第1話
いつも通りの夢を見る。風に合わせて木々がざわざわと揺れる深い深い森の中。カーテンのように重なった葉が空を覆い隠していて、ここには月の光も届かない。まるで幕の下りたステージのようだと毎回思う。刺すような寒さが足元を吹き抜け、身体は小刻みに震えている。荒い吐息は俺のものか、それとも──目の前にいる怪物じみた野犬のものか。
俺は誰かを守るように、野犬と誰かの間でその凶暴な目線を受け止めている。身体は水の中にあるように重たくて、息苦しさと恐怖でおかしくなりそうだった。
夢はこのまま動くことはない。いつまでも睨まれたまま、苦しい気持ちだけが続いている。ずっとずっと。いつもいつも。何度も何度も。始まりと終わりが変わることのない悪夢をリフレインする。
夢の中で、これは夢だと気づくことができるものを明晰夢というらしい。これはきっとそれに近いものだ。この瞬間が決して現実のものではないとどこかで気づきながらも、だからこそ終わることがないとわかっている。真っ当な逃げ道を探すこともできずにただ泣きそうな気持ちのまま時間が経つのを待つしかなかった。
逃げ出してはいけないと心の中で誰かが言う。お前はその身を呈して誰かを守らなければならないと。噛まれようと引きずられようと、自分の命を捧げるべきだと。
そこに疑問はない。自分もそう思う。実のところ俺が恐怖を覚えているのは目の前の野犬が恐ろしいからではない。俺はただひたすら、命を呈しても守るという目的が果たせないかもしれないことに恐怖を覚えている。
「逃げてもいいよ」
見透かされたかのように背中からそんな声がかかった。幼いくせに恐れなど一切ないその声に、酷く不安になる。冷たい風が背中から首筋を撫で、不安な気持ちに拍車がかかる。
なんでそんなことを言うのか。心配しなくても俺は絶対にここを退かない。たとえどんな目にあってもお前を守ってやる。不安を振り払うように、多分そんなことを口にする。
すると背中の気配は、俺のその言葉に少しだけ笑った気がした。
「楽しそうだね」
冷めた口調で嘲るように、哀れむように、声は告げた。
その言葉につい振り返りそうになって──
そうして、いつものように目が覚めた。
◇
「彰さん、起きてください」
低く落ち着いた声が聞こえる。声とともにカーテンが開かれ、強い日差しが顔を照らした。急な眩しさに、俺は冷水をかけられたかのように一気に現実へと帰還する。
「おはようございます。今日も、夢見はよくなかったようですね」
俺を起こしてくれた声の主── とわ子さんは、困ったような顔をしてベッドの俺を見下ろしていた。
「……おはよう、とわ子さん。いつものことなんで大丈夫ですよ」
「大丈夫そうには見えませんよ」
のそりと体を起こしながら応える。いつもの割烹着を着たとわ子さんはますます困ったような顔をして、少し咎めるような口調で言った。
心配してくれているのはとてもありがたい。けれど本当のことだ。定期的に見るこの悪夢はとっくに俺の人生の一つになっていて、今さらどうにかしようとは思っていない。
「……今日も朝食の前にシャワーに入りますか?」
とわ子さんはそれ以上何も言わずにそう聞いてくる。俺が「そうします」と返すと、わかっていたとばかりに持ってきてくれていたタオルを手渡してくれた。起きてからまずシャワーで寝汗を流すのが俺のルーチンになっている。
寝起きで汗を流したくなるほど汗ばんでいるのは初夏だけが理由ではない。この夢を見ているときはかなり寝相が悪いらしく、悪夢を見た日の朝はいつもこうなってしまう。とわ子さんも心得ていて、起こしに来てくれるのとともにシャワー一式を手渡してくれるのが毎朝の流れになっていた。
とわ子さんと一緒に自室から出て一階へ降りる。俺は浴室へ、とわ子さんはスリッパをパタパタと鳴らしながら台所へ向かった。台所からは味噌汁の良い香りがする。そうかと思うとチン、と食パンがトースターで焼ける音が聞こえてきた。
……かつてお味噌汁と一緒に食べるのはご飯が良いとそれとなく伝えたつもりだったのだが、とわ子さんにはあまり伝わっていないようで、我ら日向家の朝食は食パンと味噌汁のセットがデフォルトだった。俺はいつの頃からかその組み合わせでないと違和感を覚えるようになってしまった。慣れとは怖い。
「彰さん、パンは何枚食べますか?」
「あ、二枚でお願いしまーす」
台所からかけられる声に応答する。「はーい」という声とともにとわ子さんが食事を用意してくれている音が聞こえてきた。逆に言うとそれ以外の音は何もしない。誰かが起きてくる気配もない。それもそのはずで、我が家はとある事情から俺こと日向彰と、住み込みの家政婦のとわ子さんと二人暮らしだ。両親は存命だがもうしばらく顔も見ていない。家のことは炊事洗濯までとわ子さんがしてくれており、二人暮らしでも困ったことはない。とはいえもう十年近くこの暮らしなので、味噌汁と食パンの組み合わせしかり、いろいろと適応したということもあるのだろう。
俺はテキパキと寝巻きを脱いで洗濯かごに放り投げる。シャワーを浴び終わったらそのまま制服に着替えられるよう、シャツやスラックスを脱衣所にかけておく。
浴室に入りシャワーの栓を捻る。冷水が温水に変わるまでの間、鏡で自分の身体を見る。
「……やっぱり、今日もか」
鏡に映る身体はいつもの見慣れた自分のものだ。ただ、最近その身体にところどころ内出血のような痕がついていることが気になっていた。少しだけ熱を持っているそれらに触れるが、特に痛みはない。
例の悪夢もそれに比例して見る頻度が増えてきているし、もしかしたらどこかに不調を抱えているのかもしれない……なんてことを思って、自嘲気味に嘆息する。
──そんなことはありえない。
俺はそれ以上考えることをやめ、ちょうどお湯が出始めたシャワーを勢い良く頭からかけた。少しだけ眠気の残っていた頭もそれで完全に覚醒する。さっさと準備を済ませていつもの朝食にありつこうとぼんやり思った。
◇
「今日は帰りがちょっと遅くなると思います」
朝食を終えて準備も済ませた後、玄関でとわ子さんへそう声をかける。とわ子さんは割烹着姿のまま、洗い物の手を止めてわざわざ見送りに来てくれていた。
「はいな承知しました。お食事はどうされますか?」
「家で食べます。二十時までには帰れるかな」
「わかりました。でも、危ないことはしちゃいけませんよ」
とわ子さんは言い含めるように俺の目をじっと見つめてそう言う。育ての親代わりのこの人は、俺の素行に関してもたびたびこうした注意をしてくる。
「彰さんにもいろいろ付き合いがあるのはわかってますけど、怪我したりしちゃ元も子もありませんからね」
「心配には及びませんって。怪我なんてしませんよ」
「いーえ心配します。彰さんは時たまひどく無鉄砲ですからね。誰かにお願いされたらすぐ無茶するんですから」
とわ子さんは唇を真一文字に引き締めてそう言い切る。確かにいろいろと思い当たる節はあるものの、俺は曖昧に笑って誤魔化した。怪我なんてしないっていうのはそういう意味じゃなかったんだけどな。
「好きでやってることですから」
それだけ言って、俺はそそくさと玄関を出た。後ろからとわ子さんの「行ってらっしゃい」という声が聞こえたので、ドアが閉まり切る前に「行ってきます」と返す。
最近とわ子さんの小言が増えてきている気がするのは、いろいろと心配させてしまっているからかもしれない。もう少しうまくやらなくちゃな。
そんなことを考えながら、俺は自らの通う兎塚高校へと足を向けた。
本当は梅雨入りだというのに滅多に雨が降ることもなく、ただ徐々に長くなっていく日没までの時間と、確かに上がっていく気温が夏の始まりを予感させる──そんな季節だった。
俺の家は住宅街を突っ切って山の方に少し踏み入った先にある。周りに他の住宅も、コンビニすら見当たらないような場所。そんなところにポツンと俺の家はたたずんでいた。
高校までは徒歩で三十分。そのほとんどは下山するための時間だ。親父殿が何故そんな住みにくい所に俺の住む家を用意したのかはわからないが、多分隔離に近いんじゃないかと思っている。不肖の息子が変なことをやらかさないために俗世から切り離したのだろうと自分では勝手に想像していた。流石に十年住むとその不便さにも慣れたし、もともと実家も山の方にあったので特に苦労は感じていない。でも、原付の免許でも取ろうかとはたまに思う。
一応舗装されている道路を黙々と進む。道にはところどころヒビが入り、アスファルトの割れ目からは雑草が顔を覗かせている。この道を車が通ることは滅多にない。わざわざこの山を通らなくても目的地に向かうためにはもっと便利な道路がいくつもあるからだ。だから道に迷った車がごく稀にやってきたり、さらにもっと稀にやってきたりする日向家への客人以外はこの道を通ることはない。
道路と山との境界線はガードレールで仕切られている。その先は青々とした世界が広がっており、大きな木々が鬱蒼と茂っていた。熊はいないだろうが、もう少し深くに行けば猪くらいならいるかもしれない。夜は月明かりとぽつぽつとした街灯だけが光源になるのであまり遅い時間には出歩くことすらままならない。
ただ俺はこの登校時間が嫌いじゃなかった。あまり人の多いところが得意ではないのもあって、自分の足音と、鳥のさえずりくらいしか聞こえてこないこの静けさは好きだった。歩きながら今日の予定を考える。授業は英数国などが揃った座学ばかりで、移動教室や体育のない一番退屈なものだ。課題や小テストがあったかどうかを思い出しながら、今日の放課後の予定は何だったかなと思う。
と、その瞬間だった。
──バキバキバキ、と。大きめの枝が折れたような音が唐突に響き、機械的に動かしていた足がピタリと止まった。急な騒音に心臓が飛び跳ねる。身体をこわばらせたまま音の方に目を向けると、ガードレールを挟んだ奥の方で大きな枝が地面に向かって落ちていくところだった。
「……え?」
しかし驚きはそれだけではない。その木のあたりから、がさがさと木々の合間を滑るように飛び跳ねていく影が見えた。目を凝らすと木々の間がキラキラと光っている。影はあっという間に視界の外まで飛び跳ねていき、やがて見えなくなった。
「──なんだ、いまの」
気付けばそう呟いていた。大きめの猿……か? それにしても大きすぎた気がするし、この辺りに猿が出るなんて聞いたこともない。いや何より、去っていく時の飛び方が空でスケートしているみたいにひどく異質なものだった。あんな動き方をする動物を、俺は知らない。
「…………」
いつもの登校風景が急に不気味なものになってしまった。その衝撃にしばらく俺はそこで立ち竦んだまま動けない。目線を向けていた先、影の向かった方向で日の光を反射してキラリと何かが光る。それをよく見ようとすると、今まさに溶けたように消えてなくなった。
頭の中に「妖怪」とか「UMA」とかの言葉が浮かぶ。こんな明るい時間からそんな想像をする事になるなんて思ってもみなかったが、いきなりの出来事にすっかり混乱してしまい、オカルト的な発想ばかり出てくる。
「────っ」
しばらく呆然としていたが、ひときわ大きな鳥の鳴き声にはっと現実に引き戻される。いかんいかん、朝から変な想像をするのはやめよう。よく見えなかっただけで恐らく鳥か何かだろう。もしくは俺が知らないだけでこの山には猿だっているのかもしれない。それにあの動き方だって、一瞬のことだったから変に見えたけれど多分そこまで驚くようなことでもないはずだ。事実は小説より平凡なり。
うんうんと頷きつつ、改めて足を動かし始める。
心なしか足早になっていることにはあえて気付かないふりをした。
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