7 不穏の気配
エステルたちの屋敷は、オブライエン家本邸から歩いてすぐの場所にあった。屋敷といっても二階建てで、使用人も二人いれば十分ことが足りる。
そういうことでエステルたちは料理や掃除、洗濯などをしてくれる使用人を二人だけ雇い、彼女らに家事を任せていた。
「アーサー。うちの両親から手紙が来たわ」
通いの使用人たちが帰った後の夜、お茶を飲んでいたアーサーにそう言ってエステルは手紙を見せた。
「お兄様のところに、女の子が生まれたそうなの」
「そうなのか? それじゃあ、お祝いの手紙と贈り物をしないとね」
「う、うん。でも、私がするからアーサーは手紙の最後のサインだけでいいわよ?」
「何を言っているんだ。僕たちは夫婦、ひいては協力し合う関係なんだから、こういうときには一緒に物事をするべきだろう」
アーサーに当然とばかりに言われて、エステルは苦笑をこぼす。
結婚して一年半経過したが、エステルとアーサーは「協力関係にある同居人」の立場を保っている。
諸事情があって結婚して二人だが、なかなかどうしてアーサーとの生活はエステルにとって心地よかった。
一緒に食事をして、花を育てて、日々の雑談をして、困ったとがあったときには相談して、少し辛いことがあったら悩みを打ち明けられる。そんな関係が、心地よい。
それはアーサーも同じのようで、「結構僕たち、波長が合うみたいだね」と笑っていた。
夫婦でありながら彼と愛を語り合ったことはないし、キスももちろん、一緒のベッドで寝たこともない。
ただ、同じ秘密を共有しておりそれぞれに利益と目的があって同居生活を送っているだけの、割り切った関係。
(でも……もしここから出て行け、と言われたら辛くなるわね)
男爵夫妻からの手紙を読むアーサーを見つめながら、エステルは思う。
もしアーサーから離縁を言い渡されても、エステルには店があるから生計を立てていられる。あの店は最初こそオブライエン家の支援のもとで始めたが、今ではエステル名義の店舗になっており貯金も順調に貯めていた。
それより、アーサーと一緒にいられない生活はもう、考えられない。
こうしてたわいもないことを話したり、きれいな花を愛でたり、おいしいものを食べたりする生活を、これからも続けていきたい。
そんなことを考えながらアーサーの顔を見ていると、とくん、とくん、と心拍数が高まっていくのを感じる。
彼のことが、好きだな。
そう思うようになったのは、いつからだっただろうか。
黙々と花の手入れをする後ろ姿とか、風呂上がりのしどけない姿とか、寝起きのぼうっとしている姿とか、はにかみながら花を差し出す姿とか。
そういう彼の仕草に胸がときめきを感じるようになって、もうかなり経つような気がする。
(でも、それを言うことはできないわ)
エステルはずっと、アーサーに甘えておんぶに抱っこ状態になっている。ただでさえ彼に負担を強いているのに、「好き」という感情を押しつけることはできない。
(お茶、淹れてこよう)
席を立ったエステルは使用人がきちんと後始末を済ませた厨房に向かい、茶の仕度をした。使用する茶葉は市販のものだが、そこに乾燥させたクリスタルフラワーを浮かべる。
クリスタルフラワーは基本的に観賞用だが、食べることもできる。特に砂糖漬けにしたものは見目もきれいで味もよいということで都でも人気で、高級菓子店でも取り扱われているそうだ。
そんな高価なものは使えないので、エステルが自分で作ったものを利用した。出荷できるほどの品質ではないが、ジャムや果汁と一緒に煮込むことで透明な花びらに色とりどりの結晶が付いたこれらは、店でも人気の品だった。
二人分の茶をトレイに載せてリビングに戻り、アーサーの前に置く。
「お茶、どうぞ。これ、私が今日作ったクリスタルフラワーの砂糖煮よ」
「……あ、本当だ。いつも思うけれど、エステルが作る砂糖煮、すっごくきれいだよね」
手紙から顔を上げたアーサーはそう言って、紅茶の水面に浮かぶ砂糖菓子をしげしげと見つめた。
「僕、クリスタルフラワーを育てるのとアレンジするのは得意だけど、どうにもこうやって食用に加工するのは苦手なんだよね。エステルはすごいよ」
「ふふ……ありがとう。店の子たちも、最近これが上手に作れるようになってきているの」
「それはいいね」
アーサーはそう言ってクリスタルフラワー入りの紅茶を飲み、ふとエステルを見てきた。
「……その、エステル。もうすぐ、君の誕生日だね」
「……ああ、そうね」
アーサーに聞かれて、うなずく。
去年も、国境を越えて家族や友人からお祝いのプレゼントが贈られてきていたので、来週あたりからそろそろ贈り物が届き始めるだろう。
「君はいつも仕事を頑張っているけれど、何かほしいものとかはない? 何でもいいよ。高価なものでも珍しいものでも、張り切って探すから」
「ほしいものねぇ……」
顎に手を当てて、考える。
(【あの未来】の私は、旦那様からほしいものを尋ねられてそれに答えても、本当にほしいものは一度ももらえなかったわね)
エステルの誕生日には、豪勢な食事と薔薇の花束が贈られた。それはそれで嬉しくないわけではないが、それよりももっとほしいものはあったのだが、夫がそれを与えてくれることは一度もなかった。
むしろ、エステルが下手なお願いをすればランドルフは見当違いな方向に怒りの矛先を向け、被害者が屋敷から姿を消すようになったので、エステルは何も言えなくなっていったのだった。
(でも、アーサーはほしいものをくれるわ。むしろ、「もっとおねだりするべきだよ」って言ってくるくらいで……)
本当に、自分にはもったいないくらい素晴らしい旦那様だと思いながら、エステルは口を開いた。
「それじゃあ……馬がほしいわ」
「馬? 乗馬用の馬ってことだよね?」
「うん。ほら、アーサーはよく家族で遠乗りに行ったって言っていたでしょう? 私も乗馬を習って、アーサーと一緒にお出かけがしたいの」
王国における乗馬は男性貴族のたしなみだったが、共和国では男女問わず高貴な身分の者は乗馬を習うものらしい。オブライエン家でも幼少期から乗馬を教わっており、アーサーはよく愛馬を連れて散歩に行っている。それが、うらやましかったのだ。
エステルの言葉を聞き、アーサーは微笑んだ。
「そう言われると、だめなんて口が裂けても言えないな。分かった。今度、名馬を――いや、一緒に馬を見に行かないか?」
「いいの?」
「うん。エステルだって自分が気に入った子を連れて帰りたいだろうし、近くで見ないと分からないこともあるだろうからね。それに、乗馬となると馬具が必要だし、それも買わないと」
「あ……ごめんなさい。かなり値が張るわよね……」
「何を言っているんだ。いつも言っているけれど、君はもっと強欲になっていいんだよ。むしろ、馬ならもっと早くに買ってあげるべきだったよね、ごめん」
「もうっ、あなたが謝らないで」
とんっとアーサーの胸を押し、彼の謝罪をやんわり却下した。
「それじゃあ、馬をお願いね。誕生日には遅れても全く構わないから」
「そうだね……あ、じゃあ君の誕生日に馬を見に行く? それで帰りにはちょっと豪華な夕食でも食べて」
「素敵ね……ありがとう、アーサー」
エステルの予想以上にかなり豪勢な誕生日になりそうだが、アーサーは嬉しそうなのでこれでよかったのだろうとエステルは思うことにした。
ちょうど二人のカップが空になったのでそれをトレイに載せ、厨房に持っていこうと立ち上がったが――
「あの、エステル」
呼ばれたので振り返ると、いやに真剣な顔をしたアーサーと視線がぶつかった。
彼は恥ずかしがり屋ゆえに視線を逸らすことが多いのだが、こうしてまっすぐ見つめてくるときは――真面目な話をしようとしているのだと、エステルは知っている。
「……君は今、幸せ?」
藪から棒に投げられた質問に、エステルは一瞬きょとんとして、そしてふふっと笑った。
「もちろんよ。こんなに素敵な場所で、優しい人たちに囲まれて、アーサーと一緒にいられるのだから……私は本当に、幸せ者よ」
「そ、そっか。僕もいるから……なんだね?」
「えと……う、うん。そうよ」
念を押されると、なんだか恥ずかしくなってくる。
(ううう……深い意味じゃない、はずだけど……恥ずかしい……!)
ついエステルは照れ隠しと気まずいのとで視線を逸らすが、アーサーは咳払いをした。
「……その、エステル。君と結婚して結構な時間が経ったけれど……」
「う、うん」
「僕は、その。君の夫だけれど、改めて――」
――ドンドンドンドン!
「アーサー坊ちゃま! いらっしゃいますか!」
アーサーの声をかき消す爆音でドアが鳴り、誰かが叫ぶ声も聞こえてくる。
アーサーのことを「アーサー様」や「旦那様」ではなくて「坊ちゃま」と呼ぶのは、オブライエン家の上級使用人だ。
最初はむっとした様子のアーサーだったがすぐに表情を引き締めて立ち上がり、玄関の方に向かった。
それじゃあ、とエステルも持ったままだったトレイを置いて夫の後を追うと、ドアを開けたアーサーとぜえぜえ息をつく中年男性の姿が見えた。
(彼は……確か、オブライエン家の執事?)
「どうしたんだ、クリフトン。もう夜だが……」
「夜分遅く、大変申し訳ございません」
クリフトンと呼ばれた執事は息を整えて顔を上げ、廊下の先にエステルがいるのを見るとさっと表情を引き締めた。それだけで、十分嫌な予感がする。
「本邸の方に、お客様がいらっしゃったのです」
「こんな遅い時間に、客……? 僕に用事か? 誰だ」
「そ、それが、ハリソン伯爵家のランドルフ様とおっしゃいまして」
(……はい?)
クリフトンの言葉にエステルとアーサーは息をのんだが、衝撃はそれだけでは収まらなかった。
「その方が、妻を出せとおっしゃっているのです」
「妻……?」
「はい。エステル・ハリソンを連れてこい。彼女は自分の妻だ、とおっしゃっているのです。あの、どういうことなのでしょうか……?」
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