第11話 まだそこにいる

 とことん着古したグレーの薄いスウェット上下に、煮しまった色の手ぬぐい。石鹸やシャンプーは持っていないみたいだ。可能な限り短時間でさっと浴びて出るようにしていたんだろう。体を洗うというより汚れを流すのに近いのかもしれない。まだ朝晩は寒いこの時期にそんなシャワーの使い方じゃ、体を壊してしまう。

 私と同じことを案じたんだろう。佐々山さんが静かに話しかけた。


「事情聴取はあとにします。まず湯船にお湯を張って、しっかり温まってきなさいよ。この子たちは、そんなことするなとは絶対に言わないから」


 俯いたままぶるぶる震えていた三村さんは、諦めたようにバスルームに戻って今度はゆっくりシャワーを浴び始めた。


「着ているものも替えさせなきゃ」

「あ、わたしのジャージがあります。わたしはもう着ないから使ってもらえば」


 そう言って、めーちゃんがさっと自分の部屋に走った。戻ってきた時手に持っていたのは、変装用のあの黒ジャージ。思わず苦笑してしまった。脱出時にはどうしても必要だった服だけど、めーちゃんでなくなるための道具なんかもう二度と見たくないんだろうな。気持ちはよくわかる。

 佐々山さんは、めーちゃんにまるっきり似合いそうにない変なジャージを見ても何も言わなかった。なんでそんなものをと突っ込む余裕がなかったのかもしれない。


 二十分くらいして。おずおずとバスルームのドアを開け、三村さんが顔を出した。さっきよりは少し落ち着いたかな。佐々山さんがさっと歩み寄る。


「ああ、三村さん。そんな薄着のままじゃ風邪を引いちゃう。この子がジャージを羽織ってくださいって。捨てるつもりだったから、そのまま使っていいそうよ」

「今、温かいお茶を入れますね。椅子に座ってください」


 お湯を沸かし、緑茶のティーパックで人数分のお茶を淹れる。三村さんは素直にジャージを着て椅子に座ったものの、ずっと無言で俯いたまま。トムどころの話じゃない。前沢先生に匹敵……いや、それ以上の対人恐怖症に見える。

 まあ、そうだよね。単にシャイとか人が苦手っていう程度なら、ここまで極端な行動は取らないよな。地下に部屋を作って隠れちゃうなんてさ。


 さっき事情聴取って言ったけど、佐々山さんは三村さんを問い詰めるつもりはないみたいだ。三村さんが何か言い出すまで待つってことなのかな。

 そして沈黙に耐えかねたのは私たちではなく、三村さんだった。俯いたまま、やっと聞き取れるくらいの声で私たちに聞いた。


「あの……警察に行かないと……だめですか」


 音量が小さいだけじゃない。ずっとしゃべらなかったから錆び付いてしまったみたいな、かさかさの枯れた声。同じ対人恐怖でも、トムや前沢先生、ユウちゃんとは根本的に違う。ああ、そうか。三村さんからは生気を感じないんだ。

 トムからはこだわりが、前沢先生からはプライドが、そしてユウちゃんからは感情の起伏が伝わってきた。自分の出し方が極端に下手なだけで、放出できるエネルギーは持っていた。生気が私に伝わってきた。でも、三村さんからは一切の生気を感じ取れない。本当に幽霊みたいだ。


 困ったわねえという表情で三村さんを見下ろしていた佐々山さんは、真夜中なのになぜか騒々しい窓外を指さした。


「サイレンが聞こえた?」

「……はい」

「警察が来てるのは、ここじゃない。二丁目の賃貸の人が騒動を起こしたの。お巡りさんだけでなくてパトカーまで来てるから、派手になにかやらかしたんでしょ。いくらエイプリルフールだって言っても勘弁してほしいわ」


 言葉は苦々しいけれど、佐々山さんの表情は変わらない。落ち着いた、穏やかな顔だ。


「さっき事情聴取って言ったけど、わたしたちは警察じゃないの。三村さんの事情を聞き出したって、裁くことも罰することもできないわ。事情を話す必要があるのは、本来困っているあなたの方なのよ」

「……」

「ただね、今の時点でわたしたちが知っていて、言えることが一つだけある」


 口調は強くなかった。でもその言葉には折り曲げようのない硬さがあった。


「あなたはここに住む権利を持っていない。あなたが誰からも認知されない幽霊なら別よ。でもどんなに幽霊の真似をしたって、あなたは人間なの。それなのにひどい勘違いをしている。わたしは幽霊だから大丈夫だって」


 どうしようもないという表情で、佐々山さんが力なく首を振った。


「そんなわけないでしょ。どこまでも人を避けているあなたならわかるはずよね。真っ当に暮らしている人の周りに、見知らぬ誰かの影がちらつく。それがどんなに嫌か、恐ろしいか、耐えられないか。他の誰でもない、あなたが一番わかるはずなの」

「……」


 相変わらず俯いたまま黙りこんでるけど。体が小刻みに震え始めた。泣いてるようだ。


「自分がされて嫌なことは徹底して忌避するくせに、人に恐怖を植え付けるのは平気なの? おかしくない?」

「……」

「そんな当たり前の矛盾に気がつかないくらい、あなたは自分しか見ていない。自分しか見えてないの」


 目を瞑って言葉だけを聞けば、どこまでも冷徹な糾弾。でも、佐々山さんの口調はあくまでも静かで穏やかだった。まるでニュースを読み上げるアナウンサーみたいに。

 淡々と三村さんを説教していた佐々山さんが、ふっと口をつぐんで窓の外を見る。少し前までもう一つの捕物で騒がしかった一角が、元の沈黙の闇に戻っていた。


 三村さんがすすり上げる音だけがわずかに漏れていたリビングに、無機的な電子音が響いた。


 ぴぴっ。


 それは、佐々山さんが腕につけていたスマートウオッチの時報。時刻を確かめた佐々山さんがわずかに微笑む。


「長い一日だったけど、日付が変わったわ。シンデレラの魔法は解けた。そろそろ現実をきちんと見つめないとね」


 それからゆっくり立ち上がり、隣に座っていた三村さんの肩をぽんと叩いて起立を求めた。


「さあ、休みましょ。あなたの部屋の片付けをあとで手伝います。とりあえず、今日の夜はわたしの家で休みなさい。ここの二人にこれ以上迷惑をかけちゃだめよ。わかるでしょう?」

「……」


 三村さんは提案を受け入れるしかない。歪んだ隠遁生活は誰かに見つかった時点で破綻する。そんなこと、最初からわかっていたはずだ。警察沙汰になっていない分だけましだと思う。エイプリルフールの冗談はもうおしまいだよ。


 力なく立ち上がった三村さんは、佐々山さんに促されてシェアハウスを出た。結局、警察に行かないとだめかという一言以外は何も言わないままで。


◇ ◇ ◇


「幽霊探しも大団円、か」

「勘弁してほしいよう」


 テーブルの上にべったり上体を投げ出しためーちゃんが、疲れ果てた口調でぼやいた。ただ……私はどうしても解せなかったんだ。幽霊は本当に三村さんだったんだろうかと。

 急に黙り込んでしまった私を見て、めーちゃんが慌てて体を起こした。


「どうしたの?」

「いや、どうしてもわからない。結局のところ、どうして三村さんはこの家に激しく執着したんだろう」

「あ!」

「お金がないということだけなら、もっと早くから安く借りられるアパートに行くよね。少なくともオーナーが代わった時点で」

「そうだ。確かにそうだ!」

「経済的な事情以外に、この家に執着する理由が何かあるはず。それがどうしてもわからない」

「うーん……」


 腕組みして考え込むめーちゃんに、私の推論をぶつけてみる。


「私には、その理由が『人』だとしか思えないの」

「ひ、ひとぉ?」


 わかりやすいので、前沢先生の例を出す。


「私の前のシェアメイトだった前沢先生は、こてこての対人恐怖症、かつコミュ障だった。三村さんによく似てる」

「うん」

「でも、だから一人がいいって話にはならないんだよね」

「どうして?」

「コミュニケーションに難があればあるほど、一人では生きていけなくなる。だから私のシェアの申し出を飲んだんだ。私が鶏小屋を脱出した時の店長の役回りが、先生の場合は私だった。最低一人は理解者がいないと……」

「理解者、かあ」


 人が苦手な人ほど、理解者がいないと生きていけない。小さな自我の囲いの中を出入りできる人が、どうしても一人は要るんだ。

 前沢先生にとって、最善の理解者は両親だったはず。でも、自立を求められて実家から放逐された時点で理解者が消えた。孤立の恐怖に耐えられなくなったからこそ、まだよたよただった私に倒れ込んできた。私が理解者になり得ないと知りながらも、独りに耐えられなかったんだ。トムだってそうだよね。


 人前に出たくない、人に会いたくない。そういう動機で隠れようとする心理はわかる。でも、隠れてしまえば誰の手も届かなくなって、孤独が極限に近くなる。一人の理解者もいないまま生きていくことなんて、絶対に不可能だと思う。だとすれば、三村さんがこの家にこだわった理由がそこらへんにあるような気がしたんだ。


 でも、めーちゃんは納得していなかった。


「理解者が必要?」

「え?」

「一人でも理解者がいたら、ここまで崩れてないと思う。さっきルイが言ったみたいに、ただ『人』であればよかったんじゃないかなあ」

「あ、そうか。人の気配があれば寂しくないってことか」


 人である必要はない。気配だけあればいい。そういう考え方もあるのか。ロダンの考える人みたいなポーズを取っためーちゃんが、ゆるっと首を捻る。


「だけどさあ。この家にこだわる理由にはならないよねー。借りてくれる人が現れない限りこの家は無人だもん」

「しかも三村さんが潜ってからは、借りた人が怖がって逃げ出しちゃってるからなあ」

「寂しいからここに居てっていうより、関係ないやつは出ていけみたいな。むしろ排他のニュアンスを感じるの」

「確かにそうだ」


 人の気配……気配……か。私は、これまで感じていた気配を三村さんだと思い込んでいた。本当にそれは三村さんだったんだろうか。三村さんが必要最小限しか『上』に来ないなら、岡田さんが頭を抱えるほどの幽霊騒ぎにはならないはず。


「まだそこにいる、のかもしれない」

「え?」


 ぎょっとしたようにめーちゃんが私を凝視する。


「さっき。三村さんを待ち伏せしている間に、何かがリビングを横切ったんだ」

「……」


 めーちゃんが、ざあっと青ざめた。


「そ、それって」

「でもね。どうも幽霊っていうのとは違う。何か、気配のような」


 論より証拠。試してみよう。リビングの明かりを消して、部屋を真っ暗にする。椅子に戻って気配を探った。いや、探るまでもなかった。はすぐにお出ましになった。腰を抜かしためーちゃんが、手をでたらめに振り回す。


「で、でーででで、でででででー」

「出たね」


 うっすらとはしているけど。それはまさに幽霊だった。若い女性の幽霊。しきりになにかを探して、リビングをふらふら歩き回っている。


「足、あるじゃん」


 しばし呆然としていためーちゃんが、開口一番のたもうた。見るとこそこ? ……みたいな。


「てかさ、めーちゃん。おかしくない? あの幽霊、私たちにちっと関心を示さないの。何か探してるっぽいけど、私たちは全く目に入ってないよ」

「……そうだ」


 さっきまで恐怖のどん底に落ちていためーちゃんが、冷静な観察者に戻った。そして、私より先にあることに気づいた。


「ねえ、ルイ。この幽霊の顔に見覚えがある」

「あ」


 言われてみればそうだ。誰かに似ている。似ているというか、本人そのものみたいな。


「三村さん、だよな。若いけど」

「分裂した?」


 めーちゃんの思いつきはとんでもないけど、あながち外れでもないような気がした。


「さっき私が言った、理解者。誰にでも一人だけは必ず理解者がいるんだよね」

「自分自身でしょ?」

「そう。だけど自我っていうのは揺らぐものだと思う。私は今でも揺らいでる」

「……」

「つまり自分自身は、理解者であっても一緒に揺れてしまうんだ。三村さんのそういう姿が、あんな風に見えるのかな」


 眉根にくっきり深い皺を寄せてじっと考え込んでいためーちゃんが、ぼそっと言った。


「思い出した」

「何を?」

「源氏物語の中に、六条ろくじょうの御息所みやすどころっていう女性が出てくる。恋敵の葵の上に祟る生霊いきりょうぬしなの」

「生霊! 生きながら……か」

「うん。すごくかわいそうだとは思うけど、人の強い想いって時々肉体に収まりきらなくなるのかなって」

「三村さんの場合は、その想いがもう一人の自分に凝ったっていうことかな」

「どうなんだろ。わからないけど」


 ふわふわと部屋の中を歩き回る白い影。めーちゃんは、物憂げに幽霊を見つめ続けた。

 三村さんが心穏やかな時には出てこない。孤独に苛まれている時、幽霊として現れる。明るい時には見えないから、ただの気配になるってことかな。でも、どうもしっくりこない。めーちゃんも同じみたいだ。


「三村さんがこの家に執着したのは、幽霊と一緒にいられたから? いや、なんか違うんだよなー」

「うん。三村さんには幽霊が……もう一人の彼女が見えてないと思う。もし見えたら、彼女はここにいないよー。あの幽霊の姿は、三村さんが絶対に見たくないものだもん」

「そうなの?」


 はあああっ。めーちゃんの溜息はどこまでも深かった。


「自分が幽閉されていた時の姿を、こんな風に目の前に映し出されたらどう思う?」


 一瞬で血の気が引いた。絶対に! 絶対に耐えられない。そんなのは欠片かけらも見たくない!


「冗談じゃない」

「でしょ? だから、三村さんは気配だけあればよかったんじゃないかな。誰かが側にいてくれる気配だけ。精神安定剤みたいなもの?」

「うーん……」


 若い頃。まだ多感とか心が幼いという免罪符の後ろに何もかも押し付けることができた頃。三村さんは、そこで自分自身を軌道修正できなかった。人との接点を全く増やせないまま、ずるずると独りの生活を続けてしまった。あの頃に戻ってやり直せたら……そういう後悔が若い頃の姿に造形されているのかもしれない。


 ゆっくり立ち上がっためーちゃんは、リビングの明かりを点けて戻ってきた。


「まだそこにいる、けど。わたしたちは何もできないし、彼女もわたしたちには何もしないと思う。慣れるしかないね」

「そうかな。三村さんがここを離れたから、幽霊は自然に消えるような気がする」

「消える?」

「うん。気配とか幽霊っていうのは三村さんではなく、この家自体かもしれないと思ってさ」

「……」


 三村さんは、生き霊を作り出せるほどのエネルギーを持っていない。それより、この家の憑座よりましになったと考えた方が自然なんだ。三村さんがこの家に執着したんじゃなく、この家が彼女を引き止めたんじゃないかな。お願い、行かないでって。


「この家自体が人としての気配を持っているとすれば。三村さんが一番安心できる場所はここしかない。きっと、寂しい者同士で寄り掛かりあったんだよ」


 わずかに苦笑いしためーちゃんが、ふわあっとでかいあくびをぶちかました。


「そういうことにしときましょ。もう休まなきゃ。明日はバイトだし」

「あ、そうだ。朝一からだよな」

「うん。わたしたちまで幽霊になるわけにはいかないもの」


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