9  【あの未来】の結末

【あの未来】のエステルの腹の子は、すくすくと育っていた。だが出産を意識するにつれて、エステルの気持ちは沈んでいく一方だった。


 ランドルフはエステルの腹を撫でながらも、「子が生まれたら、また君を愛せるな」と昏い笑みで囁くのだ。

 この子が生まれたら、またエステルはランドルフに無理矢理抱かれる。また、あの日々が戻ってくるのだ。


 最初は、この子を産んで育てようという気持ちになっていた。だがここまで来ると、果たして何が正解なのか分からなくなってきた。


 そうして……悪阻がなかなか治まらないある日、血相を変えたアーサーが応接間に飛び込んできた。

 そんなことをすればランドルフを怒らせるだろうから彼を追い返そうとしたが、アーサーは頑として動こうとせず、衝撃的なことを口にした。


「……旦那様が、この子を殺そうとしている……?」

「はい。確かに、聞きました」


 真っ青な顔のアーサーが言うに、ランドルフはエステルの診察をする医者から、「奥様の悪阻はかなり重くて、苦しい思いをされている」という報告を受けたそうだ。


 ちょうどアーサーは廊下の花を替えに執務室の近くにいたのだが、開け放たれたままの部屋からランドルフと執事の会話が聞こえてきた。


 執事が、エステルが日々どのように苦しみと闘っているかを報告する。するとランドルフは……言ったのだ。


「ならば、腹の子を堕ろさせてしまえ。エステルを苦しめる者なんて、必要ない」と。


 その後、ランドルフと執事が激しい言い争いをしているのを尻目に、アーサーはここまで走ってきたのだという。


「嘘……! 旦那様が、そんなことを……!?」

「本当です! あの人なら、本当にやりかねない!」


 アーサーは血反吐を吐きそうな勢いで言い、エステルの両手を握った。


「奥様、逃げましょう!」

「に、逃げる?」

「このままここにいたら、奥様の命すら危険です! もし無事にお子様が生まれても、あなたはまたあんな日々の繰り返しになるのでしょう!? それで……いいのですか!?」


 アーサーの必死の言葉は、疲れ果てあらゆることを諦めていたエステルの胸にもガツンと響いた。


 本当に、これでいいのか。

 腹の子だけでなく、自分の身すらいつ滅ぼされるか分からない状況にいても、いいのか……?


「……い、や……」

「奥様……」

「私、もう、嫌だ……! 自由に、なりたいの……!」


 一度枷が外れると、もう我慢できなくなった。

 わっと泣き崩れるエステルを抱きしめ、アーサーは力強く言った。


「僕と一緒に、逃げましょう。僕の故郷に、行きましょう」

「……そんなこと、できるの? あの人から、逃げられるの……?」

「やってみないと分かりません! 僕は共和国出身なので、あっちにさえ逃げられたら地の利は僕にあるはずです。あいつが追ってこない場所まで逃げて、そこで暮らしましょう。お腹の子も、一緒に育てましょう!」

「い、いいの……?」

「いいんです! 僕はっ……ずっと、あなたのことが、好きだったんです……!」


 アーサーの告白に、エステルは心臓が止まるかと思った。

 エステルをかき抱くアーサーは、身を震わせながら思いを吐露する。


「ずっと、前から……あなたのことが、好きだった! あなたを、助けたかった……あなたの笑顔を見たかった! あなたの子どもなら、絶対に大切にします!」

「アーサー……」


 ほろ、とこぼれた涙が、アーサーの服の肩口に吸い込まれていく。

 嬉しい。


 ずっと、友だちのように思っていた……紳士で優しくて真面目なアーサー。

 彼にできる形でエステルを励まし、慰め、力づけてくれたアーサーのことが……エステルは、好きだった。


「うん……逃げる。私、もう、縛られない。あなたと一緒に、逃げたい。逃げて、くれますか……?」

「もちろんだ!」


 シャイで恥ずかしがり屋な彼らしくもなく力強く言い、アーサーはぎゅっとエステルを抱きしめた。











 二人はすぐに、逃亡の準備をした。


 アーサーが言うに、「マードッグ男爵家には、伯爵家の監視が入っています」とのことなので、実家は頼りにできない。頼らず自力で逃げた方が家族を守れる可能性が高いと、アーサーは言った。


 荷物をまとめて馬車を出すと、さすがに使用人たちに見つかった。

 だが家政婦や執事たちは逃亡の意志を固める二人を見て悲痛な顔になり、路銀や食料などを分けてくれた。


「私たちで、旦那様の足止めをします。ですから、すぐに逃げてください!」

「申し訳ございません、奥様。このような形でしか、あなたをお助けすることができず……」


 皆はそう言ったが、とんでもない。


 ランドルフに刃向かった彼らがどうなるのか、エステルには分からない。ただ、恐ろしい目に遭うだろうということは容易に想像できた。


 それでも、彼らはエステルの逃亡を支援してくれた。それだけで十分だから、彼らも自分の身を大事にしてほしい。


 そうしてエステルはアーサーが御する馬車に乗り、伯爵邸を出発した。夜の闇に紛れて馬車を走らせる二人を、門番たちでさえ痛ましい表情で見送ってくれた。


「大丈夫ですよ、奥様。絶対に、無事に連れて行きます」


 道中、アーサーはそう力強く言ってくれた。とても快適な逃避行とは言えなかったが、アーサーがいてくれるからエステルは、気を強く保っていられた。


 まず二人は、国境沿いにある教会を目指す。そこでエステルが修道女になることで伯爵夫人の身分を無理矢理返上し、自由の身になる。修道女になるとアーサーとの再婚は不可能になるが、それでいい、と二人は決めた。そうして落ち着いたら国境を越えて、アーサーの故郷に行く予定だった。


 ……だがそんな必死の抵抗も、王国で絶大な権力を持つ伯爵の前では意味を成さなかった。


 あと少しで目的地の教会というところで、二人の馬車は襲撃を受けた。

 エステルは、斬りつけられて御者台から転げ落ちたアーサーを助けようとしたが、背後から捕まえられてしまう。


「ああ、よかった、エステル! 無事だったか!」

「だ、旦那様……!?」


 エステルを拘束するのは、ぞっとするような笑みを浮かべたランドルフ。アーサーは兵士たちに捕らえられ、地面に押し倒されている。兵士たちの顔に見覚えがある者は一人もいないから、ランドルフが新たに雇ったのかもしれない。


「やめてっ! その人を殺さないで!」

「エステルは、優しいね。……だが、伯爵夫人を拐かした罪人を、罰さずにいることはできない」

「違う、違うの! 悪いのは、私だから! アーサーを離して、離してあげてっ!」

「奥様っ……」


 苦しそうな声を上げたアーサーが、顔を上げる。泥と地にまみれてもなお、その人はどこまでも格好いい、エステルにとっての英雄だった。


 だがエステルを兵士に託したランドルフは剣を抜き、アーサーに近づいていく。彼が何をしようとしているのかすぐに分かり、エステルは必死に抵抗する。


「やめて、やめぇっ! やだ、アーサー、アーサー!」

「おく、さま……」


 ランドルフの背中によって、アーサーの姿が見えなくなる。


 ランドルフが、銀色の刃を振り上げ――


「……好きだよ、エステル」


 かすかな告白の言葉の直後、鈍い音が響いた。


 びしゃ、と血が跳ねる音がして、エステルの頭が真っ白になる。


「……あ」

「エステル」


 ランドルフが、振り返った。

 その頬や胸元にべったりと付いているのは――エステルが恋した人の、返り血。


「さあ、帰ろう。私たちの屋敷に、ね」


 赤黒い血を浴びて、ランドルフはどこまでも優しく微笑んでいた。











 それからのことは、断片的にしか覚えていない。


 アーサーを殺されたエステルは、抵抗する気力もなくなっていた。そのまま豪華な馬車に乗せられて伯爵邸に帰ったが、屋敷の中は不気味なほど静まりかえっている。


「あの庭師もそうだったが、君を拐かすのに協力した連中が、たくさんいてな」

「……」

「大丈夫。そいつらは全員……殺してあげたからね」


 どうして、とエステルは笑顔のランドルフに問う。


 どうして、こんなことをしたの。

 どうして、こんなことになったの。

 どうして……私は、逃げようなんて思ったの?


 エステルが逃げなければ、少なくとも皆が死ぬことはなかった。

 エステルさえ我慢していれば、皆は、アーサーは、生きていられたのに。


 憎い。

 この男が……そして、愚かな自分が、憎い。


 ぎゅっ、と着ている服の胸元を掴む。そこには、「一応、護身のために持っておいてね」とアーサーから渡されたものが入っている。


「新しい使用人をすぐに雇うから、エステルは気にしなくていい。さあ、お腹の子にも障るだろうから、すぐに休んで……」

「……ろし」

「うん?」

「このっ……人殺しっ……!」


 怒声を絞り出した直後、エステルは胸元から引き抜いたそれを思いっきり、自分の肩を掴む男の顔面に向けて突き刺した。


 技術も何もないめちゃくちゃな一撃だったが、それは間違いなく肉を裂き、鈍い手応えが皮膚に伝わってきた。


「がっ……!?」

「最低っ……! あなたはっ! 最低の男よ!」


 エステルが突き出したナイフを左頬に喰らったランドルフがよろめいた隙に、エステルはその拘束から離れた。


 右手に持った刃は、血で濡れている。

 エステルを穢し、閉じ込め、苦しめ――エステルを守ろうとしてくれた多くの者を殺した男の、血が。


 エステルはそれを、自分の喉にかざした。

 それを見てさしものランドルフも血相を変え、左頬を手で押さえながら駆けてくる。


「待てっ、エステ――」

「ねえ、旦那様」


 エステルは笑って、


「大っ嫌いです」


 自分の喉を、掻き切った。

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