第09話 計画的な中国大返し。

 家康が伊賀越えに四苦八苦している頃、忠兵衛たちは本能寺の変の後始末に追われていた。

 備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜だった。明智光秀は2日の未明、本能寺で織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発したが秀吉軍に捕らえられていた。

 何故、秀吉は動かなかったか。それは忠兵衛たちの調査から秀吉は光秀の謀反を確信し、多勢に無勢でその謀反は成し遂げられると言う読みが秀吉にあった。秀吉にとって謀反が実際に起こるか起こらないかだけが重要だった。


 備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退した。

 越後忠兵衛は、家康の側近である服部半蔵以外に羽柴秀吉とも事前に繋がっていた。鉄砲の製造のみならず異国との貿易に着目し、海路を用いて商いを拡張する忠兵衛と算術に重きを置く秀吉とは何かと馬が合った。

 イエズス会のルイス・フロイトと明智光秀が信長の命を狙っている。また、信長は家康の命を狙っていることを忠兵衛は秀吉に伝えていた。秀吉にしてみれば棚から牡丹餅の話だった。崇拝する信長も自らが力をつければ目の上のたん瘤。思い付きで動く信長の行く末に不安定さを感じていた計算高い秀吉が、忠兵衛の申し出を見逃すはずはなかった。

 忠兵衛は、信長亡き後の天下人に相応しいのは秀吉意外にないと持ち上げ、万が一にも光秀の謀反が行われた場合の対応を急がれるよう提案していた。秀吉にすれば必ず当たる富くじを目前にしたようなもの。外れても損はなく、当たれば天下人への道が一気に広がる絶好の機会だった。

 備前は秀吉に従っている宇喜多氏の領国であり、備中戦線に対する秀吉軍の出撃拠点だ。万一、備中戦線が危機に陥った場合、備前まで退却することは最初から織り込み済みだった。進軍時に帰路の事を考え、行程を整備しておけば、進退経路を確保できる。さらに播磨を平定し、中国方面軍司令官に任じられた秀吉は姫路を居城としており、兵糧などの物資も備蓄されていた。一旦、備前まで退却し、そこから腰兵糧(携行食糧)をもって姫路まで走れば腹を満たせる。兵を休ませ、姫路から武器・鎧を捨て身軽な状態で腰兵糧のみをもって東に向かえば、2、3日で大坂に着く。大坂には懇意の商人などがおり、武器・鎧・装備品・兵糧の調達は容易だ。これによって中国大返しと呼ばれる軍勢の急速な移動を可能にした。


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