後章終話 桜と幽霊
一夜明けて。とんでもないことがあった割にはすっきり目覚めた。何があっても新しい日は始まり、私とめーちゃんを日常に駆り立てていく。早々にバイトに出かけて、朝から晩までびっしり働いた。その流れには幽霊も何も入り込めない。
時間があったら店長に幽霊騒動のことを話したかったけど、とてもそんな余裕はなかった。二人ともへろへろになってシェアハウスに戻ったら、入り口で岡田さんが待ち構えていた。
「岡田さん! どうしたんですか?」
「佐々山さんから顛末を聞いたんだ。留守中に申し訳なかったが、急ぎだったので合鍵で中に入らせてもらった」
あっと思ってスマホをチェックしたら、岡田さんからちゃんと「入らせてくれ」っていう打診が入ってた。忙しくて確認できなかったんだよね。事態が事態だから仕方ない。
「さっきまで、三村さんの潜んでいた軒下の部屋を三人で確かめてたんだ。厄介なことになる前にさっさと撤去して出入り口を塞がないとならない。その前に地下部屋を二人に見せておこうと思ってな」
「中のものは?」
「もう搬出した。家財と言えるようなものはほとんどない。ミニマムだ」
鍵を開けて中に入り、一番奥のカーゴスペースに直行する。バスルームに一番近い床板が不自然に少しだけ浮いていた。屈んだ岡田さんが、床板をゆっくり持ち上げる。現れた穴の奥は明かりがないから真っ暗だ。
スマホのライトを頼りに中を照らしてみる。三畳くらいのスペースだろうか。白い樹脂ボードが立て並べられていて、床にも同じ樹脂ボードが敷き詰められている。一応は部屋の体裁だけど……寒々しいくらいに生活感がない。ただの囲われた空間。
「奥側が昔の防空壕に繋がっている。いくつか枝線が出ているんだが、ほとんどは崩落していて通れない。スーパーの器具倉庫の下に通っているやつだけが生きててな。そこが出口さ」
「鍵のかかってる倉庫から出られるんですか?」
「倉庫の真下じゃなく、裏に小さな押し上げ戸があるんだ。朽ちた看板で偽装してあった」
「そっかあ」
「まあ、終わったことさ。ここを塞げば、厄介ごとは全部消える。お祓いは終わりだ」
「それなんですけど……」
あっさり蓋を元に戻した岡田さんが蓋の周囲をガムテで目張りするのを待って、声をかけた。
「ん?」
「幽霊イコール三村さんではなかったんですよ。幽霊は本当に出ました」
「見たのか」
「見ました。はっきりと」
めーちゃんと揃って頷く。幽霊が出たのは佐々山さんと三村さんが帰ったあとだから、その二人は知らないんだよね。
一転して黙り込んでしまった岡田さんに、もう少し詳しく説明した。幽霊が若い三村さんの姿であること。ずっと何かを探しているように見えること。幽霊には私たちが見えていないこと。
「うーん……」
「三村さんも、幽霊がこの家にいることは知らないんじゃないかなあ」
「確かにな。『上』で暮らしている時には出なかった。『下』に行ってから出るようになった、か」
「私が思うには、ですけど。この家自体がずっと何かを探しているように感じるんです。めーちゃんが座敷わらしと言った時にはあほかと思ったんですけど、ありえない話じゃないなあって」
「座敷わらしではないよ。ここは神様がお出ましになるほど古めかしくないからね。ただ」
ゆっくり腕を組んだ岡田さんが、ひどく顔をしかめた。
「極め付けの事故物件になってしまったということなんだろうな」
そのあと岡田さんが明かしてくれたのは、とても意外な家の過去だった。
◇ ◇ ◇
「この家の最初のオーナーは、もちろんこの家に住んでいた人だ。
「独り住まいだったんですか?」
「そうなった」
岡田さんの表情は険しい。
「確かに菅野さんは温厚な人だったが、温厚な人イコールいい人ではないんだ」
「は?」
「とても残念な人だよ。馬鹿なことをしでかして自爆している」
「じ、じばくぅ?」
岡田さんの物騒なたとえに怯えて、めーちゃんの顔が引きつる。
「自分の人生を自分で壊してしまったのさ」
「なにを……したんですかー?」
「浮気だよ。奥さん子供がいるのに、よそに女を囲ったんだ。普通の会社員に二重生活なんかできるはずがない。切羽詰まって会社の金を使い込んだ。たいした額ではなかったらしいが、犯罪は犯罪だ。会社はクビになり、前科がつき、裏切りを許さなかった奥さんと息子さんはこの家を出た」
「じゃあ、お金に困って土地を切り売りしたってことですか」
私がリビングの壁を指さしたら、岡田さんが即座に認めた。
「そう。囲っていた女にも逃げられ、独りになった。この家は稼ぎが細った菅野さんにとっての最後の拠り所だが、ここには住めない」
「どうしてですかー?」
「誰からも軽蔑されるからだよ。家族で住んでいたなら、必ず近所付き合いがある。やらかしたことは全部周囲に筒抜けさ」
「うー、そっかあ」
「だから家を出て、ここを他の人に貸すことにしたんだろう。仲介業者を挟んだから、貸す相手は選べない。たまたま借りることになったのが三村さんだったんだ」
大きな溜息をついた岡田さんが、カーゴスペースに目を向ける。
「菅野さんはこの家から逃げ出した。三村さんは逆だ。この家にしか自分の居場所がなかった。家は家だよ。ただの箱に過ぎない。なのに、二人はここをエゴと後悔でどうしようもなく
自分の中に溜まり続けていた汚物を吐き出すかのように、告発が続いた。
「温厚でうるさいことを言わない大家と、面倒なリクエストをせず大事に家を使う住人。外見的には相性ぴったりだったろうな。だが、それは違う」
「違うんですか?」
めーちゃんが目をまん丸にして、驚いている。
「違うよ。菅野さんは温厚なんじゃない。年を重ねていくうちに錆びたんだよ。欲が干上がって、投げやりになったんだ。三村さんも似たようなものだな。最初住み始めた頃はまだ若かったから、ここは意味のある家だったはず。だが、彼女も年を重ねていく間に錆びた。ずっと家に閉じこもっていたいが、そうすると家賃が払えなくなるから仕方なく働く。本末転倒になってしまった」
「家がくすんだんですね」
「そう。古びていく家に刻まれるのは挫折、後悔、諦め、投げやり……そんな汚いものばかりだ。家としての存在価値をどんどん失っていったのさ」
岡田さんが悲しそうに呟く。
「幽霊がなにか探しているように見えるとしたら、それは違うと思う。この家は、自分を穢し続ける三村さんにどうしても出て行ってもらいたかったんだろう」
そういう解釈もあるのか……。
「だが、肝心の三村さんが
「あの、岡田さん」
どうしても拭い去れない疑念について聞いてみる。
「ずっと同じ家にいるんですから、幽霊が三村さんにアプローチする機会はいくらでもありますよね。それなのに気づかないわけないと思うんですけど」
「そうはいかない。家守は本来住人の前に姿を見せないんだよ。三村さんが退職後に家を離れるのを知っていて、それまでの辛抱だと我慢していたんだろう。だが、三村さんは地下に隠れ住んだ」
岡田さんの指が、すうっとカーゴスペースに向けられた。
「地下には防空壕がある。戦時中いろいろあったはずだから、地下は
「魑魅魍魎……」
めーちゃんと二人揃って、今度こそ真っ青になった。怖くて歯の根が合わなくなる。かちかちかち。
「死者の領域に入り込まなきゃ大丈夫だよ。穴は俺が全部塞いでおく。君らは真っ当な住人だから、家守は安心すると思うよ」
ううう、岡田さんもあっさり言ってくれるよ。てか、岡田さんて一体何者なの? 祟られてるベンツに平然と乗ってるし。謎が多すぎるわ。
「さて。向こうも一応の片がついたし。これで少しのんびりできるかな」
「向こう……奥野っていうおっさんの件ですか?」
「そう」
立ち上がった岡田さんが、ジャケットのポケットをまさぐりながらぼそぼそと愚痴った。
「無理やり元の家に戻ろうとして不法侵入する。そこまでは読んでいた。だが、放火しようってのは予想外だよ」
「ほうかあっ?」
絶句。だからパトカーが何台も来る騒ぎになったってことか。それにしても、なんでまた放火なんて。
「住めないなら焼けてなくなっちまえ。そう思ったんだろうな」
「げーっ」
「あいつも三村さんと同じさ。家にしがみついた。そこにしか居場所がなかった。いや、そう思い込もうとした。家が自分の全てになっているから、他はどうでもよくなる。意識も行動もどんどん
「……」
「だから最後に居場所がなくなるんだよ。安普請の木造建築は、人間より早く年をとるからな。トラブルメーカーのお歴々は、例外なくオーナーから立ち退きを求められてるはずさ。連中のマナー違反が理由じゃない。家の老朽化が限界に来ているからだよ。そうなる前に住処を代えないとだめなんだ」
レトロな天井を見上げた岡田さんは、慰めるように話しかけた。
「なあ。あんたは幸せだよ。一生の価値ってのは最後の最後に決まる。あんたは、最後にいい人たちに住んでもらえそうじゃないか」
その時。岡田さんの真横で、ほんのわずかの間、若い三村さんがほっとしたように微笑んでいるのが見えた。でも岡田さんは……まるっきり気づいていないみたいだった。
◇ ◇ ◇
帰り際、岡田さんがにこりともせず言い残していった。
「なあ、お二人さん。幽霊ってのはいるものじゃない。想像で作られるものなんだよ。だから探しちゃいけないのさ。どうしても気になるなら護符でも貼っておいたらいい」
岡田さんが手を突っ込んでもぞもぞまさぐっていたジャケットのポケット。そこから、お
「ほら」
「ありがとうございます……って、これサロンパスじゃないですかあ!」
「肩が重いのは霊に取り憑かれたからだとか言う阿呆がいるんだよ。湿布でも貼っとけ」
うーん。この人も、とことん訳がわからん。
◇ ◇ ◇
岡田さんが帰ってすぐに夕食。バイトがハードだったから空腹が限界近くて、私もめーちゃんも食べることに集中した。
「ふううっ。やっと落ち着いたー」
「おやつ食べる暇もなかったもんなあ。あ、お茶いれるわ」
「ありがとー」
マグカップになみなみ注いだ緑茶を飲みながら、ここ数日の出来事をぼんやりと思い返す。
「桜と幽霊、かあ」
「楽しかったことと、怖かったことね」
「そうかなあ」
「え?」
予想外の私の返事に、めーちゃんがきょとんとしてる。いや、めーちゃんはその通りだと思うよ。満開の桜を心から楽しみ、幽霊に怯えた。ごく普通のリアクションだ。でも、私は違う。その逆だったの。
スマホに残された満開の桜を見ながら、改めて溜息をつく。とても印象的だったけど、桜花の
鶏小屋を出て少しずつ外の世界に慣れる。その馴化プロセスの中に置くには、桜はまだ早過ぎたんだろう。
私の覚えた恐怖は……他の人には決して理解してもらえない。そこにあるのが当たり前のものに疑念を
印象を素直に感動として刻み込めないなんてちっとも楽しくない。私の奇妙な苛立ちは、経歴が似ているめーちゃんでもわからないと思う。私とめーちゃんとでは、これまで経験している外界との接点の大きさがまるっきり違う。その差を強く意識せざるを得ない。
幽霊探しは逆だった。不謹慎かもしれないけれど、どこかわくわくしていたんだ。桜と違って不明瞭な存在だから動かせる思考空間がいっぱいあって、帰結も決める必要がない。だってそうでしょ? 私だけでなく誰も幽霊の正体を知らないんだから。
三村さんが幽霊から人間に戻ったあとも残っている気配。その正体が何なのかについては、結局誰も正解にたどりつけていないと思う。三村さんの分身や生霊じゃないかという説、三村さんを
馴化がちっとも進んでいない私を取り巻く世界は、未だに幽霊だらけだ。私の中では今回の幽霊もその一つに過ぎない。そういう捉え方も、他の人には理解してもらえないだろう。
ただ。美しい桜と不気味な幽霊には意外な共通点がある。私たちに印象を残せても、私たちには直接何もできないということだ。彼らは彼らの道理に従っているだけ。思い入れや思い込みで変化するのは私たちであって、彼らじゃないんだよね。
……てなことをめーちゃんに話そうかなと思っていたら、スマホがぶるった。
「あ、佐々山さんだ。もしもし」
「こんばんは、小賀野さん。セピアのマスターから連絡が来たの。座卓が揃ったので取りに来てくださいって」
あ、そうか。私たちの連絡先をマスターに伝えてなかったもんな。
「ありがとうございます! 楽しみです」
「矢口さんと一緒に行くんでしょ?」
「はい。明日は二人ともバイトがない日なので」
「じゃあ、出る時に声をかけてくれない? 三村さんを一緒に連れて行くから」
「……わかりました」
必要最小限の伝言だけで電話が切れた。佐々山さんは、三村さんの今後のことを一人で考えたくないんだろう。放り出せず、抱え込めず、かあ。
「佐々山さんから?」
「そう。座卓、セピアに届いてるって」
「わあい!」
幽霊探しで微妙になっていた気分が再び盛り上がってきたんだろう。めーちゃんがぴょんぴょん飛び上がって喜んでる。そうだよな。そろそろ平常運転に切り替えないとね。幽霊のことは、とりあえず意識の籠に閉じ込めておこう。
「明日で、生活環境がだいたい整いそうだね」
「うん! 入学式も近くなってきたし。いよいよだあ!」
と、そこまではよかったんだ。でも。めーちゃんは椅子に座り直すなり、ぐんと身を乗り出した。
「ねえ、ルイ」
「うん?」
「なにか、隠してない?」
「なにを?」
「障がいのこと」
ああ、それか。
「隠してはいないよ。わかってる人も結構多いし」
「誰が知ってるの?」
「店長に連なる人たち。私が鶏小屋から脱出する時に、どうしても障がいをオープンにする必要があったんだ。ええと、店長、前沢先生、ユウちゃん、ユウちゃんのお兄さん夫婦、わいじー、トムは知ってる。めーちゃんのご両親を安心させないとならないから、この前紗枝さんには明かした」
「パパには?」
「言ってないよ。紗枝さんにだけ」
「……」
難しい顔になっちゃったなあ。
「今のところ、知らないのはめーちゃんの他に岡田さん、松橋さん、丈二さんてとこかな。もちろん、知り合って間がない佐々山さんはまだ知らない」
「ふうん」
「私は秘密を抱えるのが嫌いなの。それは自分の中に鶏小屋を作ることで、三村さんの地下室と何も変わらないもん。だけど積極的にアピールするつもりもない。いいことならともかく障がいだから」
「そ……か」
「めーちゃんがすぐに知りたいならここで話してもいいけど、会話ネタが一つ減っちゃう。幽霊探しと同じで、いろいろ妄想した方が楽しいでしょ?」
べしゃ。めーちゃんがテーブルの上に潰れた。
「た、たふだあ」
「ふっふっふ。桜と幽霊。桜は受け止めるだけだったけど、幽霊は積極的に探したんだ。私はどこにも閉じ込められたくないの。場所だけじゃなくて考え方とかもね。だからどっちが楽しかったかって聞かれたら」
「幽霊探し?」
「うん」
「そのセンスはわかんなーい」
「ははは」
よろよろと自室に戻っていくめーちゃんの背中を見送り、振り返って気配を探る。明るいから何も見えないけど、そこにはきっと何かがあるんだろう。
儚い幽霊の残像は、もう記憶から消え去りつつある。その代わり、意識の底に押し込みきれなかった桜の雲がもくもくと浮き上がってくる。目をつぶって思わずぼやいた。
「見える桜が見えない幽霊を
【桜と幽霊 了】
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