10 身勝手な愛

 あ、とエステルの喉から、小さな悲鳴が上がる。


 思い出した。思い出してしまった。


(私は……たくさんの人を失い、最後には自害した――)


 ずっと、忘れていた。

 ずっと、思い出さなかった――思い出すのを、自分自身が拒否していた。


「おまえっ……! 余計なことを!」

「余計? おまえは本当のことを知っていて、エステルを騙していた。私はただ、真実を指摘してやっただけだろう?」

「違うっ! 僕は……【あの未来】を無理に思い出させない方がいいと思ったんだ! 僕さえ黙っていれば、エステルは傷つかないから! 覚えていないのなら、それでいいからっ……そっちの方が、幸せになれるはずだから……」

「ふん、とんだ自己満足だな」


 アーサーとランドルフが、言いあっている。


(そう、だったのね。アーサー、あなたは……)


「アーサー、旦那様」


 エステルが声を上げると、男たちは振り返った。

 アーサーの目には絶望の色が、ランドルフの目には安堵の色が浮かんでおり、エステルは吐き気と頭痛を堪えて立ち上がる。


「私……思い出しました。アーサーたちを殺されて、私も自らナイフで喉を切って、死んだ【あの未来】のことを」

「死ん……!?」

「そうか。それはよかった」


 エステルの死を知らないアーサーがショックを受け、ランドルフがなぜか満足そうにうなずいているのを見つめ、エステルはそっとアーサーの手を握った。


「アーサー」

「っ……ごめ、ん。僕の勝手な判断で……」

「ううん、そんなことはない。だってあなたは今回も前回も……私のためを思って、行動してくれたもの」


【あの未来】では、エステルを救い出すために必死に逃亡した。

 今回はエステルの心の傷をよみがえらせるまいと、忘れている【あの未来】のことには蓋をしたままにして、エステルをこの国に連れてきてくれた。


「ありがとう、アーサー。……【あの未来】であなたが死んだときのこと、自分で死を選んだときのこと、思い出してしまった。でも、あなたはずっと、優しかった。そんなあなたのことが……私は、好きなの」

「えっ」

「なっ……! 貴様、エステルを懐柔して――」

「……いい加減にして!」


 決死の告白さえ邪魔されて、エステルの頭の中でぷつん、と何かが何本か切れた。


 エステルは立ち上がると、玄関の壁に立てかけていた箒を手に取った。そしてその先端を、ランドルフの顔に突きつける。


「まだ、分からないの!? 私は【あの未来】の最期でも、言ったわよね? 大嫌い、って」

「ああ。その庭師に騙されて――」

「ほら、そうやってすぐに私の言葉を否定するでしょう?」


 ぐっ、と箒の先を向けるのは、ランドルフの左頬。

【あの未来】でエステルがやってのけた、最初で最後の抵抗を施した場所。


「私のためと言っておきながら、私の願いを一つも叶えてくれない。私が少しでも、自分の意に反することを口にすれば、『誰かに吹き込まれたのだろう』と無関係者を罰する。それが、愛ですって? 笑わせないで。一方的でしつこくて身勝手な愛なんて、迷惑なだけなのよ! それが、どうして分からないの!?」


【あの未来】のエステルは、ナイフの一撃でランドルフに自分の怒りを、憎しみを、伝えたつもりだった。そうして最後に自ら喉を掻き切ることで、ランドルフが「人殺し」であるという事実をたたきつけようとした。


 それなのに……無駄だった。

【あの未来】を思い出したというのに、ランドルフは何一つ変わらなかった。


(もう、【あの未来】の私がたどった過ちは、繰り返さない!)


「あなたが愛しているのは、私じゃない。あなたは、私自身を求めているんじゃない。あなたがほしいのは、自分の思うままに動いて望む言葉だけを言って、都合よく抱くことのできる女なのでしょう!」

「何を言っている? 私は、明るくて溌剌とした君だから好きになり、愛して、結婚したのだよ」

「私の同意も求めず、結婚宣誓書に偽造のサインをしたくせに? あなたのやっていることは愛情表現ではなくて、ただの迷惑行為よ。自己満足も甚だしいし、正直気持ち悪い」

「……き、気持ち悪い……?」


 伯爵家の嫡子として育った彼は、これまでの二十数年間の人生で一度たりとも、「気持ち悪い」なんて言われたことがないのだろう。かなりショックを受けた様子だ。


「ええ、とっても気持ち悪いし、幼稚よ。あなたは、自分のほしいものが手に入らなかったらだだをこねて八つ当たりをする幼児と同じ。伯爵様ともあろう人が……情けないわ」

「エス――」

「アーサー」


 箒をぽいっと投げて、エステルはアーサーの胸に飛び込んだ。とん、と顔を近づけた彼の胸元からは、優しい花の香りがする。


「私、あなたのことが好き。ずっと……好きよ」

「エステル……」


 ぽかんとしたアーサーに微笑みかけ――エステルは彼の頬に手を添えると背伸びをして、思い切って唇を押しつけた。


 ガチ、と音がした。


「んっ!?」

「ぶっ」


 勢いに任せてやったからか、歯がぶつかった。慣れないことはするものではない。


 だがファーストキス失敗にもめげずにエステルが唇を押しつけていると、最初は硬直していたアーサーの腕がエステルの背中に回り、そっと抱きしめられた。


 ずっと、このぬくもりがほしかった。

 このぬくもりを、失いたくなかった。


「アーサー……」

「ん、エステル……」


 力任せで体当たりしたエステルとは対照的に、アーサーは丁寧にエステルの唇をなぞり、控えめなリップノイズを立てながら口づけに応えてくれた。


 しばらくすると唇が解放され、ふはぁ、とエステルは甘いため息を吐き出した。

 それを見たアーサーは、つと隣を見やる。


「……伯爵。あなたは【あの未来】で一度でも、エステルのこんなとろけた顔を見たことがありますか?」

「……それはっ!」

「一度でも、エステルの方から口づけをねだったことが、好きという言葉を聞いたことが、自ら抱きついてきたことが、ありますか? ないですよね? 知ってます」

「っ……!」

「これが、答えです。……もう、僕たちには関わらないでください。僕たちはここで、静かに幸せに暮らします。そこにあなたが入ってくる余地は、ないのです」


 そう言ってアーサーがエステルをぎゅっと抱きしめた瞬間、ランドルフの瞳が見開かれた。だがその目はすぐに輝きを失い、右手が腰に伸びる。


「っ……このっ、下民風情が……!」

「下がって、エステル!」


 しゃん、と抜かれたのは、銀の刃。

【あの未来】で見たのと同じ――アーサーたちを殺した、冷酷な刃。

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