ポイントカード

増田朋美

ポイントカード

今日はもう立秋が過ぎて、手紙には暑中見舞いではなくて、残暑見舞いと書く季節なのだった。まだまだ猛暑で暑いけど、季節は、確実に変わり続けている。季節が変わっていくということは、同時に、人間関係も変わっていくということになる。多分、すべてのものは必ず変わっていくと思う。だけど、それについていけないのは、人間というもの。何故か、昔のほうがよかったとか、そういうことを言ってカッコつけている人が多すぎる。まあ、今の時代、昔が良かったと思い続ける人にとっては、苦痛そのものなのだろう。人と言うのは、人になにか言わないと、やっていけない動物だから、そういうことを漏らすのである。そして同時に、それによって、ものすごい喜びを得ることもあるが、人によっては、大変な苦痛を生み出すものになるということに気が付かない。もう少し、人がそこに気がつく能力というものがあったら、世の中どんなに楽だろうと思うのであるが。

その日、阿部くんのライ麦パンのパン屋さんに、一人の客がやってきた。まだ、30代なかばの若い女性のはず、なのだが、もう疲れ切って、生きるのは嫌だという顔をしている。

「はい、いらっしゃいませ。なにかパンがご入用でございますか?」

阿部くんは、いつもどおりお客さんをむかえた。

「はい。ライ麦の食パンとかありますか?」

「そうですねえ、食パンというカテゴリーは、ドイツパンの場合当てはまりませんが、それに近い形状をしているパンですと、プンパニッケルとか、そういうものですね。」

阿部くんがそう答えると、彼女は嬉しそうな顔をして、

「ありがとうございます。じゃあ、それを、一切れいただけませんか。お幾らですか?」

と言った。そして、売りだなを、しげしげと興味深そうに眺めている。

「なにか、パンに興味でもあるんですか?」

と、阿部くんが声をかけると、

「こちらのパンは、みんな色が濃いんですね。あの、アルプスの少女ハイジに出てきた、黒パンというものでしょうか?日頃から、白パンに馴染んで居る私は、なんか、興味があるんです。」

と、彼女はとてもうれしそうな顔をした。

「じゃあ、プンパニッケルだけではなくて、他のパンも買っていかれたらいかがですか?」

阿部くんがまたいうと、

「ええ。でも、今日は、プンパニッケル一切れだけにします。」

そういう彼女に、阿部くんは一切れサービスしましょうかといったが、彼女は、それは結構ですといった。その言い方が、なにかわけがあるのではないかという感じの言い方だったので、

「そうなんですか。まあ、お客さんのことを、何でも聞いてしまうわけではないですけど、パンを楽しんでください。パンなんて、スーパーマーケットでも買えますよね。それなのに、こうしてドイツパン専門のパン屋さんへ来るわけですから、皆さんなにか事情があるんだなと思いますよ。」

と、できるだけ彼女の話を否定しないように、彼女に言った。

「ありがとうございます。実は、今日こちらに覗いましたのは、自分の時間というか、そういうのを持ちたかったためでして。」

そう話し始める彼女に、阿部くんはやっぱりわけがあるんだなと思った。

「自分だけの時間?」

と、阿部くんが聞くと、

「ええ、うちの家族は、何でも家族間で共有しないと、だめな家族なんです。なにかもらったり、買ってきたりしたら、絶対一人で独占することは許されないんです。母はそれが特にひどくて、居るようでいない父に、お酒くれたり、自分がもらった食べ物をまるで貢物みたいに差し出して。どうしても、自分一人で楽しく食べるとか、そういうことはできないんです。おまけに最近、父が職場を変わって、家に居ることが多くなったんですけど、父は、家のことは一切しない人で、お金を作って来るような役目しか無くて。私の事なんて、きっと要らないとでも思っているんじゃないかな。だから、もう私も、生きてなくてもいいと思うことにしました。あの人達は、一生懸命私を育ててくれたかもしれないけど、本当に欲しいものは、手に入らないんですよ。」

彼女は早口に言った。

「こんなに私だけが辛いのに、なんで、私の話を聞いてくれる人はいないのかなって思いました。すごく今、寂しいです。なんでも共有じゃなくて、私のはなしを聞いてほしかったですけど、、、。逆を言えば家は、誰かの許可をもらわないとなにもできないんですよ。みんな、そういうことなんです。だから、一人で頑張ろうとか、そういうことは全然無いんです。だから、私だけが余計に辛くなって。もう、居るようでいない人たちの相手をするのは、正直、疲れてしまいました。だから、誰も食べないような食べ物を食べて、私だけが楽しめる時間を作りたくて、今日やって来ました。」

「そうですか。そんな形でパンを食べてくれる人が現れるとは思いもしませんでした。僕が言うのも難ですが、ずっと辛いのは続いていくと思いますけど、でも、時々、ここで息抜きをして、無理をしないで過ごしてください。いいんですよ。うちは、ワケアリの人ばっかりだから。食物アレルギーのある子供さんをお持ちのお母さんとか、あるいは発達障害などで、パンを食べられない子供さんとか、いろんな人がここに来ます。あなたもその一人として、お客さんとして、心から歓迎いたしますよ。」

阿部くんは、にこやかに笑った。

「あ、ありがとうございます。あたしの事、甘えるなとか、馬鹿だとか、そういうことはいいませんか?」

彼女がそう聞いてくるので、阿部くんは、

「ええ、だってお辛いことはお辛いのだし、それは誰が表現しても変えられませんよね。」

と優しく言った。こういう人は、たとえそれが理不尽な理由とか、辻褄があっていないとしても、まずはじめにそれに着いて、良い悪いの判断を付けてはいけないことを、阿部くんはお客さんと接して知っていた。

「よろしかったらまたライ麦のパンを食べに来てください。ご自分の時間を作りたいと思ったら、店に来てください。店は、営業時間内であればいつでもやっていますし、定休日も特に設けてはいませんので。」

「そうですか。ありがとうございます。なんだか、嫌だ嫌だと言っているのに、それが実現してしまうとなんだか申し訳ない気がしてしまうのですが、そんな事を言ってくれて嬉しいです。」

彼女は、にこやかに笑った。

「わかりました。じゃあ、ポイントカードでも作っておきましょうか。有効期限はございません。パンを一つ買われたら、スタンプが一つ付きます。それがたまったら、パンを一切れサービスいたします。よろしければ、お名前を教えていただけませんか?」

と、阿部くんが言うと、

「ありがとうございます。私は、田川と申します。田川百合子。よろしくおねがいします。」

と、彼女は名前を名乗った。田川百合子と、阿部くんはポイントカードに書き込んで、彼女に渡した。彼女、つまり田川百合子さんは、とてもうれしそうな顔をして、ありがとうございますと言って、プンパニッケルのお代を払い、パンを受け取って、店を出ていった。

「はあ、なるほど。家族となんでも共有しないと行けないのが苦痛か。贅沢な悩みと言われてしまうかもしれないが、彼女にとっては真剣な悩みなんだろうね。」

パンを買いに来た、杉ちゃんが、でかい声で言った。

「まあ、客観的に言ったら、贅沢な悩みなのかもしれないが、同級生とか、同年代の女性と比較すると、辛いのかもしれないね。今は、子供でさえプライバシーを持っていると言うし。それができない家族というのは、ある意味、時代遅れと言えるかもしれない。」

蘭は、阿部くんにパンのお金を払いながら言った。

「それで、その田川さんとか言う人、また来るかなあ?一回あってみたいなあ。そんなにいい女だった?」

杉ちゃんがそう言うと、

「杉ちゃん、売春のような冗談はよして。」

蘭が急いで止めた。

「まあ、その家独自の教育法ってのはあるのかもしれないけど、時代にあってない家族に生まれちゃうってのも、ある意味悲しい話だよね。表向きでは、恵まれて幸せなように見えるから、他人に話をすることはできないだろうし。せめて、阿部くんのパンを食べているときだけは、独占の楽しさを味わってもらおうぜ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうだねえ。なにか、大事が起きないといいんだけど、、、。」

阿部くんは心配そうに、売り台を見た。確かに彼女が言う通り、ここのパンはみんな濃い色をしている、黒パンばかりだ。それだって、一生懸命やってきた。別に訳ありの人ばかりを相手にするつもりで、店を立てたわけではないけれど、ここのパンを求めている人は、みんなつらい思いをしている人ばかりになっている。

「まあ、気にすんな。きっと、そういう女性は、頑張って生きていくよ。」

「そうだねえ。」

杉ちゃんのような、明るい人が、田川百合子さんの周りにいたら、違っていたかもしれなかった。

それから、数日後のことだった。阿部くんの店に、また客がやってきた。今度は、60歳を等に越している、中年おばさんだった。

「こんにちは、今日もロッゲンミッシュブロートを、4つほどいただけますか?」

「いつも買っていかれるのは、それですね。」

阿部くんは、おばさんに言った。

「ええ、こちらで作ってくれるドイツパンのおかげで、うちの主人も、パンを食べることができますから。それは、ありがたいことです。」

おばさんはそういうのだった。

「そうですか。ご主人は、なにか事情があるんですか?」

阿部くんが、ロッゲンミッシュブロートを、箱に詰めながらそう言うと、

「ええ、特殊な体質で、普通のパンを食べることができないんです。それで、こちらまで、こさせていただいて、小麦を使っていないパンを買うようにしています。ちょっと、ここへ来るには、電車で40分近くかかってしまうけれど、私も、気分転換になりますし。それはいいかなと思っています。」

と、おばさんは言った。

「40分もかかるんですか。そうなるとどちらからお見えになりましたか?」

阿部くんがそう言うと、

「はい。熱海市です。幸い家が熱海駅から近いので、すぐに、買いに来ることが出来るんです。」

と、おばさんは答えた。

「熱海からわざわざ来てくれるなんて、嬉しいです。こんな田舎のパン屋に足を運んでくださって。はい、お品物をどうぞ。一個、400円で、1600円になります。」

「はい、わかりました。」

おばさんは、1600円支払った。

「ありがとうございます。それでは、ポイントカードはお持ちですか?」

と阿部くんが聞くと、

「はい、持っています。なんか、自分へのご褒美みたいで、嬉しいです。」

と、おばさんは、ポイントカードを差し出した。名前の欄には、小宮山幸子と書いてある。

「じゃあ、4つ買われましたから、4ポイント差し上げます。」

阿部くんが、マス目にレ点を4つ入れた。

「ありがとうございます。また買いに来ますから、これからもよろしくおねがいしますね。じゃあ、また美味しいパンを作ってください。」

と、小宮山幸子さんは、にこやかに笑って、阿部くんの店を出ていった。なんだか、自分だけの時間を持ちたくてパンを買いに来る客と偉い対照的な客だった。商売とは、そういうものである。えらく対照的な客も相手にしなければならない。そういう事があっても、商売人は淡々と客の相手をしなければならないのだった。

また数日がたった。その間に、何人も客がやってきて、ドイツパン無いし黒パンを求めていった。みんなワケアリの人ばかりだけれど、パンを買って嬉しいと言ってくれる。阿部くんはその笑顔を頼りに、パンを販売し続けるのだった。

その日は、なんだか雨が降って、憂鬱な日だった。そういう日はあまりお客も来ないかなと思われる日であったが、パンの店阿部は、営業を続けていた。開店して数時間後、店に、見たことのある女性がやってきた。

「はい、いらっしゃいませ。ああ、こないだ、いらしてくださったお客様ですね。名前は確か、」

「田川百合子です。」

と、女性はにこやかに言った。

「ありがとうございます。今日もまたプンパニッケルがご入用ですか?」

阿部くんがそう言うと、

「はい。今日は、別のパンを食べてみたいと思って、こちらにこさせていただきました。美味しそうなパンがこちらには売ってるから。」

田川百合子さんは言った。

「どんなパンなのかは決めてないですけど、美味しいパンであれば何でもいいんです。またこっそり食べて、自分の時間を持ちたい。お願いできませんか?」

「ええ、パンを食べるということは、自由であるべきです。それでは、好きなパンをお選びください。」

と阿部くんは、にこやかに言った。彼女は、売り台にある、様々なパンを興味深そうに眺め始めた。プンパニッケルと、ロッゲンミッシュブロートばかりではない。本場ドイツでは、1000種類以上のパンがあるというのだから、ここで販売しているドイツパンはほんの一部なのだ。

「じゃあ、このフォルコンブロートにしてみようかな。」

と彼女が言うと、店のドアがギイと開いた。誰だろうと思ったら、小宮山幸子さんだった。

「いらっしゃいませ。今日はどうされましたか?なにか大変なことでもありましたか?」

阿部くんがそうきくと、幸子さんは、ちょっと、呼吸を整え、乱れた着衣を直した。その様子から、ひどく慌てている様に見える。

「なにかあったんですか?」

と阿部くんが聞くと、

「いえ、ちょっと気持ちを落ち着けたくて、それでこさせてもらいました。ここのパンを食べれば、落ち着くかなって。電車を降りて、ここへ来れるか心配だったんですけど、こさせてもらいました。」

と幸子さんはいう。彼女は続けて、

「あの、いつものロッゲンミッシュブロート、一ついただけませんか?」

と言った。阿部くんが、

「400円です。」

というと、彼女は黙って400円を差し出した。阿部くんが受け取ると、彼女は袋詰された、ロッゲンミッシュブロートを受け取った。

「ごめんなさいね。他のお客さんが来ているのに、私だけ一人取り乱してしまって。実は、今日、主人が急遽医療保護入院になりましたの。なんでも、自殺を図ったそうなんです。私、全然気が付かなかった。彼が、自殺を考えていたなんて。なんで、何も言ってくれなかったのかな。彼の大好物を、こうして買っていたから、良かったのではないかと思ってたのに。」

幸子さんは、まだ荒い息のままで言った。

「そうなんですね。ご主人、そんなにお悪かったんですか。僕も気が付きませんでした。いつも美味しそうに、買ってくださるから、それでいいのかと思ってましたよ。」

阿部くんが、彼女に同調する様に言うと、

「ええ。そうなんです。あたし、なんで気が付かなかったんだろう。彼のそばにずっといてあげたつもりだったのに。彼は、自分は孤独だ、寂しいんだと言ってました。私が、一生懸命大好物を買って、ついていてあげるんだって、示していたつもりだったのに。なんで、通じないんだろう。」

と、幸子さんは答えた。幸子さんの話を聞いて、なにか感じ取った、田川百合子さんは、

「いえ、家族なんてそんなものじゃないかな。だって、私の家族なんて、いくらこうしてほしいとか、そういうことを訴えても、何も改善しませんよ。こうしてほしいとか、ああしてほしいとか散々言いましたけど、私の気持ちが届いた事なんて一度もありません。だから、ご主人が、自分のことを放置していると考えないで、通じないで当たり前と思ったらどうですか?それで、大事なことは、こういう重大な事があったとき、そばにいてあげることじゃないでしょうか?」

と、幸子さんに言った。まだ、30代そこそこの彼女がそういうことを言うなんて、田川百合子さんは、本当に変わっているかもしれないと思われたが、阿部くんはそれを否定することもしなかった。

「そうなんでしょうか。私は、みなさんが幸せそうな顔をしているのを見て、みんな幸せに暮らしていて、うちだけ不幸なのかなといつも嘆いてました。そのなかで、ロッゲンミッシュブロートを食べてくれることが、私にとって、幸せでもあったのに。あんな形で、裏切られるとは予測もしてませんでした。」

幸子さんは、涙をこぼしてそう言うと、

「ええ、大事なことは、私がそばに居るってことをちゃんと伝えることではないかと思うんです。あなたは一人ではない、必ず私が居るって、ちゃんと示してあげてください。私の家族なんて、ひどいもんですよ。いつもは、共有共有とばかりうるさく言っているけど、肝心なときに限って、関係ないだとか、そういうこと言って、結局私は要らないぞんざいになっちゃうし。少なくとも、おばさんは、ご主人のことをそうやって思っていらっしゃるわけだから、うちの家族とは全然違うじゃないですか。うちなんてね、そういうふうに、裏切られたなんて木っ端微塵も思わないと思いますよ。」

と、田川百合子さんは、彼女に言った。それは嫌味っぽい言い方でもなく、普通の言い方だった。彼女の長所は、もしかしたら、そういう事が言えることなのかもしれない。

「大丈夫です。うちみたいに冷え切った家族にしないように、そうなる手段をおばさんは持っています。」

「そうですね。あなたも、つらい思いをしているんでしょうけど。」

小宮山幸子さんは、にこやかに笑っていった。その言い方は、何を生意気なというような口調ではなかった。田川百合子さんに、そう言われて本当にそう気がついてくれたような、そんな言い方だった。

「でも、あなたも、きっと気づくわよ。あなたのご家族は、あなたのことを、決して要らない存在だとは、思わないはずよ。それは、ちゃんとご家族に確認して見るといいわ。私だって、主人のことを、要らないなんて思ったことは一度もないわ。」

そういう幸子さんに、百合子さんは、そうですね、、、といった。まだ若いということもあり、素直になれないところもあるのだろう。

「大丈夫ですよ。お二方とも通じない様に見えるだけで、実は通じていると思います。だって、ここでパンを買うんですから。ポイントカードが動かぬ証拠です。」

阿部くんはにこやかに笑っていった。彼女たちは、お互い驚いていたようだ。でも、阿部くんの言葉を理解してくれたようで、お互いに顔を見合わせて、そうですねと言った。

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