまには自分でやりなよ!」
紫さんが大きな声で横から言い返した。
「なんだと! じゃあ、おまえがやれよ!」
「別にいいよ」
やっぱり紫と水野の仲が良いとは言いがたい。
「明日までに変えとけよな?」
水野が腕組みをして睨みつけてきた。
「いいですよ、紫さん。たいした仕事じゃありませんから」
僕は、靴を脱ぎながらやんわりと言う。
「そういうことじゃないの。いい人ぶるんじゃないよ!」
「いいひとー」
楢崎は階段を駆け上がって、水野の横を通り抜けていった。電球の会話に参加するつもりはないようだ。
紫さんは、長い髪を邪魔そうにしながら僕を睨んでいる。
「いい人ぶるって言ったって……」
「もういいよ!」
紫さんも軍隊のようなブーツを脱ぎ捨てて、階段を駆け上がっていった。
男二人が取り残される。
「おまえ、あいつらのどっちか好きなの?」
水野がにやにやと笑っていた。
「は?」
「俺、どっちも嫌い」
「どっちって言われても……、さあ」
付き合いが長いのは楢崎だ。よく話すのは紫さんで、好き嫌いで考えたことはなかった。
「あっそ、つまんねえ男だな」
水野は吐き捨てて、自分の部屋へ帰っていった。水野は大家なので、僕ら三人分の部屋よりも大きな部屋に一人で寝ている。
誰もいなくなった玄関で、僕は自分の冷たい手を握った。
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