5 二人の逃亡計画
「ええと……でもそうしたとして、その後はどうするの? うちには領地がないから、引きこもることはできなくて……ごめんなさい」
「ううん、マードッグ男爵家の事情は分かっているから、気にしないで。だから、もしよかったら君を僕の故郷に連れて行こうと思うんだ」
「あなたの故郷?」
そういえば【あの未来】で、アーサーの出身地について話してもらったことがある。
彼は王国の東の国境を越えた先にあるリミテア共和国出身で、地方領主の養子だという。
領主夫妻は長らく子に恵まれなかったため、事故により両親を亡くした遠縁の子であるアーサーを引き取って養子にした。
しばらくして実子が生まれて後継者問題になったが、アーサー本人の希望もあって家督はその子が継ぐことになり、アーサーは領の特産品である花を育てる仕事を始めたそうだ。ハリソン伯爵家に来たのも、実家で培った能力を生かし修行するためだったという。
「うん。そこまで豊かなわけじゃないけれど戦争とは無縁のところだし、自然もたくさんある。僕は元々そこでクリスタルフラワーってのを栽培していたから、その仕事を再開すればいい。女性の働き手もたくさんいるから、もし君が望むのならそこで好きな仕事を始めてもいいよ」
「えっ、いいの!?」
【あの未来】でのランドルフは、何一つエステルの願いを叶えてくれなかった。だから、誰にも邪魔されず好きなことをできるという環境はエステルにとって大変魅力的だ。
(……でも)
「……私にとってありがたすぎる条件だけれど、あなたはそれでいいの? 偽装結婚といっても、旦那様を完全に欺くには結婚宣誓書を出す必要があるわ。そうなったら……いくらかりそめの関係でも、あなたは私を妻にしないといけないのに」
「……あのさ。それが嫌だったら、最初からこんな提案しないよ」
アーサーは目を伏せ、グラスの底に残っていたレモン水を一気に呷ってから続けた。
「少なくとも僕は、君を奥さんにするのが嫌いじゃない。僕は我ながら人付き合いが悪い自覚があるけれど、君となら一緒にいて楽しいし。なんというかその、夫婦というより仲のいい男女が共同生活をしているみたいな気持ちでいればいいんじゃないか?」
アーサーはあっさり言ってのけたが、腐っても男爵家の娘であるエステルからすると「恋人でもない未婚の男女が、二人きりで共同生活を送る」というのをなるほどそうですかと受け入れることはできない。
(……でも、彼は善意でこう言ってくれている。私を助けるために、手を尽くそうとしてくれるのだから……)
運命を変える、と豪語した。
それならば。
「……分かったわ。私、あなたと一緒に行くわ」
エステルは、【あの未来】を打ち砕く決意を固めた。
秘密の共犯者となったエステルとアーサーはそれぞれの仕事をしながら、準備を進めることにした。
まずアーサーは共和国にいる家族に、「結婚したい人ができた」と連絡をした。
彼が伯爵家で働き始めてすぐではあるが、「両親も弟も、理解はある人だよ」ということらしいので、【あの未来】のことは言わなくても早めに味方に付けておくに越したことはないとアーサーは言った。
そしてエステルも家族に、「結婚を考えている人がいる。その人の故郷に一緒に行きたい」と相談した。皆驚いていたが、エステルの心配をいい意味で裏切り早めに理解を示してくれた。
父はエステルを自分の友人の息子のもとに嫁がせようと考えていたみたいだったが、「おまえの気持ちが一番だからな」と背を押し、母や兄弟たちも応援してくれた。
(……【あの未来】では、屋敷に軟禁されてからお父様たちに会うことも、手紙のやり取りをすることもできなかった。でも、これならアーサーと結婚してもつながりを持っていけるはずだわ)
そして二人の共同作業として、「想い合う仲であることをアピールする」ということがあった。
働き始めて三年目になったエステルは、最近やってきた無口な庭師といい感じになっている。ほとんどの他人に対してそっけないアーサーも、エステルの前では相好を崩している。
――そういう印象を早くから皆に植え付けることで、結婚への準備を進める。同時に、未だエステルを指名しようとするランドルフに牽制を入れる。
「ああいうタイプは、潔癖を好むものなんだ」
二人が作戦を開始して二ヶ月経ち、諸々の準備が整い始めた頃にアーサーが言った。
「伯爵はまっさらな君を束縛し、自分だけのものにしようとしている。だから……なんというかその、もし君が……」
「……ああ、分かったわ。もし私があなたと婚前交渉した上で結婚を報告したら、旦那様も私を嫌悪するということね!」
言葉を濁すアーサーの代わりにエステルが言うと、アーサーは苦い顔をしつつもうなずいた。
「……うん。こういう手法を採るのは、君は嫌かもしれないけれど……あいつが追っ手を向けてきたりするのを完全に防ぐには、用心するに越したことはないからね」
「うんうん、分かるわ。……うん? あの、それって本当に婚前――」
「あ、いや、もちろん嘘だよ。何もしないからね! でももし僕たちがそろって出かけて朝帰りをしたとなったら……」
「……皆、そういう関係になったと思うわね」
エステルが眉根を寄せると、アーサーは少し目を泳がせた。
「そういうこと。……そうして僕が、『責任を取るためということもあり、愛する人と結婚します』と言えば伯爵や家政婦たちも文句は言えないだろう。ただ、いろいろ言われるとは思うけれど」
「いいじゃない。それくらい平気だし、ふしだらな女と思われても構わないわ」
「……ごめん」
「もう、謝らないで。……それじゃあ、諸々の準備が整ったら最終作戦に移る感じ?」
「うん。……あの伯爵、わりと闇が深い感じだからな。僕たちの予想を超えた行動を取る前に、【あの未来】についての知識を持っている僕らで対応して逃げ切るべきだ」
「分かったわ」
アーサーにうなずきかけて、エステルは目を閉ざした。
(もうちょっと。もうちょっとで……私は、【あの未来】から逃げられる)
そうしたら、何をしようか。
まずは、アーサーの故郷に行ってその土地を存分に堪能しよう。それからやりたいことを見つけて、アーサーの邪魔にならないように自分の生活費くらいは自分で稼ぐ。
【あの未来】では伯爵夫人だったので、金は余るほどあった。だが、きれいなだけで冷え冷えとした寝室に押し込められるより、多少金の不安はあっても自由に歩き回れる草原の方がずっと、エステルには魅力的に思えた。
エステルがアーサーと再会して計画を始めてから、三ヶ月目。
とうとう二人は示し合わせて夜に屋敷を離れた。
といっても向かった先は、エステルの実家であるマードッグ男爵邸。両親にアーサーを紹介して、「どうしても彼と結婚したいから、嘘の既成事実を作りたい」というところまでは打ち明けた。
母や弟は驚いていたし父と兄はアーサーをにらんでいたが、アーサーが誠実な人間だと分かると態度を軟化させ、「エステルをよろしく頼む」と言ってくれた。
そうしてエステルは自室で、アーサーは客室で寝た翌日、二人はきちんと自分たちの手で書いた結婚宣誓書を手に伯爵邸に戻り、最後の計画を行った。
結果として、作戦は大成功だった。
二人とも家政婦と執事にこれでもかというほど叱られたが、結婚して二人で屋敷を離れる許可が下りた。ランドルフのところにも話が行ったそうだが、彼は「そうか」とつまらなそうに言うだけだったという。
(ここ数ヶ月、私がアーサーにべったりだから指名もされなくなっていたし……いい感じに興味を失ってくれていたのね!)
家政婦には厳しい口調で解雇を言い渡されたが、案外同僚の女性使用人たちからは「うらやましい」「幸せにね」と好意的に送り出してもらえた。また、「家政婦も、なんだかんだ言ってあんたたちの幸せを願っているはずよ」とこっそり打ち明けられたりもした。
そうして二人は晴れて伯爵邸を離れて、一旦マードッグ男爵邸に寄って旅支度を調えてから、アーサーの故郷――リミテア共和国西端にあるアシュリー地方に向かったのだった。
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