前章終話 桜を観る
両手にでかいショッパーをぶら下げてえっちらおっちら歩いている私たち。目立っちゃって恥ずかしいかなあと思ったけれど、荻野の住宅街はどこも静かで歩いている人がほとんどいない。
そうか。考えてみたら今日は週明けの月曜日だった。働きに出ている人は家にいないし、昼時だから春休みの子供たちも家で昼ごはんを食べてるんだろう。空き家の多い住宅街だとこんなものなのかな。
どこもかしこも人で溢れかえっている都内から来たユウちゃんは、薄気味悪く感じるかもしれないね。でも、ユウちゃんは周りの様子なんかちっとも見てない。シェアハウスを出てからずっと、めーちゃんと話し込んでる。
ユウちゃんにしてもめーちゃんにしても、私とのファーストコンタクトはとんでもなく訳ありだった。私がのほーんとしてるから話はしやすいだろうけど、遠慮や気後れはあると思う。でも二人の間に挟まっている私が退けば、立場は対等なんだ。利害関係のない気安さが、二人のガードをうんと下げたんだろう。
しゃべってる中身が学校のことなのは私的にちょっぴり寂しいけど、どうも学校生活が楽しいという話じゃなさそう。学校っていうのがどんなに馴染みにくくて居心地の悪い場所なのかという悪口でがんがん盛り上がってる。それはそれでなんだかなあという気はするけどね。ははは。
「おっ、あれだな」
児童公園への最短ルートを普通に歩くと十分ちょいで着いてしまう。なので、私はあえて少し遠回りした。五丁目のゴミステーションを確認するためだ。もう昼時だから収集は終わってるはず。アフターの状態を確認すれば、管理状況がわかる。
「……なるほど」
通り過ぎる時に横目でしっかりチェック。かなり大きなゴミステーションで、籠型だ。出せる日以外は施錠されてて蓋が開かないってことか。籠の中はきれいに掃除されている。ゴミの回収時には立ち当番が監視と掃除をするんだろう。うちから距離があるからしんどいってだけじゃなく、他区の人がここに捨てること自体が難しいんだ。うーん、厄介だなあ。
おっとっと。花見の前にゴミ処理のことなんか考えてたら、気分が盛り下がっちゃう。対策はまたあとで考えよう。
◇ ◇ ◇
家の間を通る道路はくきくき折れ曲がっていて見通しが効かなかったけど、最後の角を曲がってすぐにすぱんと視界が開けた。
「わっ!」
「すっごおい!」
家並みが途切れて閉塞感がなくなった途端、その先が薄紅色の雲海で埋め尽くされていた。下見で来た時にはまだ半分程度の花着きで、桜の木がいっぱいあるんだなあという印象しかなかったのに。ぱちりと電灯のスイッチが押されて一斉点灯したみたいな、一面の桜花。幹や枝が花に隠れて見えない。花、花、花……どこまでも花だ。
あまりの迫力に呆然としてしまう。それは……パソコンのディスプレイで見ていた桜の光景とはまるっきり違っていた。色も広がりも迫力も生命感も何もかも。
画像はしょせん平面。手に取ることも中に入り込むこともできないけど、その代わり自分から離しておける。だけど、目の前に広がる桜花の雲は圧倒的な存在感だ。私を丸呑みしようとして待ち構えているような……。美しいというより怖かった。
「ちょっと、ルイ。どうしたの? 顔色悪いよ」
「あ……ああ、ごめん。予想以上の咲きっぷりで圧倒されちゃって」
「うん。確かにすごいわ……」
「わたしも、こんないっぱいのは初めてですー」
三人揃って、無言で立ち尽くす。再奥の桜を見つめていためーちゃんが、ぽつんと言った。
「そっか。わたしたち以外にほとんど人がいないから、桜に押されるんだ」
あ……なるほど。平日昼間の公園にはぱらぱらとしか人がいない。桜樹の下で花見をしている人は数えるほど。ほとんど桜しかないんだ。
「だからか。自分がとんでもなくちっぽけに感じたんだよね」
「わかる」
花を見にきたのに、その花からカウンターパンチを食らったみたいな。いやいや、ここで怖気付いてどうする!
「花が少し高いところで咲いてる木を探そうか」
「そだね。圧迫感があるのはちょっと」
「おっきい木の方がいいですよね」
「うん」
桜からじろじろ見られているような居心地の悪さを感じつつ、思い切って公園の中に踏み込む。まるっきりの無人というわけじゃないし、少ないけどお花見をしている人もいるから、堂々と行こう。
どこかへっぴり腰で場所探しをしていたら、しかめ面をしたおじさんがずんずん近づいてきた。制服姿で箒を持ってるから、公園管理の職員さんなのかな。
「こんにちはー」
「君らは花見かい?」
ずけずけと聞かれる。
「はい。ここはお花見できないんですか?」
「できるよ。でも、ゴミだけはきちんと片付けていってくれ」
あ、やっぱりか。せっかくのお花見気分を台無しにするわけにはいかない。ここは下手に下手に。
「もちろんですー。持ってきたものは全部持って帰ります」
「ほう、花見弁当か。いい匂いさせてるなあ」
鼻をひくひくさせておじさんがショッパーを覗き込んだ。少しびびっていたユウちゃんが、こそっと自慢した。
「わたしたちで作りましたー」
「おっ! やるねえ。学生さんだろ?」
「はい!」
手作り弁当だとわかった時点で、おじさんの機嫌がぐんとよくなった。
「自分で手を動かす人はマナーもしっかりしてるから、俺らは余計な心配をしないで済む。みんながそうだといいんだがな」
と言って。また最初みたいなしかめ面に戻った。そうか、昨日は日曜日だったから、花見客がずっと多かったんだろうな。
「昨日はすごかったんですか?」
「人出もすごかったが、ゴミもすごかったんだ。今日は職員総出で早朝から後始末だよ。午前中いっぱいかかって、トラック二台分のゴミを処理したんだ」
「トラック二台って……ひええっ」
ユウちゃんがのけぞってる。苦笑いしたおじさんが、桜花をぐるっと見渡した。
「公園にはもともとゴミ箱を置いてない。置くと家庭ゴミを持ち込まれちゃうからね」
うわ……。
「ゴミ箱を置いていないことは看板でもネットでも周知してあるから、普通はゴミを持って帰ろうと考えるだろう?」
「はい。そう思うんですけど」
「でも、自分さえよければっていう連中が本当に多いんだ。がっかりしちまう」
持っていた箒を木に立てかけたおじさんが、忌々しげに指を折る。
「弁当殼だけじゃない。ビールやジュースの空き缶、菓子やつまみの袋、紙皿や紙コップ、敷物、紙おむつ……。果ては、自転車や廃家電までぶん投げていく」
「うそおっ!」
ユウちゃんもめーちゃんも絶句。私も開いた口が塞がらない。私たちの驚愕の表情を見て、おじさんが吐き捨てた。
「どさくさに紛れて粗大ゴミまで持ち込む不届き者がいるってことさ」
淡い桜花越しに柔らかな春の日差しが落ちてくる。でも、おじさんの険しい表情が緩むことはなかった。
「上は天国下は地獄じゃあ、花見もへったくれもないよ」
「ひどいですね」
憤然と眉を吊り上げためーちゃんを見て、おじさんが相好を崩した。
「まあ、君らはちゃんと考えてくれてる。俺らは安心して見てられるよ。桜は昨日より今日の方が見応えがある。楽しんでいってくれ」
「はい!」
立てかけてあった箒を持って立ち去ろうとしたおじさんに、ぽんと女の人の声がかかった。
「平山さん、お疲れ様」
誰だろう? 年配の人みたいだけど、細身で背が高い。背丈は私とどっこいじゃないだろうか。赤いジャージをぴしっと着こなしていて立ち姿がきれい。栗色に染めた肩までの髪を後ろで無造作に束ねている。見るからにエネルギッシュな雰囲気だ。気が強そう。おじさんの知り合いなのかな。
「ああ、はっちゃんか。散歩かい?」
「いい陽気だし、ほら」
にっこり笑ったおばさんが、両手を広げて桜花を抱きしめるようなポーズをした。
「こんなに素晴らしい甘露は今しか戴けないからね」
「はっはっは。花は今日がピークだろうなあ。もう落花の舞いが始まってる」
「そうそう、今朝は大変だったでしょ?」
「ゴミの山だよ。花見はいいけど、捨ててくのは浮世の憂さだけにしてほしい」
会話が優雅だなあ。めーちゃんもやたらに感心している。
「で、この子たちは?」
「これから花見だってさ。弁当を手作りしたらしい」
「まあ! 感心ねえ」
おじさんだけでなく、おばさんからも高評価を得たユウちゃんが照れるわ照れるわ。
「って、作ったのはこの子なの?」
「はいー。私たちはまだ自炊初心者なので、センセイに教えてもらいました」
私とめーちゃんがそろってユウちゃんを指差す。ユウちゃんは、恥ずかしいのか真っ赤になった。
「あははっ。少しのことにも先達はあらまほしき事なり、ね」
「それ、徒然草ですよね」
めーちゃんがすかさず突っ込んだ。さすがブンガクブ。
「あら。よく知ってたわね」
「兼好法師、辛口の人なので好きなんです」
「辛口はいいわね。女はみんなろくでもないとか、偉そうに人に代筆させるやつは最低だとか、好き放題書いてるものね」
「ぷっ」
ユウちゃんが盛大に吹いた。うん、このおばさん、物知りっていうだけじゃなくてすごくおもしろい。おっとっと、立ち話もなんだし。
「あのー、これからお昼ご飯を食べようと思うんですけど、一緒にいかがですか?」
声をかけたら、おばさんがにやっと笑った。
「あら、いいの?」
「三人分にしては多すぎる量を作っちゃったので」
「助かるわあ。帰ってからご飯支度するのは面倒臭いなあと思ってたから」
わはは。正直なおばさんだ。
職員のおじさんに挨拶してからお花見する場所を探す。この辺りのことに詳しそうなおばさんに、一等地を教えてもらった。あまり大きくならないソメイヨシノの木だけど一本だけはすごく大きいの、と言われておばさんのあとについていったら。特大のソメイヨシノが悠然と
「で、でか……」
「うわあ! これ、本当にソメイヨシノなんですかあ? こんな大きいの、見たことない!」
ユウちゃんが興奮してるけど。公園の入り口で覚えた圧迫感が再び蘇り、私の口を塞いだ。四方にあまねく伸びて花を手向けている無数の枝が、まるで触手のように感じられる。この桜の領域に踏み込んだら、囚われて二度と脱出できないんじゃないか。馬鹿げた妄想なのに、恐怖を振り払えない。黙り込んだ私を見て、おばさんがふっと笑った。
「怖い?」
「正直に言えば」
「怖いのが当たり前よ。桜は人を食う」
「げ」
「梶井基次郎の詩を例に出すまでもないわ。こんなに美しい花が、何もないところから生まれるわけないでしょ」
「……」
リアクションに困っていたら、おばさんが「続きはご飯を食べながら」とフォローしてくれた。ふう……。
◇ ◇ ◇
いただきますもへったくれもない。全員腹ぺこだったから、花より団子状態でがつがつ食べる。やっぱり上手な人が作る料理はおいしいなあと思いながら、鶏の唐揚げや春巻き、フライドポテトをこれでもかと頬張る。で、食べている間に頭上の桜から来る強烈な圧迫感が少しずつ薄れてきた。
「そうそう、さっきの話ね」
おばさんが、紙コップに注いだ野菜スープで口を潤しながら、唐突に続きを話し始めた。
「あ、はい」
「桜はね、人間よりずっと長命なの。長命になるために様々な生命を取り込むと考えることもできるわけ。特に、こういう大樹になればね」
「なるほど……」
無意識に頭上の桜花を確かめる。おばさんの声が、まるで桜の声のように思え始めた。
「この桜はわたしと同い年よ。わたしと共に生まれ、育ち、今まで生きてきた。そして、この桜はきっとわたしより長生きする。わたしはこの桜に食われるわけ」
「……」
「でも、そうやって桜樹の中でいくらか永らえるのもおつなものかなと思えるようになったわ」
視線を下ろした私と入れ替わって、おばさんが頭上の桜花をうっとりと見上げる。
「わたしは、永遠は要らない。そんなの退屈なだけ。でも、もう少しだけちょうだいっていう欲求はあるの。桜に食われることでその欲を満たせるなら、わたし的に食われるのはありだな」
「すごい……ですね」
思考のスケールが全然違う。今度は桜じゃなくて、おばさんに圧倒されてしまった。いたずらっぽく笑ったおばさんは、ひょいひょいと指を振って否定した。
「すごくはないわ。わたしがそう思ってるだけよ」
桜花の雲を掴み取ろうとするかのように両腕を大きく差し上げたおばさんは、その腕をそっと下ろしながらめーちゃんに顔を向けた。
「さっき、兼好法師の話をしたでしょ?」
「はい」
「兼好法師は仏教の無常観に基づいて徒然草を書いたって言われてるけど、書き記された生き様を見る限り、すごく生活を楽しんでいるのね。動乱の時代においても己を崩さないで飄々と生きてるの。たくましいわ」
「そうなんですか!」
「あはは。確かな存在感を備えた人の筆でなきゃ、後世に残るような名著にはならないわよ」
おばさんが、私たちの顔を一人一人しっかり見つめる。強い眼光。でも突き刺さるような鋭い視線ではなく、私たちの一番奥底にあるものを照らし出そうとするような……。
「無常っていう概念を勘違いする人が結構いるの。どうせ何もかも消えてなくなるんだから、何をしても考えても無駄だってね。違う」
「……」
「存在感のない人なんか誰一人としていない。厭世や悲観に囚われないで自身の存在を活かそうとするかどうかが違うだけね。兼好法師は見事に活かしきった。わたしもかくありたいわ」
おばさんの言葉がすとんと心の奥に届いた。ああ、そうか。私はずっと怖かったんだ。寸足らずのひ弱な自分が、本当に鶏小屋の外で生きていけるのだろうかと。
店長や岡田さんの肯定や励ましがあっても、ずっと自信がなかった。二十年の間に自分から欠け落ちてしまった大事なパーツは、本当にこれから充足されるんだろうか。充足されるどころかもっと欠けてしまって、最後は自分が壊れてしまうんじゃないだろうか。
ユウちゃんのことなんか言えやしない。私は自己否定という底なし沼の
皮肉なことに。自分の近傍に濃い闇があった時には自我を強く保てた。そっちなんかには絶対に墜ちないぞ、と。鶏小屋脱出の時もめーちゃん救出の時もそう。
でも目が潰れるほど眩く輝いている桜花の雲と対峙した途端に、自我のおぼつかなさが剥き出しになってしまった。だから……どうしようもなく怖かったんだ。
「……」
桜がずっと桜でしかいられないように。強がっていてもへたれていても、私は私でしかない。誰に見られていようと、時が至れば咲いて散るのが桜。いつ咲いていつ散るのかちっともわからない私とは違う。存在の大小を桜と比べて、喜んだり悲しんだりしてもしょうがない。
覆いかぶさる桜花の雲を、意識の外にそっと押し返す。
「桜は桜……なんですね」
何気なく口から出た一言に、おばさんが同じ言葉を重ねた。
「そう。桜は桜よ。わたしたちが何を想おうと勝手に咲くの。だからわたしたちも気兼ねなくもらえるわ」
もう一度私たちを見渡してから、おばさんが桜花を見上げた。
「花見っていうけど、見るだけなんかもったいない。わあきれい以上のものを、そこに観たいな。観察の『観』の字の方ね」
めーちゃんが、すかさず手のひらの上に字を書いた。
「確かにー。一段深くなりますね」
「あはは。余計なことは考えなくてもいいけどさ。観たら、何かにつなげたくなるでしょ?」
「はい!」
ユウちゃんの表情もすっかり明るくなった。私も、さっきの職員さんが言ってたみたいに憂さを置いていくことにしよう。
もう一度桜花の雲を見上げる。最初に想像していた直球の感動とはまるで違っていたけれど。今日観た桜は生涯忘れないだろう。
すうっと胸を張って。おばさんが朗々と短歌を詠唱した。
「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ。西行法師」
桜色の雲がふわりと降りてくる。それは凪いだ海に変わって私を包み込む。
いつの間にか涙が溢れ、頬を伝っていた。風もないのに目の中の桜花が揺れて……次々に零れた。
「きれい……だなあ」
【前章 桜を観る 了】
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