第6話 ご近所さんが増えた
家の中じゃなく、門の近くでああでもないこうでもないと立ち話をしていたところに、二、三歳くらいの男の子の手を引いた若い女の人が通りかかった。もともと人通りが極端に少ない上にお年寄りしか歩いていないから、親子連れはすごく目立つ。
特に美人というわけじゃないけど、優しそうなママさんに見える。連れている男の子はすごく眠そうで、ぐだぐだ歩いてる。私たちを無視して通り過ぎると思ったママさんは、私たちの少し手前で足を止めて、佐々山さんをじっと見つめた。
視線に気付いた佐々山さんが、誰だろうという顔で聞いた。
「わたしに何かご用かしら?」
「あの……失礼ですが、佐々山さんでいらっしゃいますか?」
「そうですけど」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。そこの角の家に住むことになりました、魚住と言います」
賃貸の人はみんな無愛想で自分勝手だと聞かされていたから、イメージが違って面食らう。
佐々山さんは、ちゃんと挨拶をする人だとわかって警戒を緩めたんだろう。にこやかに応じた。
「佐々山です。ここのはす向かいに住んでいます」
おっと、私たちも挨拶しなきゃ。
「私と彼女はシェアでこの家に住んでます。これからD大に通います。小賀野と言います。よろしくお願いします」
「矢口ですー。よろしくお願いします」
「わ! シェアされてるんですか」
びっくりというより、嬉しそう。
「わたしも学生の時はシェアだったんですよー。その時のシェアメイトとは今でも友達でー」
「あ、シェアの先輩だあ」
嬉しそうにめーちゃんが声を弾ませた。佐々山さんも笑いじわを深くした。
「あははっ。幸先がいいわねえ。これまで賃貸の人は非常識な人ばかりでがっかりしてたから」
「あ、それなんですけど……」
ぐずりだした男の子をひょいと抱き上げた魚住さんが、こそっと周囲を見回してから小声で言った。
「家を借りる時に、不動産屋さんにアドバイスをもらったんです。要注意人物がいるから距離を取れって」
「……わたし?」
「いいえ、奥野さんていう人です。ご存知だったらどんな方か教えていただけると」
「奥野、ねえ」
心底嫌そうに佐々山さんが吐き捨てた。
「どうしようもないクソおやじなんだよね。歳を重ねるほどダメになっていく典型みたいな人」
言葉遣いの上品な佐々山さんが
「揉めたことがあるんですか?」
「ゴミの出し方で何度もね。分別や収集日のルールをきちんと守ってほしいと口が酸っぱくなるまで言ったんだけど、いつもつらっと無視よ。ぐちゃぐちゃうるせえばばあだって憎まれ口叩いてさ」
ひどいな。
「口も態度も頭も悪い。理屈の通らない人に何を言っても無駄よ。ここのゴミステーションが撤去されてからは、絶対に関わらないようにしてたの」
「その人、ゴミをどうしてたんでしょう」
「他の班のステーションに捨てにいって、門前払いされてたみたいよ。四班も五班も立ち当番は男の人がするから」
「男の人……トラブルメーカー対策ですか?」
「そう。収集されないゴミを置かれると死活問題だからね。不法投棄で揉めて、お巡りさん呼んだこともあったみたい。口頭注意くらいじゃ全然効き目がないけど」
佐々山さんがぎっと眉を吊り上げた。
「だからと言って、ゴネ得は絶対に許さないわ。正直者がバカを見るようになったらますます寂れてしまう。ここをスラムになんかさせるものですか!」
筋を通していた自分の方が逆に孤立している……それは佐々山さんにとって、どうしても認めたくない現実だったんだろうな。
「じゃあその人、今はスーパーに捨てに行ってるのかな」
私の独り言を拾い上げた魚住さんが、こそっと最新情報を教えてくれた。
「大量の家庭ゴミを持ち込んだから、スーパーのブラックリストに乗って入店禁止になったって聞いてます」
「やっぱりねえ。ははっ。そうなるわよね」
やれやれという顔で、佐々山さんが私たちをぐるっと見渡す。
「備えている常識の基準をあとから緩めることはできるの。でも、備わっていない常識を身につけるのは本当に難しいのよ。好き勝手やってた人が、普通の人なら守れるはずの常識をまじめに考える? 無理よ、そんなの」
「あの、どうしてですか?」
めーちゃんが真剣な表情で聞いた。佐々山さんが茶化さずにしっかり答える。
「常識っていうのは枠。枠の中にいるのは狭苦しいけれど、中にいる限り無理をしなくても意思疎通できる。でも、ずっと枠の外にいたいっていう人が一定数いるのよ。彼らは常識自体を害悪だと思っているから、そもそも常識を認めない」
「そうか……」
「いいのよ。何からも自由でありたいと願うことはね。そういう願望は大なり小なり誰でも持っている。だけど常識に縛られない自由は、社会に受け入れてもらえないという不自由と必ずセットになってるの」
まあ……そうだよね。人の迷惑なんか知ったことかってわがまま勝手に振る舞えば、誰からも敬遠されるのなんかアタリマエ。
「あのおっさんは、自分で自分の首を絞めてるのよ。ばかみたい」
ははっ。佐々山さんがせせら笑った。
「佐々山さんにお伺いしたいんですけど」
それはそれという感じで、魚住さんが尋ねる。
「はい?」
「わたしたちも、五丁目のステーションまで捨てに行かないとならないんでしょうか」
「現状ではそうなります。あなたにはちゃんと常識が備わっているみたいだけど、ここの人たちは揃って非常識なの。みんな自分勝手。誰も自治会に入ってなくて、もちろんゴミステーションの立ち当番や掃除をする気なんかない。だから、すぐにステーションがゴミの山になってしまう。ルール違反のゴミは収集車が持って行ってくれないの」
「あ……」
「あなたの家のすぐ側がステーションのあったところだから、臭いやら虫やらで大変なことになるわ」
魚住さんが、がっくりうなだれちゃった。佐々山さんが淡々と事情説明をする。
「わたしは市に個別収集をお願いしてるの。ここに長く住んでいて、二十年以上かけて市の環境保全課との信頼関係を築いた。だから、わがままを聞いてもらえる」
『信頼』って言葉を佐々山さんが口にしたことで、魚住さんは個別収集にただ乗りできないってことを覚ったんだろう。すがるように私たちを見た。
「あなたたちは?」
「私たちも、魚住さんと同じところでスタックしたんですよー。今も室内に溜まってる状態で。五丁目に出しに行くには、向こうの班長さんに筋を通さなければならないんです。二丁目はそもそも他の班ですから、ダメって言われたらそれまでで……」
「うーん」
「で、佐々山さんの個別収集に加えていただくことにしました。代わりに、分別やパッキングをお手伝いします」
すかさず佐々山さんが口を挟んだ。
「この子たちはちゃんと挨拶に来たのよ。ゴミも見せてもらったけど、きちんと分別してコンパクトにまとめてあった。生活態度がとてもまじめなの。それを確かめられたから、オーケーを出したの」
「そう……ですよねえ」
佐々山さんの口ぶりには強い警戒心がにじんでいた。魚住さんが常識的な人だということは認めても、長い間積み重なってきた賃貸住人への不信感はそう簡単に撤回できないんだろう。
佐々山さんが、魂胆を探るようにして魚住さんに尋ねる。
「ねえ、奥野がスーパー出入り禁止になったっていう話、出どころはどこ?」
「家をお世話してくださった不動産屋さんから伺いました」
「あら。そんなことまで教えてくれるなんて親切ねえ。なんていうところ?」
「岡田不動産ていうお店です」
三人揃ってずっこけてしまった。
「なんだー、岡田さんの斡旋だったんですか」
「え? じゃあ……」
「私と彼女もそうなんですよ。家賃けちるのにシェアにしたらっていうのも、岡田さんの提案で」
「本当に、何から何までお世話になったんですー」
岡田さんルートということは、魚住さんも何か訳ありなんだろなあ。今はまだ自分のことだけで精一杯だから、とても突っ込めないけど。
「……」
岡田さんの名を聞くなり黙り込んだ佐々山さんが、小さく呟いた。
「そうか。岡田さんも、いよいよ動き出したということね」
「え?」
さっと顔を上げた佐々山さんが、空き家ばかりの家並みを見渡す。
「二丁目は七十数戸建物があって、その半分くらいに人が住んでる。でも、自治会に入ってるのはわたしだけよ。賃貸で住んでる人にとって、古臭いここはしょせん短期間の腰掛け住居に過ぎないの」
「そうなんですか」
「ええ。大事に使うという概念がないから家が傷む。扱う不動産屋さんも、まともなリフォームはしない。古いわ、狭いわ、汚いわじゃ、どんどん劣悪物件になるわね。当然、賃貸で入ってくる人たちの質も下がる。奥野のおっさんが典型なの。あれはサイアク」
「貸した不動産屋さんもいい迷惑ですよね」
私がフォローしたら、佐々山さんが不敵に笑った。
「ふふっ。岡田さんは、そういう訳ありになった物件ばかりを同業者から引き取っているのよ」
「わっ!」
「で、ちゃんと手を入れてあなたたちのようなまともな人に貸し出す。一種の浄化活動みたいなものね」
「すごいですね……」
「彼には夢があるからね」
佐々山さんが、目を細めてさらっと言った。岡田さんの夢……か。この前内覧で来た時に、店長もそう言ってたな。
「つまりね。岡田さんは、奥野のおっさんが住んでいる家を他社から引き取った可能性があるの」
「!!」
「だから魚住さんに、離れてなさいって忠告したと思うわ」
慌てて聞き返した。
「岡田さんが、その奥野さんて人とドンパチやらかすってことですか?」
「いやあ、どんぱちにはならないでしょ。訳ありの人でも、家賃を払っていれば貸主はなかなか追い出せないの。でも、あのおっさんが家賃を払っているとはとても思えない。ゴネて、ずっと不法占拠してるんじゃない?」
「ひええっ」
そんなとんでもない人が実在するなんて……信じられないって顔でめーちゃんがのけぞった。
「論より証拠よ。敵情視察してきましょ。ゴミ収集の件は、その成り行き次第で変わってくるから。ああ、魚住さん。お子さんをずっと抱っこしたままなのはしんどいでしょ。孫が小さい頃使ってたバギーがあるから貸したげる」
「わ! 助かりますー」
完全に寝入ってしまった息子さんを、腕をぷるぷるさせながら必死に抱いていた魚住さんが、ほっとしたように笑顔を見せた。
「よければそのままずっと使って。さすがにもう処分しなきゃと思ってたから」
「いいんですか?」
「道具は、使われない方がかわいそうよ」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「ちょっと待っててね」
さっと走っていった佐々山さんは、がっしりした作りの黒いチャイルドバギーを引いてすぐに戻って来た。
「ベビーカーと違って、三歳いっぱいくらいまでは使えると思うわ」
「すごく嬉しいです。ありがとうございます!」
ぺこぺこ頭を下げる魚住さんを見て、佐々山さんがほんのり頬を染めた。あは。照れてる。それにしても、どんどん状況が変化するなあ。ご近所さんが一人増えて、幽霊探しのことがいつの間にか霞んじゃった。だけど、私たちも住む地域の現状をきちんと見ておきたい。ゴミ収集が絡むならひとごとじゃないから。
最初の町内わくわく探検と違って、お化け屋敷に入るみたいな緊張感があるけど……ね。
「幽霊より人の方が怖い、か。こういうことなんだね」
神妙な顔でめーちゃんが呟いた。同意する。
「うん。それに、こういうのは大学で教えてくれないと思う。しっかり勉強しなきゃ」
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