第10話 深夜の捕物
捕物と言ったって、縄も物騒なものもいらない。三村さんがバスルームに入るのを待って、部屋の灯りをつけて待ち構えるだけでいい。ただ、待ち伏せを覚られると入室前に逃げられてしまう恐れがある。出入り口がありそうなかつての縁側の上を避け、その手前にダンボールで目隠しを作った。部屋が明るい時は怪しさ大爆発なんだけど、真っ暗闇なら気配を隠せる。
「なんか、ホームレスみたいだ。とほほ」
自分でこしらえて言うのもなんだけど、情けないにもほどがある。でも、佐々山さんは笑わなかった。
「実際に、こうやって自分を小さく囲って寒風を耐え凌いでいる人がいるのよ。どんなにお粗末に見えても、彼らにとっては間違いなく家ね。きっと……三村さんもそうなんでしょう」
めーちゃんも、ダンボールの粗末な囲いをじっと見つめている。眼差しは真剣だ。
「わたしね。実家でルイに言われたんです」
「なんて?」
「わたしの部屋は繭だって」
「素晴らしいたとえね」
佐々山さんが振り返って、今は闇の中に沈んでいる屋敷に目をやった。
「幼虫の間は家で養われる。安全で快適だけど、親から与えられた空間だから自分の好きにはできない。オリジナルの世界が欲しければ成虫になって繭を破り、外の世界に飛び出さなければならない。そういうことね」
「はい。そして今、外に出てみて強く思うんです。自分の世界の大きさをどう考えればいいんだろうって」
ああ……そうなんだよね。私とめーちゃん。与えられていた世界の広さに少しだけ違いはあっても、ものすごく狭かったというところは同じなんだ。
幽閉に耐え切るためには、どう脱出するかを考える以前に、自分が壊れないよう鎧をきっちり着込んで自我を守らなければならなかった。それでなくても小さな世界の中でさらに小さく自分を囲い込んだから、世界を確かめるための手足が縮んでしまったんだ。
せっかく広い世界に飛び出したのに、自分で立てた障壁が視界を制限しちゃう。だから……触れている外界にまだ十分なリアリティがない。どこまでが手の届く範囲で、どこから届かなくなるのかがよくわからない。
多くの子は、家というシェルターから少しずつ手の届く範囲を広げて、無理なく世界を広げていけるのだろう。私とめーちゃんはそこがひどく歪んでいる。
ぽそぽそとダンボールの囲いを手のひらで叩いた佐々山さんが、小さく苦笑した。
「そうねえ。自分の世界の広さはわたしにもわからないわ。ただ……」
笑みが柔らかく解れる。
「伸び縮みするものだというのは確かね。広げようとしただけ広がる。何もしなければ縮む」
それから。どこかに潜んでいる三村さんに聞かせるようにして、はっきりと言い切った。
「わたしの世界が、今日というたった一日でこんなにも広がったようにね」
◇ ◇ ◇
佐々山さんは午後九時過ぎに屋敷に戻ったけれど、こっそり言い残していった。
「十時過ぎにこっちに来るわ。三村さんはあなたたちと交流がない。咎められてパニック状態になると、不測の事態が起こりかねないの。わたしは彼女と面識がある。ご対面の時にわたしがいた方がいいでしょ」
「助かります! じゃあ、矢口さんの部屋で待機していただけますか」
「そうね。三村さんがバスルームに入った時点で、メッセージをちょうだい。三人でお出迎えしましょ」
「お出迎えですかー」
めーちゃんが、笑っていいのかどうかという微妙な表情で頷いた。
めーちゃんは佐々山さんとの相性が良さそうだ。お花見の時みたいにブンガクネタでいろいろな話ができるからね。待機中に話題が尽きて気まずくなっちゃうことはないだろう。
佐々山さんが屋敷に戻っている間に夕食にする。さすがに今日は夕食を作る気にもならないし、買い出しで家を空ける気もしない。備蓄のカップ麺が早速お出ましだ。こんな理由で備蓄に手を出すことになるとは思わなかったなあ。
「とんでもないエイプリルフールになりそうだね」
げんなり声でぼやいためーちゃんが、カップ麺のスープをすすった。
「いわく付き物件のいわくが取れそうなのなのは嬉しいけど、こういうのはちょっとね。アフターが絡むから、幽霊っていうのは冗談でしたーあっはっはじゃ済まないよなあ」
「うん……。で、佐々山さん、どうするつもりなのかな」
「わからない。捕物は静かに終わりそうだけど、そのあとの予測が全くつかないんだよね」
私も、残っていたスープを飲み切って。ほっと息をつく。二人揃ってもやもやしていたところに、さっき屋敷に戻ったはずの佐々山さんが緊張した様子で走り込んできた。
「あれ? どうしたんですか?」
「……」
佐々山さんが差し出したスマホには、岡田さんからのメッセージが。
『奥野の家は完全に封鎖してしまったので、あいつには行くところがありません。封鎖を無視して住んでいた家に入ろうとすると予測していますが、逆上して佐々山さんのところに怒鳴り込もうとする可能性もあります。しっかり戸締りし、できれば小賀野さんたちのシェアハウスに避難していてください』
「あっちもこっちも、かあ」
「かなわないわ」
「ですよね」
「上がってくださいー」
「ごめんね」
「いえいえ、佐々山さんにはすっかりお世話になっているので」
リビングに漏れる溜息の音は二つから三つになった。いくらエイプリルフールだって言っても、ここまでえげつない嘘や冗談はいらない。どうしてもしかめ面になってしまう。
「うう……こういうのも含めて現実。外の世界ってことなんだよね」
めーちゃんの嘆きが弱々しく響いた。
「まあ、そうなんだけどさ」
私の感想は少し違う。緊張感で言ったら、レンタルカレシの時の方が比べ物にならないくらい大きかった。私には最初のインパクトが大きかった分、免疫ができたんだろう。
「めーちゃんの場合、脱出直後が天国だった。だから舞い上がった天上界から少し降りただけで、見えるものがくすんで感じる。それだけだと思うよ」
「えー? ルイは違うの?」
「私の時はそんなに甘くなかったよ。外に出た途端に大嵐だもん」
「……何があったの?」
「最初に出会った現実が、わいじーだったからね」
「うわあ」
信じられないという顔で、めーちゃんがのけぞった。
めーちゃんは、レンタルショップで柳谷さんが丈二さんと激しくやり合ったことを鮮明に覚えているはず。体格差があるのに怯えることなく、したたかにギャラリーを味方につけ、どこまでも筋論を押し通して相手を追い込んでいく。真正面から相手にするのがものすごく大変な人だ。
私がなんとか柳谷さんをあしらえたのは、植田さんのカウンセリングを通して心理戦に慣れていたこともあるけど、何より時間制限があったからだ。もしリミットなしの舌戦だったらひたすら逃げるしかなかったかもしれない。最初のハードルが一番高かった分、そのあとはだんだん慣れて楽になったんだ。
めーちゃんの場合は逆。世界全部が敵になるはずだったのに、私、岡田さん、店長とサポーターがどんどん増えて、最後は松橋さんという最強のナイトが付いた。私以外のサポーターが引いたことで、急に現実の黒さが目に付くようになったんだろう。
そうさ。不安という名の幽霊はいなかったんじゃない。最初からずっといた。幸福感の陰に隠れていたから気づかなかっただけだよ。
「さて。迎撃体制を取ります。めーちゃんと佐々山さんは部屋での待機をお願いします」
「わかったー」
「お世話になりますね」
スマホを出して、二人にかざす。
「幽霊がバスルームに入った時点でメッセを流します」
「了解!」
二人が部屋に引き上げて、リビングが静まる。
「うーん……」
テレビは要らないって言ったけど、こういう時は何か生活音を出す物体があった方がいいんだよあ。今後の検討課題にしよう。
「さて、と」
灯りを消して待ち伏せするまでには少し時間があった。その間にテーブルの上でトゥドゥノートを広げて、対応済みの部分に赤線を引いていく。
今日一日で、大きな進展がいくつもあった。魚住さんというご近所さんが増えた。自治会参加を決めた。ゴミ処理に目処が立ち、佐々山さんの庭の干し場を使わせてもらえることになった。
佐々山さんには、茶論セピアという交流場を教えてもらった。そこのマスターに座卓をなんとかしてもらえそうだ。
「佐々山さんじゃないけど、まさに一日でぱあっと世界が広がった感じだなあ。これで幽霊が人に戻ってくれれば最高なんだけど……」
まあ。私一人でどうにかする話ではない。きっとなんとかなるだろう。
「あとは入学式前に一度大学構内を下見して、荻野にはないお店屋さんを探しておく、だな」
メモ帳の上にシャーペンを置いて考え込む。まだ……ちっとも実感が伴わない。合格が決まった時の方がずっとリアリティがあった。前沢先生とのシェア解消っていうアクシデントがあったにせよ、大学生活に向けての地ならしは着々と進んでいる。もっとわくわく感があってもいいはずなのに、いつまでも足元がふわふわしていて、思考が現実に着地してくれない。
鶏小屋を出てから学生としての新たな日々が始まる間のクレバスに、いつの間にか落ち込んでしまっている。前も後ろも現実との間が切れていて、ものすごく狭い隙間から悄然と空を見上げているような。ぽつんと、一人きりで立ちすくんでいるような。
「ふううっ」
さっきめーちゃんが言った、自分の世界の大きさ。そうさ、ひとごとなんかじゃない。私だってわからないんだ。どこまでが現実でどこからが彼岸なのかがちっともわからない。だから……自分は幽霊じゃないのかって疑ってしまうんだ。実体も存在感もない、幽霊じゃないのかって。
望まない孤立が現実世界になってしまい、すがるように私にアクセスしてきたトム、ユウちゃん、前沢先生。きっと……私が今感じている不安も彼らと同じ種類の焦燥なんだろう。自分が誰からも見えない、見てもらえないんじゃないか。そういう焦り。
「だめだあ。考えがどんどんネガに落ちるー」
今日広がった世界のように。手を伸ばせば届くところに、いくらでもカラフルな現実はある。自分で巡らせてしまったしょうもない障壁のせいでよく見えない部分はあるけれど、それなら見える位置に動けばいいだけ。自縄自縛を克服しない限り、私は幽霊のままだよね。
「桜にすら負けてるようじゃ、情けないよな」
一つずつ。手の届くところを現実に変えていくしかない。だからまず、捕物を成功させよう。
スマホで午後十一時を過ぎたことを確認し、リビングの灯りを消して廊下に出る。自室のドアを一度開け閉めして出入りを偽装し、半開きにしてあったリビングのドアをこっそり開けてスマホのライトを頼りにカーゴスペースの手前に行く。しゃがんで段ボールの壁に身を隠し、ライトを消して、と。あとは三村さんの登場を待つだけ。
怖さは全くなかった。ただ……どうしようもなく悲しかった。私が出たくても出られなかった忌まわしい鶏小屋を、自らこしらえて立てこもってしまう三村さんが。どうしようもなく悲しかった。
と、私が待ち伏せを初めて五分もしないうちに気配を感じた。
「あれ?」
ずいぶん早い……というか早すぎるような。それに全く音がしない。ほの白い人の気配が一瞬現れてリビングを横切った。
「リビング? バスルームじゃなく?」
戸惑っていたら、そのあとすぐに床板を持ち上げるぎっという軋み音がした。小柄な人影がのろのろと体を床の上に持ち上げ、抜き足差し足でバスルームに。音を立てないようそうっとドアを開けた人影は、バスルームの灯りをつけず中に滑り込んでいった。
「捕獲、と」
今か今かと待ち構えているであろう二人にメッセを流す。
『バスルームに入りました』
ここまで来れば、もう息を潜める必要はない。段ボールの壁を片付け、リビングの灯りをつけて二人を招き入れる。
ほぼ同時に、少し離れたところから賑やかなパトカーのサイレンが響き始めた。やれやれという表情で佐々山さんがスマホを掲げた。
「やっぱりかつての家に侵入を図ったみたいね。住居侵入の現行犯で捕まったって。うちに跳ねなくてほっとしたわ」
向こうは派手な捕物になったのかもしれない。それより、こっちのけりをつけなきゃ。
いつの間にかリビングに灯りと人の気配が充満していて、出るに出られなくなったんだろう。ドアの前で立ちすくんでいる人影が一つ。その人に向かって、佐々山さんが声をかけた。
「三村さんでしょ。もう無理だってば。出てきなさい」
果たして。濡れ髪もそのままにこそっとドアを開けたのは、ものすごく貧相な痩せこけたおばさん……三村さん本人だった。
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