第6話 男泣き
ちょっと微妙なやり取りだったけど、紗枝さんに私の事情をオープンにしたので気分的にはすっきりした。あとは、めーちゃんが松橋さんとどういう話し合いをしたかなんだよなあ。
めーちゃんは、結構頑固そう。一度決めたら容易に引かないタイプだと思う。先にシェア継続の意思を固めてたから、ぐらつかないんじゃないかな。いくら相手が松橋さんであってもね。
紗枝さんの後ろにくっついてリビングに出たら、松橋さんが苦虫を噛み潰したような顔でソファーに座っていた。めーちゃんはすっきりしたっていう表情。松橋さんはめーちゃんの説得に失敗したみたいだな。ははは。
私の特殊事情はもう紗枝さんに伝えたから、少なくともめーちゃんのご両親が懸念していたことの半分は解消できたと思う。松橋さんもいずれ私の無性について知ることになると思うし、その時点でなるようになると割り切るだろう。あくまでも仲介役であって、当事者じゃないから。
実際、シェアがどのくらい維持できるのかはやってみないとわからない。まだ走り出してもいないんだ。私とめーちゃんのどちらかが無理だと判断すればシェア解消になるし、シェアの場合は可否をドライに割り切れる……というか割り切らないとシェアはできない。前沢先生が踏み切った同棲とかと違って、ウエットなものじゃないから。
そういうシェアの実態を私たちだけでなく親や松橋さんにも理解してもらわないと、ごたごたがずっと残ってしまう。
もやあっとしたクウキが漂っているリビングと違って、引き戸で分けられている隣の部屋(客間?)はやたらにテンションが高かった。声も笑い声もはんぱなく大きい。もうしっかりお酒が入っているんだろう。
しょうがないわねえという表情だった紗枝さんは、私たちを見回したあとでダイニングテーブルを指差した。
「酒飲みは放っておいて、私たちは先にお夕飯にしましょ」
「いいんですか?」
思わず聞き返したら、紗枝さんがさらっと答えた。
「お酒飲みはねえ、食べると飲めなくなると言って食事を最後にするの。つまみがあれば文句は言わないわ」
「そうなんだー。知らなかったです」
「ルイさんは、お酒は?」
「一度も飲んだことがありません」
「え? そうなの?」
めーちゃんが、興味津々で身を乗り出してくる。
「お父さん、飲めそうな感じだったけど」
「植田さんは、ね。でも、母が酒飲みをすごく嫌ってたみたいで」
「あ……」
母と実父との間で私をめぐるごたごたがあった時、酒が絡んでいたことは容易に想像できる。母は決して酒を飲もうとしなかったし、植田さんも常に素面だった。
それでなくともひどく歪んでいた人間関係の中に、予測不能になる飲酒という要素をどうしても持ち込みたくなかったんだろう。それは母の希望というよりも、植田さんの処方だったのかもしれない。
「まあまあ、お夕飯を食べながら話をしましょ」
◇ ◇ ◇
本来なら親子が隣り合って座り、部外者の私と松橋さんがその対面に……ってことになるはずなんだけど。めーちゃんは、さっと私の隣に座った。紗枝さんが寂しそうな顔をしたのがじりっと目に焼きついた。
めーちゃんの中では、まだ出会って間もない私の方が紗枝さんより信頼できる存在……そうなってしまっているみたい。ずっと不在のままだった母親のポジションは、容易に実物で補完されないんだろう。
夕飯は純和食だった。母が作るのとそれほど違わない。んで、とてもおいしい。昼ご飯はポテトだけだったし、散歩したあと栄養補給しなかったからお腹が空いていて、意地汚くがつがつ食べてしまった。めーちゃんはどうかなと思って横を見ると、首を傾げながら箸を送っている。
「うー」
「どしたん?」
「いや、パパの料理と味違うのかなあと思ったけど、いつものっぽい」
「ふうん」
「そりゃそうよ」
紗枝さんが、賑わっている客間に目を向けながら呟いた。
「萌絵が食べていたご飯の半分以上は、わたしが作ってたからね」
「あ……」
「もちろん、丈ちゃんも料理はできるし、上手よ。でも、なんというか……」
ことっと箸を置いた紗枝さんが、目を伏せた。
「男料理、女料理っていうのかな。同じ材料で同じ手順で作っても微妙に味が違うんだよね」
「自分の味、みたいのがあるんですかね」
聞いてみる。
「そうかもね。萌絵が作ったら、きっと萌絵の味になるわよ」
「うー、わたし、料理作ったことないし」
「シェアするなら少しは練習しないと」
紗枝さんにぴしりと言われて、めーちゃんがうっと詰まった。
「そうなんだよねえ……」
「ルイさんは、料理は?」
「前にシェアしていた時に、簡単な料理は覚えました。まだまだ下手くそですけど」
「へえー、シェアメイトさんに教えてもらったの?」
「まーさーかー」
全力で苦笑する。先生、ほとんどナメクジだもん。
「シェアメイトは私のかてきょの先生だったんですけど、家事全滅なんです。仕方ないので、独学で」
「あら! それはすごいわ」
「店長にがっつりどやされましたから。自分のことぐらい自分でちゃっちゃとせんかいって」
「間違いなく言うわね、俊ちゃんなら」
ふふっと笑った紗枝さんが、また賑やかな客間に視線を送った。
「丈ちゃんもだけど、俊ちゃんもトシもみんな苦労してる。だから生活するってことを手抜きしないの。わたしはダメだったわ」
「ええー? とってもおいしいですけど」
「丈ちゃんに教えてもらったのよ」
「パパに? 知らなかった!」
めーちゃんがのけぞって驚いてる。
「生きていたくない。死んでしまいたい。絶望のどん底から浮き上がるための特効薬は、まず『生きる』なの。食べるのは生きることそのものでしょ?」
「うん」
「丈ちゃんの作ってくれたご飯はおいしかったわ。だから、今のわたしがある。まあ、萌絵は食いしん坊だから大丈夫だとは思うけど」
ぷっと膨れるめーちゃん。目を細めた紗枝さんが、しっかり釘を刺した。
「それでも、食べるということをないがしろにしないようにね。あてがわれたものを食べるだけじゃダメ。食べたいものを自分で作って食べる。基本よ」
「はあい」
なにか言い返したくても、まだ料理の経験がないめーちゃんは反論できない。そっぽ向いてるし。それにしても、いいなあ。いろいろあってもちゃんと親子してるじゃん。うちは、その点がなあ……。げっそり顔の私を見て、紗枝さんが首を傾げた。
「ルイさんのお母様は、お料理は上手なの?」
「はい。専業主婦ですから。ただ……ほとんど和食しか出てきません」
「え? そうなの?」
なにそれって顔で私をまじまじと見るめーちゃんに、苦笑を一つ押しつける。
「カレーとかオムライスとかシチューとか。洋食系はまず出てこないの。私は大好きなんだけどね」
「ふうん、変なのー」
「変でしょ。母と私だけなんだから、普通食事はこどもである私の好みも考慮されるはず。全部ではなくてもね」
「うん」
「おそらく、私の実父の好みが和食だったんだ」
それ以上はもう言わない。めーちゃんと紗枝さんは、今のだけで察してくれたと思う。母の心が、私にではなく別れた夫にずっと向いていたということを。私は実父の代用品に過ぎなかったということを。
母には「絶対に自分から離れない夫」がどうしても必要だった。私を庇護するためではなく、実父代わりに寄り掛かるため私を囲い込んだ。献身的に母に寄り添ったプロカウンセラーの植田さんすら、母の実父への想いを薄めることはできなかったんだ。
私は……人を好きになるという感情を否定したくない。それは人間に与えられたもっとも崇高な感情だと思うから。だけど同時に、好きになるという感情はもっとも制御しにくいものだと痛感する。誰かが力尽くで「嫌い」を「好き」にすることはできないし、その逆もできない。
だから私は、親の愛を認めろという勧めや説得に応じるつもりはない。母が私の二十年を取り上げたことを「理解する」ことはできるよ。でも、決して母の所業を許すつもりはないし、私が母を心から好きになることはない。一生、ない。だって、そうでしょ? 母が今でも泣き暮らしているのは、生涯離さずに済むと考えていた実父を完全に失ったから。そこに「私」は一つも出てこないんだ。
植田さんは、母の分まで私の心配をしてくれる。母にも私にも惜しみなく深い情を注いでくれる植田さんは、私にとって紛れもなく「親」だ。でも、母を無条件に親だと認めることはできない。私を産んだ人ではあっても、「母親」だとは認めたくない。
ないないないないない。そういう否定的な見方や考え方だけが脳内を占領するようになったら、足が止まってしまう。鶏小屋を脱出し、独立生活の基盤を固める大事な『今』が無駄になってしまう。それをわかっていても……二十年間溜まりに溜まった猛毒が私を容赦なく蝕む。
ねえ、店長。だから言ったでしょ? 私は天使なんかじゃないんだって。こんな生臭い天使なんかいるものかって言ったのは、洒落や冗談じゃなくて私の本音なんだ。
私は、自分の毒に小突き回されてものすごく酸っぱそうな顔をしていたと思う。そんな私の横っ面を引っ叩くように、突然隣の部屋から大きな泣き声が響いてきた。
「うおおおう、うおおおう!」
男泣きだ。間違いなく丈二さんだろう。困ったわねえという顔で、紗枝さんがゆっくり立ち上がった。
「丈ちゃんも、泣き上戸だから」
「あ、洗い物は私がやります」
「そんな、お客さんに後片付けはさせられないわ」
慌てて手を振った紗枝さんに視線移動でシグナルを送る。最初にめーちゃんを見て、それから号泣が響いている隣の部屋に目を移して。紗枝さんは察してくれたようだった。
「ありがとう」
そう言って、着けかけていたエプロンをさっと外した。
店長は、紗枝さんが丈二さんとめーちゃんの距離を調整するだろうって言った。棘が刺さりまくってしまった親子の関係を少しでも修復するなら、サポーターが場を整えてあげなければならない。
ここに来る直前に店長が口にした言葉を、じっくり噛み締める。一日で何もかもよくなることはない。でも、ましな一日を積み重ねるしかない。うん、確かにそうだね。
まだ怯えの色を浮かべていためーちゃんだったけど。紗枝さんに手を引かれて客間に入っていった。丈二さんの男泣きが一段と激しくなって。もえー、もえーの声が混じった。これで、章さんの幽霊が消えてくれたらいいんだけどな。
でも。皿をシンクに運びながらこっそり溜息をつく。めーちゃんと丈二さんの中でかちかちに固まってしまった氷のような根雪は、簡単には融けないと思う。人間の心はそんなに単純にできていない。時が積み重ねてしまったがらくたをどかすには、同じ年月以上に時間が必要かもしれないんだ。
「類くん」
考え事をしながら皿を洗い始めたら、突然真横から松橋さんの声がしてびくっとする。そういや、夕飯の時は松橋さんが完全黙食モードだったんだ。聞き耳を立てて、私たちの会話の中身をこっそり確かめていたんだろう。
「は、はいー?」
声が裏返っちゃったよ。
「あなたは……不思議な人ね」
「そうなんですかね。自分ではものすごーくまともだと思ってるんですけど」
「まともな人は、俊ちゃんに気に入られないわよ」
どてっ。思わずずっこける。
「んなー」
「お父様も言ってらしたじゃない。曲者だって」
うう、そうだった。まいったなあ。松橋さんはさりげないやり取りもきっちりチェックしてる。さすが弁護士さんだ。
「父から曲者呼ばわりはされたくないんですけどね。お互いさまなので」
「あはは。そうね」
打ち合わせで話をしていたから、父の独特の雰囲気はわかっているんだろう。
「ねえ、類くん」
「はい?」
「正直に言わせてもらう。わたしは今回、本当にやりにくいの」
「どうしてですか?」
「関係者全員、誰も正直にげろしないからよ」
思わず頷いてしまう。確かにそうだ。あまりに状況が特殊で、同じ家族の間ですらきっちりコミュニケーションが取れていない。紗枝さんとめーちゃんとの間はやっと繋がったけど、私と母との間は切れたまま。植田さんも丈二さんも義理の父親だし。で、関係者間の利害関係もぐっちゃぐちゃ。その上、誰が神様でも悪者でもない。本心を隠しているというより、何をどこまでオープンにしていいのかわからないからみんな腰が引けてるんだ。
「店長的には松橋さんに頼りたくなかったんでしょうけどね。萌絵さんと丈二さんのこじれた感情をどこかに軟着陸させるには、どうしても調整の上手な専門家が要るから……」
「それは商売だから構わないわ。でも、ここに落とし込んで欲しいというリクエストが誰からも示されないのはすっごくきつい」
「わかります」
歪んでしまった部分を第三者が調整する。言うのは簡単だけど、結局その歪みは調整者に押し付けられてしまう。松橋さん的には、最後はあんたたちでちゃんと片付けてと言いたいんだろう。でも片付けられる形がすんなり見えてこない。試行錯誤なんだろなあ。と、いきなりビーンボールがぶっ飛んできた。
「中でも、類くんのところがずっとブラックボックスのままなの。私は身動き取れないのよ」
「店長は、私のことをネタにしていろいろしゃべったと思うんですが」
「ううん、ルイはいいやつや。それだけなの」
がくっ。思わず膝が折れちゃった。店長もなあ、いつも私をいじってるんだから、事情を匂わせるくらいしてもいいのに。妙に義理堅いというか、慎重というか。
「そうですね。私は事情を隠すつもりはないんですが、萌絵さんの独立が絡んでいるので手札を開くタイミングが難しいんです。紗枝さんにはオープンにしましたから、ごたごたが落ち着いたら聞いてみてください」
「またそうやって引き伸ばすー」
むすっとむくれた松橋さんを見て、盾代わりにしていた苦笑いを引っ込めた。
「ねえ、松橋さん。レンタルショップで父が萌絵さんに警告したことを覚えていますか?」
「肩書きを鵜呑みにして信用するなって、あれ?」
「はい。社会の厳しさを知らない間は、きちんと距離を置くことでしか自分を守れません。父の処世訓はもっともだと思います。なので、私は『信用する』からは始めません。相手がたとえ松橋さんであっても、です」
松橋さんがさっと顔を逸らした。嫌悪の表情を私に見られたくなかったんだろう。その顔は私がしたいんだけどな。弁護士として知っておきたいことと個人的な興味で知りたいことは、松橋さんの中ではきちんと区別されているんだろう。でもその線引き基準は、私たちにはわからないんだ。
松橋さん、私はめーちゃんたちの家族じゃないの。他人なの。その私のプライバシーをなぜ無神経に掘り返そうとするわけ? 松橋さんは真っ直ぐでいい人だと思うけど、十分なデリカシーを備えているとは決して言えない。私もめーちゃん同様に人間不信という深い傷を抱えたままだから、そう簡単に警戒を解くことはできないんだ。
男泣きと同時に明かされる真情がある一方で。こうして隣り合って立っているのに渡されない心もある。再びだんまりモードに入ってしまった松橋さんの横で、私は吐息を洗剤の泡に何度も吹き込んだ。
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