第5話 秘密にするつもりはない
「萌絵、松橋さんが呼んでるの。ちょっと、いい?」
ドアの外で紗枝さんの声がした。
「あ、はい。今行く。ルイ、ごめんね。中途半端で」
「かまわないよ」
母子と松橋さんの三人で話し合いかと思ったんだけど、なぜか紗枝さんが動かない。めーちゃんが慌てて振り返った。
「あれ? お母さんは?」
「わたしはルイさんと話があるの」
「……」
それぞれ個別に説得なのかなあ。なんとなく、嫌な予感がした。でも、めーちゃんについていくわけにはいかない。
不安そうにリビングに歩いて行っためーちゃんと入れ替わって、紗枝さんがすっと部屋に入った。それから……ベッドにではなく床に正座した。
「娘のことでいろいろとご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
紗枝さんが深々と頭を下げる。うわ、土下座みたいなものじゃん。私も慌ててベッドを降りて床に座った。
「いえいえ、私も非常事態だったものでどたばたしっぱなしで。段取り悪くて済みません」
同じくらいしっかり頭を下げて謝罪する。互いに特殊事情を抱えていたから仕方なかったとはいえ、これまではこれまで、これからはこれからだ。感情的な行き違いを最小限にして、すっきりスタートしたい。
体を起こした紗枝さんは、私の顔をまじまじと見た後でふっと息を抜いた。
「その上で。大変お聞きしにくいんですが、一つ確認させていただきたいんです」
「かまいませんよ」
私は秘密を持ちたくない。できるだけオープンにやりたい。魂胆を隠せば、コミュニケーションがすごく狭苦しくなってしまう。それは絶対にごめんだ。
「あの、あなたは本当に女性ですか?」
「あはは。店長に聞かれなかったんですか?」
「聞いたんですけど。ルイさんに直接確かめてくれと言われて」
「さすがだなあ……」
どれほどおちゃらけていると言っても、第三者である店長の口から私の素性が語られると、それがどんな風に化けてしまうかわからないんだ。伝言ゲームの悪影響をちゃんと考えてくれてる。
店長が私の前任だった村尾さんにあっさり明かしたのは、仕事上必要だからというのと村尾さんの離任が決まっていたからだ。村尾さんの人生には、私の個人的事情なんか何も影響しないからね。さて、さっさと事情説明しよう。
「そうですね。戸籍上はオトコなんですが、男性でも女性でもありません。私は
「は?」
なにそれ。そんな感じでぽかんとしてる。
「私には性がないんです。具体的に言えば、男性器も女性器もありません。うーん、なににたとえたらいいかなあ。衣料品店に置いてあるマネキンみたいなものかも」
「……」
全く想像できないんだろう。絶句してる。さすがにレンタルカレシの時にやったみたいな全裸で証明ってのはできないから、丁寧に説明しよう。
「DSD。日本語だと性分化疾患ていうのかな。私のは両性器完全欠損型です。普通はホルモン治療や臓器移植で男女どちらかに整えるらしいんですが、私は性を決めることを自分の意思で拒絶しました」
「なぜ?」
「無性の自分が、本当の自分だからです」
はっきりと宣言しておく。
「それは私の好みの問題じゃないんですよ」
「あの、どういう……」
「私が無性の障がい者として生まれたことで、母は父から捨てられています。拠り所がなくなった母は、幼い私に依存するようになった。私は二十年間、家に幽閉されていたんですよ」
半幽閉状態だっためーちゃんと重なったんだろう。紗枝さんの顔が歪んだ。いや、そういう顔をしたいのは私たちの方なんだけどな。
「萌絵さんは学校には行けてましたよね。家に閉じ込められていた私はどこにも行けませんでした。母の生きた人形として飼われ続けたんです」
「そ……んな」
「萌絵さんどころの話じゃないです。私は純粋培養の人造人間みたいなもので、外の世界をほとんど知らない。店長と出会えていなかったら、狂っていたかもしれません」
紗枝さんの目の前で、ぽんとかつらを取る。紗枝さんの目が倍くらいに見開かれた。
「わっ!」
「疾患の影響で体毛が極端に薄いんですよ。アソコになにもありませんし。そんな状態で学校になんか行かせられない。すぐにいじめられる。母の心配は仕方ないんですが、だからって家に閉じ込めるっていうのはねえ」
「……」
かつらをかぶり直して、話を続ける。
「支配するオトコ。支配されるオンナ。目の前で見たくないものを見せつけられたら、そのどちらにもなりたくないと思ってしまうんです」
「……ええ」
「ですから、私は生涯無性を通すつもりです」
はっと気づいたように、紗枝さんが慌てて尋ねた。
「あ、あの」
「はい」
「それ、娘には……」
「二十年間幽閉されていたことは最初に話しましたが、私が無性であることは知りません」
「どうして?」
「隠すつもりはありませんけど、自分からべらべらしゃべることでもないので」
「うーん」
「まあ、そのうち気づくでしょう」
「いいんですか?」
「よくないんですか?」
「……」
にっ。笑ってみせる。
「店長が一番わかりやすいです。どっちでもかまへん。仕事してくれればええ。ですから」
「ふふ。俊ちゃんならそう言うかも」
「でしょ」
「そうでしたか……」
「丈二さんにもオープンにしていいと言いたいところなんですけど。萌絵さんが事実を知る前に丈二さんの口から私のことが漏れると、必ず揉めます。それでなくても、萌絵さんはまだ不安定ですから」
「ええ」
「萌絵さんが自力で私の事実を知るまで、丈二さんには伏せておいてもらえますか」
「わかりました」
店長が明かしていないなら、松橋さんも私の事情は知らないんだろう。力技が使える松橋さんが仲裁に入って一気に解決したのはいいんだけど、力技の副作用も大きかったってことか。とほほ。
まあいいや。紗枝さんに私の事情を伝えたから、私と萌絵さんの間で肉体関係がどうのこうのという困った事態にならないことはわかってもらえるだろう。ただ……。
急に顔をしかめた私を見て、紗枝さんが慌てた。
「どうなさいました?」
「いえ、萌絵さん、ちょっと心配なところがあるんです」
「……なんでしょう?」
「人を、受け入れられる受け入れられないできっぱり分けちゃう。で、受け入れる人にはフルオープン、ダメな人は全拒絶。そんな態度で大学生活を送ったら、受け入れた人から嫌われたり裏切られたりした時のショックが大きすぎますし、突き放した人から敵視されるリスクも負ってしまいます」
「あ、わかる」
同じ心配をしていたんだろう。紗枝さんの表情が曇る。
「私は感性ゆるゆるなんで平気ですけど、私みたいのは少数派ですから。白でも黒でもない緩衝地帯をもう少し広げてもらわないと、怖くて」
「そうね」
「だから、極端に囲い込んでいた丈二さんの心配もわからなくはないんですけどね」
「死ぬまで囲い込むことなんかできないわ」
紗枝さんがきっぱり否定した。
「あなたが今されているみたいに、娘もいろいろ経験して生き方を身につけていくしかないと思うの」
確かにそうだ。心配だからと囲い込んでしまうと、その人が丈二さんの代わりをすることになってしまう。ここを離れる意味がない。
まあ、チャレンジしてみるしかないね。私もめーちゃんも条件は同じなんだ。
「それにしても」
紗枝さんが、私を見て不思議そうな顔をする。
「二十年閉じ込められていたとは思えないほど、お話がお上手ですよ」
「ええー? そうですか?」
「はい。理性的だけど、ぱりぱりに乾いているという感じじゃない。一方的にしゃべるでも、言葉が尽きて困るという風でもない。上手に会話の流れをコントロールされてるわ。お店に出られますよ」
「勘弁してくださいー」
「ほほほ」
ほほほじゃないよ。まったく。
「それはたぶん、義父の影響だと思います」
「あら。お母様は再婚されたの?」
「はい。その事実を私に伏せてたんですよ。義父のことはずっとカウンセラーだと言っていたんです。実際、小さい頃からずっとカウンセリングしてもらってましたし」
「えっ」
絶句してる。絶句したかったのは私なんだけどね。
「義父は臨床心理士の資格を持ってるプロのカウンセラーで、話の流れを調整するのがとてもうまいんです。でもそれは、店長のエンターテイナーとしての会話術とは全く違う。ものすごく理詰めでスマートです。私には義父との会話の癖が染み付いちゃったんですよ」
どうしてもしかめ面になってしまう。
「義父との会話は、医者と患者のやり取りみたいなものです。決して楽しいわけじゃないし、言えない本音もあれば腹の探り合いもある。私はあまり会話だと認めたくないんです」
「うわ」
「でも義父の前で無自覚に生の自分をさらせばまんまと丸め込まれてしまうから、義父と同じ方法で距離を調整するしかなかったんです」
私と話をしている時にぽんとできる微妙な間。それが何に由来しているのかわかったんだろう。紗枝さんが何度か頷いた。
「だから。学生がよくするテンポのいいバカ話っていうのが、私にはすんなりできません。バイトの時に店長が鍛えてくれたので、だいぶましにはなりましたけどね」
「娘もそこはまだまだよねえ」
「はい。でも」
「ええ」
「萌絵さんは、感情表現が私よりずっと豊かです。今は何を見ても、聞いても、やっても新鮮でしょうから、自分の幅を広げる絶好のチャンスですよ。そのチャンスは無駄にしないでしょう」
「ポジティブな捉え方ねえ」
「私には、それしか取り柄と武器がないので」
今日、川沿いを散歩した時に思ったこと。私の後ろには二度と見たくないものがいっぱい落ちている。振り返らずにただ前だけを向いて歩いて行ければ、それが一番望ましいんだろう。でも……無理だよ。自分の座標は前だけ見ていたんじゃ確認できないんだ。
通り過ぎたところと今を結び、その先にどう新たな線を引くかをじっくり考える。それが、望んだ未来に近づけるためにもっとも有効な作戦だと思う。だからこそ、過去と繋がっている『今』をできるだけ過去で汚したくないんだ。
忘れることはできない。やり直すこともできない。無にすることも秘匿することもできない。それなら何もかもポジティブに解釈してしまう他にないでしょ。
ふっと短い溜息をついて、紗枝さんが立ち上がった。
「萌絵は……ここをものすごく嫌ってる。家を出たら、もう帰ってくることはないでしょうね」
「さあ、それは私にはわかりません。ただ、私と萌絵さんの間にはすごく大きな違いがあるんですよ」
「違い?」
「そうです」
私もゆっくり立ち上がる。ここはきちんとした巣だ。ご両親にとってだけでなく、めーちゃんにとっても。独立心が芽生え、羽ばたきの練習を始めためーちゃんにとって狭過ぎただけ。私が閉じ込められていた鶏小屋とはまるっきり違う。
「萌絵さんは、いろいろあったにしても深く愛されてきました。あなたにも丈二さんにも」
「……」
「愛し方に問題があったかもしれませんけど、自分を守るために尽くしてくれたことは絶対に否定しないでしょう」
「だといいんだけど」
「いや、間違いないと思います。でも私は違う」
「ええっ?」
突き通すように自分を指差す。
「母にとって、私は父の代用品。義父にとって、私は母の心を安定させるための大事なパーツ。そこに、私の尊厳はどこにもないんです」
「そんな!」
「いえ、間違いなくそうです。母や義父の庇護のアクションを何から何まで否定するつもりはありませんが」
一度言葉を飲み込む。自分のことをオープンにすることは、相応のリスクも伴うんだ。でも、私は自分のネガティブな感情をずっと秘密にしておきたくなかった。
もちろん、私がこれから吐き出す言葉を母や植田さんに直接ぶつけることはできない。だから一度だけ。この一度だけ。偽らざる感情をそのまま吐き出させてもらう。
「いかなる理由があっても、母や義父に理不尽に奪い去られた二十年をちゃらにすることは、絶対にできません」
「……ええ」
正直に言おう。私がどうしても許せないのは、幽閉されたことじゃない。私の自由意思を奪おうとしたことだ。私を意思のない人形……天使にしようとしたことだ。人格操作を目論んだ人たちを、どうすれば許せると言うのだろう。
だからと言って、母や植田さんに同じアクションを返せば共倒れしてしまう。それなら、私はあらゆる汚い過去を可能な限りゴミ箱に放り込むしかない。汚いゴミはゴミ箱に移動しただけで、消え去ることはないんだけど。それでも、ね。
過去の隔離が第三者からポジティブに見えるのは、ものすごく皮肉だなあと思う。
「私には最初から家がありません。もちろん今も、です。私には帰りたい家も、帰るべき家もない。建物だけでなく心の中にも。そこが萌絵さんとは徹底的に違うんです」
じっと私を見据えていた紗枝さんが、やんわり苦笑した。
「なるほどね。いかにあなたが優しいと言っても、娘が無条件であなたを受け入れるわけがないと思ったの。あなたの闇も……いや闇は、娘以上に深い。俊ちゃんもわかってたわけか」
「どうなんでしょう。店長の判断は私にはわかりません。ただ、私は暗いところにもう近づきたくない。これまでの分でお腹いっぱいです」
「そうね」
「萌絵さんもだと思いますよ」
どろどろの話になっちゃったけど。最後は笑顔でしめた。
「共犯者にはなりたくないですけど、宝探しの相互協力ならかっこいいじゃないですか」
「あはは。それ、いいわね」
「でしょう?」
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