第8話 薄情な銭
まだぴかぴかのシンクをチェックしたあと、ぼろ家に似合わない豪勢なバストイレユニットを興味深そうに見ていた紗枝さんが、あるべきものがない空間に気づいて首を傾げた。
「洗濯物はどうしてるの?」
「注文した洗濯機がまだ届いてないので、今はコインランドリーなんですよ」
「あら。お金がかかっちゃうわね」
やりいっ! それそれそれよっ! 待ってました! ここでしっかり問題提起しておこう。
「私はある程度まとめてから洗いたいんですけど……」
と言って、ちらっとめーちゃんにガンを飛ばす。察した紗枝さんが、苦笑しながらめーちゃんに確かめた。
「萌絵は毎日?」
「だって、溜めるのいやなんだもん!」
これまでは替えの服がなかったから、毎日洗いたいっていう気持ちはよーくわかるんだけど。コスパを考えたら、このままずっとというのはさあ……。
「出納を考えなさいね」
「すいとう?」
「お金の出入り。わたしと丈ちゃんが元気だから仕送りできるけど、何かあったらあっという間に干上がるわ」
そうなの。明日使えるオカネがないっていうどん底から始まっためーちゃんは、その制限が緩んだとたんに気持ちまで緩んでしまった。店長から受け取ったバイト代四千円の重みをすぐに忘れてしまったんだ。
私は違うよ。親からの援助は極力受けたくない。親の支配から逃れるには経済的自立が絶対条件だったんだ。めーちゃんは育ちがいいから私ほど屈折していない。その分、どうしても自活意識が甘くなる。金銭感覚の甘さを放置したら……いつか自分の首を絞めるよ。
紗枝さんは、きちんと私の意図を汲んでくれた。
「わたしは親とぶつかって家を飛び出してるの。自活したばかりの頃は飲まず食わずよ。丈ちゃんだってそう。浪費癖の激しい親のせいでとんだとばっちりを食ったの」
「ああ。しんどかったな」
丈二さんが、俯いてぼそっとこぼした。
「俊ちゃんだってトシだって、みんなお金で苦労してる。だからこそ、稼ぎはいいけど辛い夜の世界でのたうち回ってたの」
店長が、ふっと息を抜いてからめーちゃんを見据える。
「俺らは銭でとことん苦労したから、ルイやめーちゃんに同じ苦労はさせたない。せやけど銭は薄情や。それだけはしっかり覚えとき」
「薄情……ですか?」
めーちゃんが、こそっと聞き返した。
「どうしても欲しい時には一円もない。銭があってんどうにもならん時だけ、偉そうな顔してしゃしゃり出る。そういうあまんじゃくが銭っちゅうもんや」
「ふふ。俊ちゃんらしいわ」
「ちぃとも嬉しないわ」
店長がぶつくさぼやく。
「使うなとはよう言わんけど、銭のツラをよーく見とき。あいつら、好き勝手にふるまいよる。俺らの指図なんざちぃとも聞いてくれへん」
「……」
「銭に振り回されたないなら、どっかに寝かしつけるしかないんや」
寝かしつける……貯める、貯金するってことだよね。万一に備えておかないと、出たとこ勝負じゃどうにもならない。本当にそうだ。
「銭を袋に入れるんは大変やで。勝手に増えることなんかないからな。汗水垂らして、せっせと集めて、袋に入れて。それなのに、袋を開けたとたんどんどん出てく。あっちゅう間に空っぽや。そうやろ、ルイ」
「店長にこれでもかとどやされましたからねえ」
家を飛び出した頃のことを鮮明に思い返す。あの時、私には先立つものが何もなかった。諭吉さん十二人ぽっちじゃ話にならないもの。家賃と食費、それ以外にかかる諸々の費用。前沢先生とのシェアで家賃をけちれると言っても、バイトでまかなえる気が全然しなかった。
私の馴化訓練はコミュニケーションスキルがどうのこうの以前に、金銭感覚を構築するところから始まったんだ。
「ルイはめーちゃんと逆でな。最初にレンタルカレシであぶく銭掴みよったから、ごっつ心配だったんや」
「あの程度の軍資金じゃどうにもならないです。お客さんから指名かかったのはたまたまで、まるっきりあてに出来ませんから」
「ああ。単価が安くてん、店員バイトの方がずっと計算できるからな」
「はい」
店長が、丈二さんの肩をがっと抱いた。
「ジョー。俺らがホストやってた頃、俺や岡田の稼ぎはおまえの十倍以上やった。けど、今は逆になっとる」
「そうなのか?」
「俺のレンタル屋はいつでも自転車操業や。岡田の不動産業もニッチ商売。でかい儲けとは縁がない。岡田、そうやろ?」
「儲かるようなら、もっと幅を利かせてるよ」
にこりともせず、岡田さんが言い捨てる。
「それだけ、ジョーが必死にがんばったちゅうことなんや。なあ、めーちゃん」
「は、はい」
「頼むから、それぇ当たり前だと思わんといて。俺も岡田も一人や。もしこけてん俺ら一人だけのことで済む。ジョーは違うで。働くんは、紗枝ちゃんとめーちゃんの生活支えるためや」
店長が、しんどそうにはあっと息をつく。
「俺は自分削って銭にすんの、疲れた。もうちょぼでええねん。岡田は夢を叶えるために商売しとる。儲け二の次や。稼ぎがでこぼこでもどうにかなるんは、自分のけつ拭くだけで済むからや」
「……」
「でもな。先月百万。今月ゼロ。来月どえらい借金。そんな博打商売する親父は毒やで。振り回される妻子はたまったもんやない」
ぎっ。丈二さんが歯を食いしばる音がした。きっと……店長が言ったみたいなお父さんだったのかもしれない。
「あって当たり前だと思うとるもん、実はちぃとも当たり前やない。その典型が銭や。銭には血が通ってへん。とことん薄情なんや。それだけは忘れんとき」
「……」
黙り込んでしまっためーちゃんを見て、店長がもう一度ふうっと深い溜息をついた。
「ジョーや紗枝ちゃんおるのに、頭越しに偉そうなことは言いたない。ルイは親に頼れへんから代わりに俺が言うたけど。めーちゃんはそうやないからな。でも、誰かが言わなあかんことや」
ずっと黙っていた岡田さんが、静かに店長の言葉を引き継いだ。
「いきなりやりくり算段を上手にやれっていっても無理さ。こういうのも経験だよ。さっき紗枝ちゃんが言ったみたいに、まず出入りをきちんと意識する。そこからだな」
「ああ、ルイ。スマホで金の出入り管理しとるんやろ?」
「はい。簡単な家計簿アプリ入れたので」
スマホを出して、アプリを起動してみせる。先月はまだぎちぎちに節約してたから、バイト代収入の方が支出よりずっと多い。でも大学に通い始めると、バイト収入はがくっと落ちる。親からの仕送りがあると言っても、最初からそれをあてにはしたくない。絞るところはこれまで以上に絞らないとダメなんだ。
費目ごとの金額を確かめていた店長が、渋い顔になった。
「外食が多いのう」
「受験前後は外に出てる時間が長かったんで、つい」
「まだまだ甘いで」
「ううう。そうですね」
店長チェックをじっと見ていた紗枝さんが、くすっと笑った。
「いい師弟関係ねえ」
「まあな。ごっつ鍛えがいあるわ。ルイはとことん前向きやから、銭にこき使われることはないやろ」
にっと笑い返した店長が、めーちゃんを諭す。
「銭は薄情やから、どんだけしばき倒しても誰も文句を言わん。銭は使ってなんぼ。どうやってこき使うか、よう考え」
「うー……と」
「せやなあ。こない言うたらいいかなあ。自分がされてイヤなことを人にすんな。よく言うやろ?」
「あ、はい」
「自分がこき使われたないなら、理不尽に人をこき使ったらあかん。でもな、誰にでも願望はあるんや。俺の分、誰かぜぇんぶやってくれへんかなあって」
「……」
ちょっとの間考え込んでためーちゃんが、あっと小さな声を上げた。
「わかったか?」
「なんとなく……」
「人をこき使ったら恨まれるねん。人には血ぃが通っとるからな。せやけど、銭はどんだけこき使っても絶対に文句を言わん。血も涙も無い薄情な銭に、どないしたらひいひい言わせられるか企んだらええねん。そらあ世間様公認の悪巧みや。楽しいやろ?」
目尻を少しだけ下げて、店長がひひっと笑った。
「悪巧み考えるんなら、銭っちゅうもんがどういうやつか、どう振る舞うかを見極めなあかん。今ルイがやっとるのは、そういうことや」
「ふうん」
めーちゃんが、スマホ画面にずらっと並んでいる数字を興味深そうに覗き込む。
「これ、入力どうやってるの?」
「カメラでレシート撮るだけ。簡単」
「あ、そうかあ」
「ただ、レシートが出ないものは手入力しないとなんないの。コインランドリーとか自販機の飲み物とかね」
すかさず店長の合いの手。
「それ、めんどいやろ」
「あ……」
「自然と入力のめんどい銭を使わんようになる。家計簿アプリはいろいろあるんやけど、ルイはよう調べとるで」
ポケットから十円玉をつまみ出した店長が、それをぴんと弾いた。
「記録に残らん銭は勝手に動く。俺らの制御が届かん。めっちゃ不愉快や」
ばっさり。
「レシートっちゅうのは要らん紙ゴミやないで。どないに銭ぃ使ったんかわかる記録であり、これおかしいんちゃうかって店に文句言える証拠や。銭の監視カメラやな」
さすがだあ。たとえがうまいなあ……。
「まあ、銭こき使う悪巧みをがっつり楽しんだれ。そのためにはまず銭を見張ることや。ルイに使い方教わって」
めーちゃんが神妙に頷いた。店長はけちれ、節約しろなんて一言も言ってない。カネは使え。でもカネに使われるな。それだけなんだよね。
横から私のスマホ画面を覗き込んだ岡田さんが、大真面目な顔で補足した。
「予算だけは決めておいた方がいい。最初は無理のない範囲で。慣れてきたら予算を絞る。ただ、必ず黒字にするようにな」
「ああ、そうやな」
それで終わりなら本当に補足だけだったんだ。でも、岡田さんは突っ込んだ。
「使える金がなくなったらゲームオーバーだよ。足りない分は誰かから借りないとならない。でも、借金をするようになったら人生が詰む」
ばしゃっ! いきなり氷水を浴びせるような容赦ない一言。店長がほにゃらかしてくれた空気が一気に凍った。
「借金というのは、薄情な銭に自分を身売りすることだよ。何をどうされても文句は言えない。俊が言ったように、一生金にこき使われるようになるのさ。利息を払うためにしか時間を使えなくなるからな」
みるみるめーちゃんが青ざめる。
「借金の相手が親ならなおさらだ。親の束縛が嫌で家を出たのに、金で拘束されたら自立の意味がないだろ?」
「う……」
トラットリア・リドで一緒に夕食を食べた時、植田さんから同じ警告が出ていたはず。岡田さんは、それを直に指摘したんだ。
「まあ、なんにせよ最初は練習や。やってみ」
店長が、すかさず話を原点に戻した。せっかく修復されつつあるめーちゃん親子の関係を、またぎすぎすさせるわけにはいかない。そういう配慮だと思う。
ただ……岡田さんがきついことを言ったのはよくわかる。心配ってだけじゃない。恨み節なんだろう。孤児の岡田さんには、お金を融通してくれる親が最初からいないのだから。
がっくり肩を落としているめーちゃんを見て、苦笑してしまう。お金で苦労してる人たちばかりだから、苦言がドラキュラに十字架突き刺すくらいのインパクトになっちゃった。だけど、なにもかも最初からうまくはいかないよ。店長が言ってくれたみたいに、まだ練習生なんだって割り切るしかないでしょ。
◇ ◇ ◇
荷入れと内覧。ちょっと……というか、かなりいろいろあったけど。それでも新生活開始の準備は整いつつある。桜なら五分咲きくらいにはなってきた。
ご両親と店長、岡田さんが一斉に引き上げて、しんと静まったリビング。寂しくなったって落ち込んでる場合じゃない。今度は自分の色に染めないとならないんだ。しょげていためーちゃんを促して洗濯機の受け入れ態勢を整える。
問題は部屋干しなんだよなあ。自室もリビングも狭いから、部屋で干すと確実に湿気る。できれば外に干したいんだ。でも、干せる場所は確保できそうにない。浴室乾燥を使えばある程度は乾かせるけど、今度は電気代が……。
とか、ぐるぐる考えている間に洗濯機が着いちゃった。欠けていた最後のパーツがぴたっとはまって、へこんでいためーちゃんも気分が盛り上がってきたらしい。
「これなら毎日使っても大丈夫ってことね」
「そう。でも、洗濯ものの量に合わせて水と洗剤の量を調整してね。もったいないから」
「ううー、そっかあ」
「これも練習でしょ。使いながら覚えるしかないよ。私も条件は同じだからさ」
「早速使っていい?」
「いいけど、干し場は?」
「あ……」
「ホムセンで仕入れなきゃ」
まだまだです。はい。
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