第2話


 ずんずんと歩いているといつもよりだいぶ早く学校に着いた。ただでさえ俺の通学路は下り坂なのに、さらに早足になっていたので半ば小走りくらいの勢いになっていたようだ。校門を通り、まだまばらにしかいない生徒たちの波に加わる。そこまで来てやっと速度を少し緩めた。実は学校に着くまでかなり緊張していたことに気付いて、自分でもちょっと笑ってしまう。俺って結構小心者なのかもしれない。


「──あれ、センパイ今日は早いじゃないっすか」


 そんなことを考えていると、軽薄な声が近づいてきた。


「なんか楽しいことでもあったかな? 珍しくご機嫌じゃん」

「……別に、いつも通りだよ」


 言葉を返しながら、このタイミングでこいつに会いたくなかったなと声の方に目を向ける。自転車置き場の方から見知った顔──六泉宗介(りくせんそうすけ)がふらふらと歩み寄ってきた。


 今日も今日とてうっすら茶色いパーマ、こっそり改造されたブレザーとスラックス。下品じゃない程度のアクセサリー。六泉ってお洒落だよねと女子に噂されるそれらは全て校則違反だ。切れ長の目も相まって黙っていればクールな印象だが、ひとたび口を開けば駄菓子のように軽い言葉がぺらぺらと再現なく出てくるような男である。


「そうなん? センパイさっき笑ってたからさあ」


 ちなみに「センパイ」というもののこいつとは同じクラスの同級生で、こう呼ぶのが今のブームなだけだ。中学からの腐れ縁だが、「お兄ちゃん」「先生」「日向氏」など呼び方のブームはころころ変わる。なお「お兄ちゃん」は嫌すぎたのですぐにやめさせた。


 ……というか、さっき自分で自分に笑ってしまっていたのを見られていたのか。あまり見られたくないところだったのでちょっと恥ずかしくなる。やっぱりこいつは間が悪い。


「おまえの顔が見えて笑っちゃっただけだよ。しっかり三十分前に登校とか、相変わらず真面目なのかどうなのかわかんないやつだな」

「んー? いつも言ってんじゃん、こうやってバランス取ってるんだって。僕だって自分がどう見られてるかぐらいわかってんだから」


 誤魔化しのために言った言葉に宗介は手をひらひらさせながら応える。

 確かにそれが宗介のモットーらしかった。校則を破る分、その他の箇所で帳尻合わせをする。朝早くに登校するのもその一環ということだろう。ただそれらはあくまで宗介自身の納得のために行っていることで、だから許されるとは思ってはいないらしい。校則違反に関しても宗介だからお目こぼしされているだけで、教師陣はたまになんとも言えない顔をしている。


「毎度ご苦労様です。それも律儀って言うのかね」

「まさかぁ。そうしないと気持ち悪いってだけっすよ」


 そう言ってけらけら笑う宗介を隣に、俺は昇降口に足を向けた。


 校内に入り、そのまま互いにくだらない話をしながら二階にある教室に向かう。宗介の仕入れてきた都市伝説の話を引き続き聞こうとしたところで、ふと思い出したように話を変えられた。


「そういやセンパイ、今日の放課後空いてる?」

「今日? いつも通り予定はあるけど……。何かあったっけ?」

「いや兄貴がさあ、こないだのお礼したいらしくて、いつでもいいから来て欲しいんだって」


 宗介は小さくため息をこぼしながら言う。そういえばこの間、宗介のお兄さんからも直接そんなことを言われていたことを思い出す。


 宗介の家はお弟子さんもいるような大きなお寺で、この辺りを牛耳る名士連中の一つだ。宗介自身は三男坊ということもありお坊さんになるつもりはないらしいが、こいつが学校でも結構好き勝手できるのは家の権力が強いのが理由だった。


 宗介曰く、三男坊なんて旨味がないのに責任ばかりあるんだから、少しくらい活用しないとバランスが取れていない、とのことだ。


「いいよ別に。お礼が欲しくてやってることじゃないし、むしろその、必要ない」


 めんどくさいと言わなかったのは俺なりに気をつかったつもりだった。宗介は「ダヨネー」なんて言いつつも、切れ長の目で俺をチラリと見た。


「まあセンパイの方針は知ってるけど。無償の奉仕って受け取る側は結構困るもんだよ」

「奉仕って大袈裟な……。俺のはただの手伝いだよ」

「部活もやらずに毎日放課後に精を出してるんだからそれは立派な奉仕だよ」


 宗介は呆れたように言う。それは少し責めるような声音だった。


 けれど実際、俺のそれはちょっとした手伝いでしかない。宗介の家の蔵を片付ける際に男手が必要ということでお手伝いに行っただけ。


 俺はもともとそういう手伝いが好きだった。趣味と言ってもいい。「猫の手、孫の手、日向の手」なんて揶揄されることもあるが、今ではその噂が学年問わず伝わっていて、毎日何かしらの依頼が来る。最近の放課後はもっぱらそれらを消化していた。


「その時間をアルバイトに充てるとかなら健全なのにねえ」


 飄々としている宗介だが、この点に関してはたびたび口を挟んでくる。多分こいつの感覚的には俺の行動は理解に苦しむものなのだろう。宗介に言わせるなら恐らく、「労働に対価が支払われないなんてバランスが取れていない」といったところか。

この話題になるといつも平行線を辿るので、適当なところで早々に切り上げるのが吉だ。


 だから俺は強引に都市伝説の話に戻そうとして、


「──おい日向、ちょっといいか?」


そこで闖入者に遮られた。


ちょうど階段を登っているときに、踊り場にいる男子が声をかけてきたようだ。剃り込みの入った短髪のその男子は、浅黒くがっしりとした身体をしている。顔は見たことがあるが、名前は知らないくらいの距離感。ただなんとなく印象に残っているのは、声をかけてきたそいつが宗介とは違った意味で不良だからだ。柄の悪い奴らとつるんで、喧嘩っ早い。それゆえ周りから敬遠されている奴……そう記憶している。

 そんな男に話しかけられる心当たりがないが、俺が黙っていることを肯定と取ったのか、そいつは踊り場から用件を話し始めた。


「今日ちょっと人手が欲しくてさ。お前を呼んでこいって先輩から言われてんだよね」

「……ああ、そういうこと」


 ご多分に漏れず、「日向の手」を借りにきたうちの一人ということか。ただ困ったな。この手伝いはきっと、片付けとか荷物運びとか、そういうアレじゃなくて──


「要は喧嘩するから兵隊集めろってやつ? すげー、まだそういう世界観あるんだ」


 隣で話を聞いていた宗介が素直に感心したかのように言う。言い方は少し難があるものの、つまりはそういうことだろう。人手が欲しいというのは確かに嘘ではない。


「あ?」

「悪いけど」


 茶化されたと感じた男子の矛先が宗介に向きかけたので少し声を張って遮る。


「今日はもう別の予定があるから無理だ。それから、そういう手伝いも無理」


 両手を胸の前に挙げてはっきり言う。それだけ言って踵を返そうとしたが、やはりそうはいかなかった。


「は? 知らねーよ。いいから来いって言ってんだよ」


 わーお、案の定話の通じないタイプ。下から睨め上げるように、声を低くしてこちらを威圧してくる。こうやって我を通すのがこいつらの常套手段だ。朝から厄介なのに絡まれちゃったなあと困ってしまう。横の宗介は冷めた目で階段下の男子を見つめている。


 階段を通る他の生徒からも怪訝な目を向けられる。少しずつ登校してくる人が増えてきているので、これ以上あまり注目を集めたくない。できるだけ穏便に、かつ明確にお断りしよう。


 そう思っていると、踊り場の男子は小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。


「知らないとでも思ってんの?」


 いやらしい笑みを浮かべて俺を見る。悪意のこもった瞳に、大体次に何を言うか察することができた。


「こっちも先輩からお前の話は聞いてんだよ。もともとはお前だってそういうの好きだろ? 詰めるだの締めるだのに昔は嬉々として参加してたらしいじゃん。今さらそれっぽいこと言ってんじゃ──」


 そこで言葉は途切れた。


 俺が階段から降りて男子の真ん前に立っただけで、自然と言葉は尻すぼみになった。


「な、なんだよ。図星なんだろ?」

「悪いけど」


 急に挙動不審になるそいつの目から視線を外さず、俺ははっきりと自分の意思を告げる。


「予定があるから行けないし、そういう手伝いはもう、やらない」


 自然と近づく顔の距離。そいつは二歩ほど後ずさった。何かを言おうと口をパクパクしているが、何を言うかがすぐに出てこないようだ。


 恐らく先輩とやらから俺の話を尾ひれ付きで聞かされているのだろう。こんなにも近く、手の届く距離になったらさっきまでと同じようなことは言えないようだった。

 ついため息を漏らす。詰めるのにも締めるのにも参加した覚えはないのだが、全てが嘘と言うわけでもないので困ってしまう。手伝いの中にはそういう荒っぽいものもあって、自分は仲裁したつもりが、気付いたら何故か対立していた二組が俺に殴りかかってくる構図になるということがよくあった。


 俺のため息を侮辱だと感じたのか、目の前の男子は顔を真っ赤にしながら俺に腕を伸ばしてくる。すぐに殴りかかってくるのではなく胸ぐらを掴もうとするあたりまだ紳士的か。などと思いつつ、注目を集めるのは避けられそうにないなと半ば諦めていると。



「──ねえ」



 無機質な、それでいて軽やかな声。合わせてチリンと、涼やかな音が響く。その声に俺も、今まさに俺の胸ぐらをつかもうとしている男子も、まるで魔法をかけられたかのようにぴたりと止まった。


「そこにいられたら邪魔」


 俺の逆側。今まさに階段を上ってきたであろう人物がよく通る声でそう告げた。

 男子の肩越しに、そこにいる少女が目に入る。小柄だがまるで静止画のようにブレのない姿勢。それは芯が通っていると表現するのが正しいだろう。指定の制服をボタン一つ外すことなくきっちり留めているのがむしろその少女にはよく似合っていた。


「九龍(くりゅう)さん?」


そこにいたのは間違いなくクラスメイトの九龍紗羅(さら)だった。スクールバッグを肩にかけ、反対側の方には竹刀袋をかけている。先ほど涼やかな音を響かせていたのはその竹刀袋に付けられた小さな鈴だった。


「……うっぜえな」


 呟くように捨て台詞を残して、俺の前にいた男子は逃げるように去っていった。

 さもありなん。俺が逆の立場でもそうするだろう。なぜならここにいる九龍紗羅は、ある意味学校一の危険人物と言っても過言ではないからだ。


「さすが九龍ちゃん。胆力だけで追い払うとかもう達人の域じゃーん」

「私なにもしてないけど」


 宗介の軽口を九龍さんは無機質にいなす。謙遜ではなく、きっと本当にそう思っているのだろう。チラリと俺を見るその目にはどんな感情が籠もっているのか計り知れない。


 九龍さんはそれ以上何も言わず、当たり前のように俺の横を通り過ぎて階段を上がっていった。きれいに切り揃えられた短い髪が揺れ、ふわりとシャンプーの香りがする。ボーッとその後ろ姿を見つめていたが、さっきのお礼もまだだと気がついた。

 すると、俺から声をかける前に九龍さんは階段を上り切ったあたりで立ち止まった。


「六泉くん」

「え、なに?」

「法介さんに伝えておいて欲しいことがあるんだけど」

「……あー、自分で言ってよ。お家がらみのことは僕に頼まないで」


 いつもののらりくらりとした様子とは打って変わって、階段の手すりにもたれかかった宗介は嫌そうな顔をして目を背ける。取りつく島もなく断られた九龍さんは気分を害した様子もなく「そう?」と小首を傾げている。


 九龍さんの家もまたこの街を牛耳る名士の一つ。いやむしろその筆頭と言ってもいいだろう。その権力は高校生の自分にもよくわかる。街を歩けば九龍関連の企業名を冠した建物や店舗が立ち並び、その影響力は電車で出た先の繁華街にも広がり始めているとのことだ。


 先ほどの男子が何もせずに去っていったのは、当然九龍さんのことを知っているからだ。彼女の気に障ることがあれば何をされるかわからない──そう考えても仕方がない。


 そんな影響力を持った家がいくつか集まって、この街に鎮座している。宗介の兄、法介さんの名前が出たのもその兼ね合いだろう。とある噂では、お偉いさんもこの街に関する何かしらがある時は市長に話を通すよりも先にその集まりに挨拶に行く、なんてことも囁かれている。


 たまに宗介と九龍さんはそういう業務連絡のような話をしている。大体宗介は面倒くさそうな顔をしているが、今からそういったやり取りをしていることは大変だなと思うし、素直に尊敬する。


 九龍さんはそれ以上言うことはないとばかりに立ち去ろうとして、何かを思い出したかのように再度振り返った。


「日向くん」

「え、あ、はい!」


 まさかこちらにも声をかけられるとは思っておらず、少しだけ声が裏返る。宗介が小さく吹き出すのが見えた。ちくしょう後で覚えておけよ。


「…………」


 先ほどまでは淡々と用件を口にしていたのに、九龍さんは少し言い澱むように黙り込んでしまった。なんと言えばいいのか悩んでいるように、眉を少し寄せて目線を斜め上の方にやっている。そんな九龍さんを見るのは初めてで、微妙な緊張感が場を支配していた。


 通り過ぎる学生たちが怪訝な目を向けてくる。さすがにこちらから声をかけようかと思った瞬間、九龍さんは小さな声でポツリと言った。


「周りに気をつけて」


 え? と聞き返したが、九龍さんはそれ以上何も言わずに今度こそ去っていった。教室へ向かう歩みには、伝えることは伝えたとばかりに未練がない。


「どういうこと?」


 宗介がきょとんとした顔で聞いてくるが、俺にも全く心当たりがなかった。

 それともさっきのように不用意に絡まれることへの注意喚起だろうか。だとしたら俺も決して望んでいるわけではないのだが。


「わからん。九龍さんはちょっとミステリアスだからな」

「ダヨネー。僕あの子のこと正直苦手」


 言いつつ階段を上る。宗介も肩をすくめて参ったのポーズを取る。宗介がはっきりこういうことを言うのは珍しかった。


 しかし俺は苦手というよりも、むしろ──


「それが九龍さんのいいところなんだけどな」


 へへへと鼻をこすりながら言う。こんなこと冗談めかしてじゃないと恥ずかしくて言えない。


「……君、マジで良い趣味してるよねえ」


 宗介が本気で呆れたように言う。ただでさえ鋭い目つきのこいつに目を細めてジトっと睨まれると想像以上に迫力があるからやめて欲しい。見る目がないねという呟きに首を傾げる。九龍さん、小リスみたいで可愛いと思うんだけど。そう言うと宗介は「虎の間違いでしょ」と鼻で笑った。


 九龍さんの評価に関してはどうやら宗介とは平行線を辿りそうだ。これ以上議論してもヤブ蛇なので話を変えよう。隣にきた宗介がまだじろじろと俺を見てくる。その目はやめなさい。


「──で? それはいいとして、おまえの仕入れてきた都市伝説の続き聞かせてよ」


 半ば強引に話を引き戻す。正直そこまで興味のある話題ではなかったが、俺の意図を汲んでくれたのか宗介もあっさり乗っかってきてくれる。こいつのこういうアンテナの良さは見習いたい。


「あー、どこまで話したっけ? 『サムライメイド』? いや『メイドサムライ』だっけ?」

「なんだよそのB級もいいところな名前……」


 改めて下らない話に花を咲かせながら、俺と宗介は教室へと足を向けた。




 午前の授業は上の空だった。宗介から聞かされたトンチキな都市伝説のせい──ではない。朝に九龍さんから言われた一言が、やけに頭に残って仕方なかったのだ。

 周りに気をつけてと言われても、果たして何を指しているのかわからない。今朝のようなイレギュラーを除けば気をつけなければいけないことに思い当たる節はなかった。


 ただの社交辞令の一つだったのかもしれないが、あの九龍さんから言われたということもあり、もしかして何か特別な意図がある忠告だったのではないかと勘ぐってしまう。


 そんな俺の心中など知らず、斜め前に座る九龍さんはいつも通り背筋をピンと立てて板書を写していた。黒板を見るとどうしてもその背中が目に入り、俺はろくに集中できず斜め前の席をチラチラ見てしまう。


 九龍さんは授業中には赤い縁の眼鏡をかけており、時折何かを考えるようにペンを口もとにやっていた。そのちょっとした所作の一つ一つが美しく、チラ見するつもりがついじっと見惚れてしまう。「こいつ結局いろいろ理由をつけて九龍さんを盗み見たいだけでは……?」という自問には目を瞑る。


 自分の中でそんなふわふわした思いを巡らせていると、がん、と後ろの席の宗介が俺の椅子を蹴飛ばしてきた。パッと教壇を見ると英語教師がこちらを咎めるような目つきで凝視している。まずい、ちょっとあからさますぎた。俺は声にならない謝罪の意味を込めて、これみよがしに必死に板書を写し始める。後ろの席からフンという鼻息が聞こえた気がした。


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