災厄が望む家族計画 ─竜は再会を歌う─

帯屋さつき

Prologue

 ──誰も一人では生きていけない。


 俺にそんな言葉を残したのは果たして誰だったか。

 両親ではないと思う。教師や先輩でもなかっただろう。記憶はもやがかかっているように曖昧で、それでいて鍵がかかったかのように強固に閉ざされていた。誰が言ったか、いつ聞いたかはわからないまま、その言葉だけがなぜかぼんやりと頭の中に残っている。


 弱いから群れるのではないと。強いから集うのではないと。ただ、そうしないと生きていけないから手を取り合うのだと教えてもらった。きっと俺はその言葉の意味を本当には理解していないけれど、時折ふとその教えだけを思い出すことがある。


 それは寝付けない夜だったり。

 それは自分以外誰もいないバスの車内だったり。

 それは幸せそうな家族を見かけた帰り道だったり。


 そして今──目の前にいる血染めの少女をただ茫然と見上げている時だったりする。


 これは現実逃避に間違いなく。夕暮れが照らす路地裏の中で腰を抜かしている俺は、目の前の光景を何一つ理解できていない。パニックになりかける頭を必死に宥めながら、俺はこちらに背を向けている少女をじっと見つめていた。


 少女の前にはいくつかの血溜まりがある。高いところから特大の……人間ほどの大きさのトマトを落としたらあんな感じになるだろう。床を這う血液が徐々にくっつきあって一つの大きな血溜まりになっていくのを俺はなすすべなく見つめている。緩やかに領域を広げるその血液が少女のブーツまで届きそうになった瞬間、彼女はすっと一歩身を引き、その勢いで俺の方へ向き直った。


 肩まで伸びた髪がふわりと揺れる。それを見た途端、ズキリと頭の芯に火花が散る。懐かしいような、悲しいような感情と共に、俺は少女の顔に目線を向けた。赤みがかった髪。返り血を浴びた長いスカート。漏れている吐息すら赤く見えるような気がする。そしてその中で、爛々と妖しく光る瞳だけは金色だった。


 少女は間違いなく俺を見ていて、そして俺も、どうすることもできずに半ば諦めた気持ちで少女をただ見つめていた。今から立ち上がって逃げることも、立ち向かうことも、目の前で起きた惨劇を見た後では試す気にもなれない。そんなことをしたところで新しい血溜まりが一つ増えて終わりだろう。


 結局のところ、この少女の姿をした怪物が何かの気まぐれで俺を見逃してくれる以外、俺がここから無事に立ち去れる可能性はなかった。


 ……なんでこんなことになったんだっけ? 今日はいつも通り授業を終えて、いつものように日課の手伝いを済ませて、いつもより少し早く帰ろうとして、そして何故かここでこんなものを見せられている。


 目の前の脅威から意識を背けて思考を巡らせていると、振り返った少女は一歩こちらへ歩み寄ってきた。影になっている路地裏から全身が出てくる。夕陽が少女を包み込み、ただでさえ赤い姿がさらに紅く染められる。


「ようやく会えましたね」


場にそぐわない、安堵の混じる声が路地裏に響く。それが少女の声で、そして俺に向けられたものだとはすぐには理解できなかった。声が少女から発せられたものだと気付いてからも、言葉の意味がわからずにさらに困惑する。言葉の真意を必死に考える俺をよそに、少女はさらにもう一歩こちらへ……もう、あと数歩で手の届く位置までやってくる。そして──


「──お迎えにあがりました、マザー」


 金の瞳を潤ませて、穏やかな微笑みを浮かべながら、その怪物は俺をマザーと呼んだ。


 聞きなれない呼び方のはずだ。それでもその声に呼応するように、もう一度頭の奥が響くようにズキリと痛んだ。知らないはずのその名前に、目の前にある危機とは別の焦燥感が呼び起こされる。血が熱を持ち、灼熱になって全身を駆け巡っている。さっきから早鐘のように打ち続けていた鼓動はさらに強く速くなっていた。


 頭の痛みに顔をしかめた俺を見て、少女はゆっくりとこちらに近づいてくる。歓喜の微笑。不安を孕んだ瞳。差し出された血染めの指先。それを目の端に入れながら、改めて思った。


──ああ畜生。本当に、なんでこんなことになったんだっけ……?


 その答えを求めて、俺は昨日のことを走馬灯のように思い返していた。


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