III.In the sea

 ガーネと別れ、アイオラは再び〈楽園〉の探索に励んでいた。


 絢爛なシャンデリアの浮かぶ白い廊下には、大きな窓があった。アイオラはそのガラスに手を当てて、外の景色を見つめた。相変わらずそこには、青と白が満ちているだけだった。


 ガラスに反射している自身の姿を、アイオラは見た。鳥籠には鏡がなかったから、彼女は初めて自分の姿を目にしたように思った。透明の中で、色彩を持たない自身の髪と翼は際立って見えた。


 誰かに似ているように思った。その微かな記憶を辿ろうとしたけれど、やはり霞が晴れず上手くいかなかった。アイオラは悲しそうに、溜め息をついた。


 アイオラは再び歩き出す。角を曲がると、そこには〈監視員〉の姿がある。先程までとは打って変わって、犬のような姿をしている。動きが素早く、通り抜けるのは難しそうだった。


 ――どうすれば、いいんでしょうか。


 アイオラは物陰に隠れながら、思考を巡らせる。ポケットに手を突っ込んで、そうして小瓶に入ったクッキーの存在を思い出す。アイオラはクッキーを一つ取り出して、〈監視員〉の方へと投げた。〈監視員〉はそれに気を取られ、暫しの間動かなくなる。


 アイオラは〈監視員〉の脇を走ってすり抜け、扉を開ける。ガーネがいた花畑とは異なり、何の問題もなく開いた。アイオラは急いで扉を閉め、大きく息をつく。


 顔を上げると、そこには真っ青の世界が広がっていた。雲海とはまた異なった、光による青さ。通路の両側には大きな水槽が幾つも並んでいる。でも空の水槽ばかりで、誰もいなかった。


 アイオラはゆっくりと、真っ青の通路を進んでゆく。右端の方に、何かが落ちていた。拾ってみると、それは鍵のようだった。アイオラはそれをポケットに仕舞い、再び歩き出した。


 やがて、一つの大きな水槽に突き当たる。

 そこには〈人魚〉がいた。水色の長髪はふんわりと広がっていて、瞳はこの世界よりもずっと濃い青色だった。膨らんだ胸には貝殻が添えられ、魚の姿をした下半身は鱗が煌めいている。


「……綺麗」


 アイオラはそう、口にしていた。〈人魚〉はアイオラに微笑みかける。


「そうかしら? どうもありがとう、お嬢さん。お名前を伺ってもいいかしら?」

「……わたしは、アイオラです。あなたは?」

「私はサファイ。よろしくお願いするわ、アイオラちゃん」


〈人魚〉――サファイは、そう言って一回転してみせた。水の中を泳ぐサファイを、アイオラは羨望の眼差しで見つめていた。


「……サファイさんは、いいですね。水の中でも生きられるなんて」

「そうかしら? 貴女だって、その翼があれば自由に飛ぶことができるでしょう? 羨ましいわ」

「……飛ぶ、ですか」


 アイオラは目を見開いた。鳥籠の中で生きてきた彼女は、飛ぶという行為を行ったことがなかった。背中からは紛れもなく、翼が生えているというのに。


「……わたし、飛べるんでしょうか?」

「なあに、もしかして飛んだことがないの? そうしたら今、試してみればいいじゃない」


 アイオラはこくりと頷いた。目を閉じて、飛びたいと願った。そうするだけで、翼は呆気なく動いた。遠ざかっていく地面に驚いていたのも束の間、天井にゴンと頭をぶつける。アイオラは地面に降り立って、頭をさする。


「……すごく、痛いです」

「私もびっくりしたわ……確かに室内で飛ぶというのは危ないけれど、まさか頭をぶつけるなんて……っぷ、あはははは!」


 サファイは可笑しそうに吹き出した。アイオラはそんな彼女のことを、どこか困ったように見つめていた。


 アイオラはどうしてか、懐かしい気持ちに襲われる。それは多分、飛翔のせいだった。私は昔、飛んだことがあったんでしょうか……? アイオラはそうやって、考えていた。


「笑っちゃってごめんなさいね、びっくりしたものだから。ところでアイオラちゃんは、何をしにこんなところまで来たの?」

「……いえ、構いませんよ。わたしは家族を探すために、〈楽園〉を出て〈地上〉に行かなければならないんです」


「〈地上〉……? 貴女、それ、本気なの?」

「……はい、本気です。わたしは絶対に、〈地上〉に行かなければならないんです」


 サファイは真っ直ぐなアイオラの瞳を見つめた。それからあることに思い至ったように、口を開く。


「もしかして貴女、記憶がないのね……?」

「……そうなんでしょうか? わたし、思い出せるのは雲海だけなんです。〈地上〉のことは何も、わからないんです」


「思い出さなくてもいいと思うわ。あんな汚い場所、忘れてしまえばいいのよ。私、アイオラちゃんが〈地上〉に行くのは反対よ」

「……どうして、ですか」


「貴女とは初めて出会ったけれど、何となく貴女のことが好きだから。だから、死なないでほしいの」


 死なないで、という言葉をアイオラは反芻する。ガーネもそう言っていた。だからきっと、〈地上〉は危険な場所なのだろう。


「……それでもわたしは、家族に会いに行かなければなりません」

「嫌よ……そんなこと言わないで。だって〈地上〉で、私のママは、パパは、妹は……」


 サファイは苦しそうな表情を浮かべて、自身の身体をかき抱く。アイオラはそんな彼女へと微笑みかけて、水槽に手を当てた。


「……でもそんなサファイさんなら、わかってくれますよね。わたしがどのくらい、家族に会いたいか」


 サファイは目を見張る。彼女は水槽のガラスに近寄って、アイオラとガラス越しに手を重ねた。


「……ごめんなさい、聞き分けの悪い子で。わたし、行きますね」


 アイオラは手を下ろして、歩き出す。振り返らずに、進み続ける。


「死んだら……っ、許さないわよ……っ!」


 そんな声が、後ろから微かに聞こえた。だからアイオラは頷いて、再び歩き出すのだった。

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